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朝、日が昇る前に布団を出て身支度を整えて。
桶に汲んだ水で顔を洗い、しっかりと目を覚ましてから朝食の準備に取りかかる。
それがわたしの一日の始まりだ。
「おはようございます、翠様」
お湯を沸かし、野菜を切っているところで詩音様に声をかけられた。手を止め、そちらへ振り返る。
「おはようございます、詩音様」
「翠様、前にも言いましたがわたくしに様など付けなくてよろしいのですよ?」
詩音様は少しばかり困ったように微笑む。
そんな表情をさせてしまうことは心苦しいが、だからといって様をつけないなんてこと出来る訳がない。
わたしの方こそ様付けなんてとてもじゃないが恐れ多くて、何度も止めてほしいとお願いしてみたがいつも笑顔でかわされてしまう。
「申し訳ありません。ですがどうか詩音様と呼ばせて下さい」
「そうですか…では、もっと仲よくなれた暁には」
詩音様はこの邸の家事一切を任されている方だ。綺麗な鼻筋にくりっとした朝焼け色の瞳、淡稀様と似た色合いの銀髪。何となく日本でない異国を思わせる雰囲気がある。神様ではなく家に住み着く妖精なのだという。
もっとも、常に淡稀様の神気に包まれたこの邸では、本当は特にすることがないらしい。掃除などしなくても空間は清潔に保たれ、食事も淡稀様は気まぐれにしか口にしないとか。だからこの邸に、詩音様以外の方は誰も住まわれていない。
それでも留守を任されるという大きな役目を担っているお方。すごい方なのである。
「今朝はかぶのお味噌汁ですか」
「はい。主菜は焼き魚にお漬け物をと思っているのですが…」
「いいですね。ではわたくしは焼き魚の方に取りかかりましょう」
てきぱきと動く詩音様の姿を見て、お仕事を取ってしまっている罪悪感が首をもたげる。
此処に来たばかりの分際で厚かましいだろうという思いも勿論あった。
けれどどうしても我慢しきれなかった。こんな素晴らしいお邸に置いてもらっておいて、何もせずにいるということが。
家事を願い出たとき、初めは淡稀様にも詩音様にも「そんなことは気にしなくていい」と言われた。でも何度も何度も食い下がり、ようやく手伝いの許可を戴いた。
差し出がましい真似を申し訳ありません、と深く頭を下げると詩音様は「翠様はお優しい方ですね」と微笑んでくれた。優しいのは詩音様の方なのに。
「そろそろ支度が整いそうなので、淡稀様に声をかけて参ります」
「その必要はありません」
「…お出掛け、でしょうか」
「我が主は昨夜からお戻りになられていないようです。まったく、そろそろしっかりして頂きたいものです」
詩音様の口調には多少なりとも棘が含まれている。
此処で暮らし始めて分かったが、淡稀様はあまり邸にいらっしゃらない。
ふらりと何処かへ出掛けられ、そのまま数日帰って来られないこともよくある。とにかく気まぐれで気の向くまま。
お帰りになられたときはとてもいい香りをまとっている。そしてその香りはその時々で異なる。つまり、その、そういうことなのであろう。
盆に二人分の朝餉を載せ、居間まで運び長机にそれぞれ配置する。
そして準備が終わったところで詩音様と腰を下ろし、向かい合って両手を合わせた。
「いただきます」
「…いただきます」
未だにこの瞬間は緊張してしまう。誰かと食事をとることも温かいものを口にすることも今まで有り得なかった。ましてや相手が笑みを向けてくれるなんて。
まだ夢を見ている気持ちになるのは、いつだってこの瞬間だ。
だからこそ詩音様にはいつも申し訳なくなる。食事を共にするのが、自分であることが。
箸が止まったことに詩音様は首を傾げた。
「翠様?どういたしましたか」
「気の利いた言葉も出ず、愛想すらないわたしと食事をしていただくことが…申し訳なくて」
表情が乏しいことは自覚していた。けれど今まではそれで都合がよかった。
蹴られても殴られても、反応しなければ相手はそのうち飽き、悪態をついて去って行く。泣いたり怯えたりすれば、もっと殴られると分かっていたから。感情を表に出さないことが、唯一の生きる術だった。
だから今になって困っている。表情の作り方が分からないのだ。
「まあ、嫌ですわ翠様ったら。そんなことを気にしていらっしゃるのですか」
「ですが、淡稀様の命で詩音様は…」
「いいえ、いくら主様の命でも嫌なときははっきり申し上げます。わたくしは翠様と一緒に食事がしたいからしているだけです。だからそのような寂しいこと、言わないでくださいませ」
ほんの少し寂しさを含んだ笑みに、ちくんと胸が痛む。
そんなつもりではなかったのに。
再び謝罪を口にしようとすれば、先に詩音様に遮られる。
「わたくしは翠様と一緒にいる時間が好きです」
「!」
「翠様にもそう思っていただけたら、嬉しいのですが」
「わたしも…好き、です。詩音様との、時間が」
自分の思いを口にすることは、正直まだ難しい。
喉を通り抜ける前にどうしても奥で引っかかってしまう。
けれど詩音様の飛びきりの笑顔を見ていると、どうにか言葉にしたいと、そう思える自分がいる。