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夕食の準備を整え、声をかけに行った頃にはいつの間にか瑞瀬様の姿は消えていた。
「お帰りになられたのですか」と聞いてみると苦々しげに眉を寄せた淡稀様がとても印象的だった。
夕食後、お酒を私室に持ってきてほしいと頼まれたので徳利とお猪口を盆に載せ、淡稀様の部屋へと向かう。
「淡稀様、お酒をお持ちしました」
「入ってよいぞ」
失礼します、と静かに襖を開ける。途端、飛び込んできた光景に目を奪われた。
淡稀様の綺麗な銀髪は月光を受けてきらきらと輝き、白い肌をより際立たせていて。月を見上げる端麗な横顔はまるで一枚の絵のようで。こんなにも美しい光景があるのかと、ただその場に立ち尽くす。
そんなわたしに気付いたのか、淡稀様の視線がこちらを向き、口元が弧を描く。
「どうした、入ってこい」
「し、失礼致しました…っ」
礼をし、私室へと足を踏み入れる。
お待たせ致しましたと盆を置く手が、微かに震えている気がする。
淡稀様が美しいことは、初めてお会いしたときから分かっていることなのに。どうしてこんなに動揺しているのだろう、わたしは。
お猪口を手に取った淡稀様にお酒をお注ぎする。ゆっくりと口元まで運ぶ所作まで言いようのない美しさがあって、余計に動悸が収まらない。それをどうにか誤魔化したくて、無理矢理言葉を探す。
「お月見、ですか」
「ああ。今宵は特に見事な満月だ。翠も見てみろ」
そっと身体をずらし、窺い見た夜空にはぽっかりと浮かぶ満月。
まるで切り抜かれたように銀色の光を放つお月様は、淡稀様のおっしゃる通りとても見事なものだった。
「とても綺麗ですね」
「だろう?月を見ながらの夜酒はまた格別でな。ほら、お前も付き合え」
「え…っ」
ん、と徳利を差し向けてくださる淡稀様に驚き慌てる。
「あ、淡稀様と同じお酒など、とんでも御座いません…!」
「一人酒では味気なかろう。付き合ってくれ」
「淡稀様の手ずからなど…っ」
「また食事のときのような押し門答を繰り広げるつもりか?」
やや意地悪そうに笑む淡稀様に言葉が詰まる。
観念してお猪口を取り、恐縮しながら淡稀様にお酒を注いでいただく。
本来ならあり得ないことだ。格上の、それも神様にお酌していただくなんて。けれど淡稀様は当たり前のような自然さでもって、それを与えてくれる。
おずおずとお猪口に口を付け、お酒をほんの少し含む。口内を満たす独特の苦みと形容しがたいわずかな甘み。どうにか呑み込み、けれど耐えきれず噎せてしまうと淡稀様は笑った。
「酒は初めてか」
「お、恐れながら…」
「それは悪いことをした」
そう言ってわたしのお猪口に手をかざす。
不思議に思ってそれを見つめていると、「飲んでみよ」と告げられた。
戸惑いながらも再び口にしたお酒は先ほどのような苦みはなく、それどころか花のようなまろやかな甘さが口いっぱいに広がる。
驚きに目を丸くして淡稀様を見つめると悪戯が成功した子のような微笑みを返してくださった。
「それなら翠にも飲みやすかろう」
「ありがとうございます、とても美味しいです」
「酒は楽しめねば意味は無いからな」
…嬉しい。お酒が飲めたことじゃなくて、淡稀様がわたしに心を砕いてくださったことが。
胸がぽかぽかする。この気持ちは、一体なんだろう。
物思いにふけっていると、不意に間の抜けたくしゃみが口から滑り出た。
「申し訳ございません、お耳汚しを…」
「寒いか?ふむ、今宵は少々冷えるからのう」
「わ、わたしはこれで失礼いたし…」
「翠よ、側に寄れ」
これ以上失態を見せる前に退室しようと腰を上げかけるが、遅かった。
淡稀様に呼ばれ、おそるおそる距離を縮める。
すると、気付いたときには淡稀様の腕の中へと引き込まれていた。
「っ、淡稀様…!?」
「これで寒くなかろう。しばし月見酒に付き合え」
動転するわたしを余所に、淡稀様は何を気にする風もなくお猪口を傾ける。
それだけで場慣れしていることが分かる。このようなことは淡稀様にとってなんら特別でもなく、日常茶飯事なのだと。
それにチクリと胸の奥が痛んだ気がしたのは、何故だったのか。
「見ろ、今宵は本当に美しい」
その声に見上げた満月は先ほど目にしたときと変わりなく夜空を彩っていたけれど、どうしてだか先ほど以上に美しく目に映って。
温かい。肩と身体に触れる自分とは違う体温が。知らなかった、他者の温もりがこんなにも心地よいものだったなんて。今まで知る由もなかった。
いつだってわたしの周りにあったのは暴力と侮蔑だけだったから。
「…はい。とても、…とても美しいです」
胸に小さく灯る想いの名を、わたしはまだ知らない。