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「さて、それじゃあ行こうか」
顎から手が離れ、神様ーー淡稀様はふわりと地に下りる。
大きく、けれど声が漏れないように息をついて気が付く。知らず知らず息を詰めていたことに。
自然と差し出された手。その手と淡稀様の顔を交互に見比べてしまう。
これは、おそらく…掴まれって、こと…?
か、神様に?こんな美しい神様に触れていいのだろうか?でも淡稀様から差し出していただいた手を取らないことの方が不敬に当たるんじゃ…。
ぐるぐると悩むわたしに痺れを切らしたのか、淡稀様はさっさとわたしの手を取ってしまう。
「あ…っ」
「こちらだ」
温かい。初めに感じたことはそれだった。
誰かと手を繋いだことなどなく、気恥ずかしさから顔に熱が集まっていく。照れ隠しに振りほどきたい衝動に駆られるが、できる訳もない。
歩を進めた淡稀様は小さな社の障子に手をかけ、横に滑らせる。
その先には、広大な花畑が広がっていた。
(花畑?社の、中に…?)
呆気に取られながら手を引かれ、社の中へと足を踏み入れる。
土の感触も、花の香りも、花びらの手触りも、全てに現実感を伴う。間違いなく本物だ。
社の外側と内側。文字通りの別世界。
「私が空間を繋げたのだ。便利であろう?」
「すごいの、ですね…」
此処は現世なのだろうか。もしくは、そうではない別の世なのであろうか。
きょろきょろと周りを見渡しても、果てがない。
どこまでもどこまでも、色とりどりの花たちが咲き誇っている。
何より社の向こうではとうに沈んでしまっていたはずの太陽が、燦々と地を照らしていた。
しばらく歩き続けると、ぼんやりとした揺らぎの向こうに立派な門構えが姿を見せる。まるで蜃気楼のようだが、確かに実在している。
淡稀様が門の前に立つとその重厚な扉は主の帰還を出迎えるように扉を開く。
「此処が私の邸だ」
眼前に広がる邸宅は平屋作りで、目を見張るほど広い。造りは簡素ながらも柱や障子の枠に彫られた細工は上品かつ繊細で。その美しさにただただ見とれた。
招き入れられた邸の中で淡稀様の手は離れ、またわたしは息をつく。けれどまだ手には温もりが残っていて。それが恥ずかしいような面映ゆいような不思議な気分だった。
台所、厠、浴場、居間、と淡稀様は邸の中の主な部屋を案内してくれた。
一歩下がって後をついていたわたしはどうしてもある疑問が引っかかり、落ち着かない。案内の終わりかけに思いきって呼び止める。
「あ、淡稀様。恐れながら問いをよろしいでしょうか」
「なんだ?分からない場所があったか」
「いえ、その…」
「構わん、言ってみよ」
その言葉に勇気づけられ、おそるおそる口を開く。
「わたしは、淡稀様のお食事となるのでしょうか」
「ーー…」
「つたない知識ながら贄とは自身のすべてを神に捧げることと存じ上げます。肉もあまりついておりませんし、見目も良くないこと、申し訳なく思います。ですが、どうぞお好きに召し上がってください」
「翠、待て私は」
「もしかすると臓物はまだ救いがあるかもしれません」
「……なに?」
「眼球でも臓物でも心臓でも、どうぞ淡稀様のお好みで…」
ずっと考えていた。淡稀様のお望みを。
邸まで連れてきてくれたことから考えても捨て置くことでも殺すことでもないだろう。
だとしたら食事。わたしを食べる。それが一番もっともらしい。
あまり痛いのは好きではない。出来るのなら一思いにすぱっと殺ってほしい。そう思いを込めて目をつぶる。
けれど待てども痛みが訪れることはなく、不思議に思って瞼を持ち上げる。と。
「、あははははっ!」
大爆笑される、淡稀様がいた。
…何故笑っているのだろう。
「あはっ、あははは!まさかそう来るとは思わなんだ」
「あの…?」
「はは、食わん食わん!あいにく人間の臓物になど興味はない」
勘違いだったらしい。
とてもおかしなことを言ってしまったようで恥ずかしい。
身を縮ませるわたしに、目尻の涙を拭いながら淡稀様は言う。
「此処に住め、翠」
「え…」
「言ったろう、今日このときから翠は私のものだと」
「…!」
「今日から此処が翠の家だ」
住む?わたしが、このお邸に?
考えもしていなかった淡稀様の言葉は、これまでの人生の中で一番の衝撃だった。
「淡稀様、と…?」
「そうだ」
淡稀様は着物の襟を僅かに引っ張り、首にかけてあったまが玉を首から外す。
そしてわたしの手を取り、その上にまが玉を載せた。
「翠にやろう」
「これは…」
「翠がこの邸の一員になったという証だ。常に身に付けておくのだぞ」
このお邸の一員になったという、証。
淡稀様の言葉を何度も頭の中で反芻し、それでも現実感なんてなくて。
胸が詰まって苦しい。だけど痛みも辛さも伴わない苦しさなんて初めてで。
夢を見ているようだと思う。自分にとって都合のいい夢を。本当のわたしはあの社の供物台で寝ているのではないか?もしくは、とうに獣たちに食い尽くされているのでは。
ああ、でも構わない。最期の夢がこんなにも美しくて、優しいものならば。
載せられたまが玉を両手で包み、祈るように口元へ近付ける。
「ありがとうございます、淡稀様。この身が果てるまで、大切にします」
「うむ」
淡稀様は満足そうに頷き、片手を天にかざす。
次の瞬間、空からたくさんの花びらが降り注ぐ。幻想的な光景に思わず感嘆の声が漏れた。
「祝いだ。気に入ったか」
「は、はい。とても、美しいです」
「これからよろしく頼むぞ、翠」
これから。
手の中のまが玉を握り直す。
「不束者ですがどうぞよろしくお願い致します、淡稀様」
こうして。
わたしは、贄として(?)淡稀様と暮らすことになったのです。