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カミサマというものに会ったことはないし、正直なところ、その存在を信じてすらいなかった。
災害や疫病、日照り。そういった人間では太刀打ちできないものに直面したときに縋る存在だと、ずっとそう思ってきた。
けれど目の前にいるそのヒトは、間違いなく神様だった。
恐ろしくなるほど整った容貌はいっそ作り物めいていて、後ろで一纏めにされた銀色の長い髪は眩かんばかりの輝きを放つ。夕暮れ時の橙色と同じ瞳は、全てを見透かしているかのようにどこまでも深い。
気付けば周囲は深い霧に包まれていて、全身に淡い光をまといながら宙に浮かぶ神様の周辺だけが、凜として清く静謐だ。たった数歩ほどしか離れていないはずなのに、まるで別々の世界に切り離されている気がした。
「のぅ、何が良かったのだ?」
口元に笑みを浮かべ、神様は同じ問いを繰り返す。
金縛りにでもあっていたかのような身体がびくりと震え、ほとんど衝動的に頭を台に押しつけた。
「ご、ご無礼を、大変申し訳ございませんでした…っ」
問いの答えになっていない。けれどそう声に出すだけで精一杯だった。
動悸が耳のすぐ隣で掻き鳴らされ、冷や汗が止まらない。呼吸すら上手く吐き出せない。
「お前が、私の贄か?」
ドクリ、一際高く心臓が鳴った。
額を台にこすりつけたまま、「はい」と答える。
まさか、そんな。
本当に神様がいるなんて。想像すらしていなかった。
どうしよう。どう動けばいいのか、何を言えばいいのか分からない。
動転していたわたしは神様が近付いてきたことに全く気付かず、不意に伸ばされた手に思いきりびくついてしまった。
顎を取られ、上を向かせられる。
間近に迫る神様の顔はやはり神々しい美しさで、固まってしまう。
「…ふむ、なるほどな」
ぱさぱさでぼさぼさの髪に、暗い瞳。おまけに痩せ細った傷だらけ身体。
こんなに美しい神様が見るに耐えないだろう自分をまじまじと見ていることに、強い羞恥を覚える。
せっかく姿を現して下さったのに、生贄に用意されたのはこんなみすぼらしい貧相な女。さぞかしがっかりされたことだろう。
殺されるだろうか。捨て置かれるだろうか。食べられてしまうだろうか。
震えながら下される判決を待つ。
「お前、名はなんと言う」
「翠、と申します」
「翠か。よい名だ」
思わず目を見開く。名を、褒めてくださった?
神様は謳うように囁いた。
「私の名は淡稀」
「あわき、様…」
「翠よ」
「今日このときから、お前は私のものだ」
その瞬間に身体を駆け巡ったものは何だったのか。
緊張か、畏怖か、驚きか、不安か。
それとも、喜びだったのか。
分からなかった。けれどわたしはまるでそうするのが当たり前のような自然さで。
「はい」
そう答えていた。