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「しかし主にも困ったものです。邸を空けるときは事前に伝えて下さるよう、いつも申しておりますのに」
「淡稀様はお忙しいのですね」
「いいえ、8割方遊び呆けているだけです」
主に対して中々に厳しい物言いのように感じるが、それだけ信頼関係がある表れなのだろう。
その証拠に、淡稀様が詩音様のお説教を受けているとき困り顔はしていても怒ったことなど一度もない。
そんなお二人の関係は尊くて、温かさを感じる。
一通りのお小言を消化し、詩音様は「あら」と口に手を添えた。
「申し訳ありません翠様、お耳汚しを…」
「いいえ、詩音様が淡稀様を心配してらっしゃるのが伝わってきます」
「いけませんね、お喋りが過ぎてしまうのがわたくしの悪い癖です」
ですが、と詩音様は前置く。
「淡稀様も邸にいらっしゃるときはきちんとお食事を召し上がるようになりました。翠様のお陰ですね」
「そんな、わたしなど…」
「翠様のお陰です。以前はもっと酷い生活を送ってらっしゃいましたから」
はぁ、と深い溜め息をつく詩音様に恐縮してしまう。
それというのも、この邸に来て初めての食事の際、わたしの食事について一悶着があったのだ。
居間に用意された二人分の食事。座布団を勧められ、わたしは驚愕して首を横に振った。神様と同じ席、しかも同じ食事などとてもじゃないが頷けなかった。
押し門答(というより、ひたすらわたしが床に額を押しつけ続けた)が続き、淡稀様は痺れを切らした。
『では命令だ。翠よ、私が邸で食事をするときは必ず一緒にとること』
『そ、そんな…!とても畏れ多く…』
『命令だ。私がいないときは詩音と食事を共にすること。分かったな』
そうしたやりとりがあって、現在に至る。
神様方と同じ席だなんてという思いは今だって大いにある。けれど淡稀様がわたしに気を配っての提案であり、詩音様も目を輝かせて賛成してくださったからその厚意に甘えさせていただいた。慣れるまでには、大分時間がかかりそうだけれども。
そう、淡稀様は本当にとてもお優しい神様だ。わたしを家畜のように扱うこともなければ、見下したりもしない。身体を求められたりもしない。
贄として淡稀様の元へ来たはずなのに。どこまでも優しく、わたしを一人の人間として、接してくださる。
だからこそ身の置き所がなく、何か役割が欲しかった。その結果が家事を手伝わせてほしいという安直な発想になってしまったのだが。
廊下や居間の掃除を終え、布団や衣服を庭の物干し竿に干す。
此処はいつだって晴天で、雨どころか曇り空さえ見たことがない。
淡稀様の力が働いているのだろうな、と思う。
首からかけているまが玉を取り出し、陽にかざすと翡翠色が透けるような青色に変化した。何度見てもその美しさに見惚れてしまう。
いただいた日から、肌身離さず身に付けている大切なもの。
「…あ」
虹色の羽を持つ小鳥が、不意にわたしの肩に留まる。続いてやってきた小鳥は反対側の肩へ。こちらは赤色のグラデーションの羽。現世では見たこともない小鳥たちだが、こうしてたまに遊びに来てくれる。
まが玉を懐にしまい、指先で小鳥たちの背を撫でる。気持ちよさそうに一鳴きする様子がとても可愛らしい。
「あなたたちのお家、この近くにあるの?」
「あらら、お姫様発見」
予期しようもない声にびくりと肩が震える。その震動に驚いたのだろう、小鳥たちが飛び去っていく。
淡稀様でも詩音様でもない、初めて聞く声。
思わず振り返ると、そこには一人の男性が…いや、神様が立っていた。
薄い水色の髪に、快活そうなぱっちりとした群青色の瞳。整いすぎた容貌。何よりまとう神聖な空気が人間とは一線を画している。
この邸への訪問者は初めてで、どう対応すればいいのか分からない。淡稀様からも何も伺っていないし、詩音様を呼ぶべきなのかもしれない。
わたしの警戒に気付いたのだろうか、その神様はにこりと笑う。
「ごめんごめん、急に声かけて驚かせちゃったね。俺は瑞瀬。淡稀の友人だよ」
「瑞瀬、様…」
「詩音いる?俺のこと知っているはずだから」
淡稀様のことも詩音様のことも知っている。だとしたら、本当にご友人なのかもしれない。
慌てて膝を地につけて頭を下げる。
「大変失礼致しました。淡稀様の邸に置いていただいております、翠と申します」
「ああ、いいよいいよ。頭上げて。女の子に頭下げさせるなんて趣味じゃないからさ」
差し伸べられた手をおずおずと取る。と、不意に引っ張り上げられた。
「きゃ…っ」
「ふーん、なるほどねぇ…」
思った以上に眼前に迫る瑞瀬様のお顔。まじまじと瞳を覗き込まれるこの状態は、淡稀様との出会いを思い起こさせる。
「こりゃあ本物だ」
呟きに近いそれは確かに耳に届いた。本物?
一体、どういうーー
「ぁいたっ!」
「!!」
すこーん、と小気味いい音を立て、飛んできた桶が瑞瀬様の頭に命中する。
瑞瀬様から距離を取り、桶の発射点へ目を向けるとそこには。
「出会い早々、翠様に手を出すとはどういったお心づもりですか」
麗しい微笑みを浮かべつつも、目が全く笑っていない詩音様の姿があった。