16
白菜を切っていた手を止め、顔を上げる。
一点を見つめていたら詩音様は不思議そうに首を傾げた。
「翠様、どうされました?」
「あ、いえ…すいません。何でもないです」
そう返してまた夕飯作りを再開する。
けれどどうにも気になって、手は止めないままちらりと横目でとある方向を見やった。何の変哲も無い壁。その奥は玄関へと続いていて、意識はさらにその先へと向かう。
なんでだろう。何の確証もないのに。
(淡稀様が……邸の外にいる気がする)
どうしてそう感じるかも、どうして急にそんなことを思ったのかも分からない。
分からないけれど、気のせいで済ませるには胸がざわざわして落ち着かなくて。こんな感覚初めてで戸惑う。
…詩音様もこの感覚を、感じていらっしゃるのだろうか。
視線を滑らせてみてもその綺麗な横顔はいつも通りで、そんな素振りは見受けられない。
混乱しつつも滞りなく夕飯の支度を終えた。このままもやもやしているのが嫌で、布巾で手を拭っている詩音様に思い切ってたずねてみる。
「あの、詩音様」
「はい?」
「詩音様は、その…淡稀様が邸の近くにいらっしゃるとき、気配を感じられることはありますか」
「この邸に帰ってくるのが気配で分かるか、という意味合いですか?」
「えっと、はい」
「そうですね…」
なんとなく違うような気もしたけれど、他の言葉も見つからなかったのでこくりと頷く。
詩音様は顎に人差し指を当ててしばし考え込む。
「……ほとんど分かりませんね。そもそもこの邸は淡稀様の結界内なので、そういったことが出来ないようになっています」
「できないようになっているんですか?」
「はい。あの通り自由気ままな方なので、気配を気取られたり行動を察知されるのがお好きではないのですよ」
「そう、なんですか…」
ということは、やはりただの気のせいなんだろうか。
未だ胸の内をぐるぐると巡るこの感覚は。
けれどあまりにも鮮明すぎて。どうしても飲み込めない。
喉の奥に引っかかる言葉の正体を探していると、詩音様はにこりと微笑んだ。
「今夜はそう遅くならないうちに帰られると思いますよ」
「え…、…!」
寂しがっていると思われたのだろうか。
そういうわけじゃないのにと思っても自然と頬に熱が集まってくる。
違うんですと言葉を重ねても詩音様の笑みは深くなるばかりで、結局上手い言い訳は見つからないまま玄関先の掃除へ逃げ出した。
+++
箒を動かしながら溜め息をつく。
上手く説明できないことももどかしいけれど、余計な反応を示す自分の頬もなんだか憎たらしい。つねろうとして、ついこの間詩音様に見つかって心配されたことを思い出し、ぺちりと一叩きしてから手を下ろす。
空は相変わらずどんよりと曇っている。太陽が姿を見せる気配すらない。数刻前、淡稀様がお出かけになられたときのままだ。
用事は、まだ終わらないのだろうか。
ーーポツリ、
足元に水滴が落ちる。
次々とその数を増やし、あっという間にどしゃ降りへと様変わりした。
雨を見るのは久しぶりで、目を奪われそうになるがすぐに淡稀様のことが頭に浮かぶ。
もしこの雨の中、邸の外にいらっしゃったら……だけど詩音様も感じられないって。そもそも分からないようになっているなら、この感覚はただの気のせい。わたしがどこかおかしいのかもしれない。……でも。
「ーー行かなきゃ」
呟いたのはほとんど無意識で、玄関内に立てかけてあった傘を二本取り、門を飛び出す。
雨で視界が悪く、着物の裾に足をとられて中々思うように前へ進めない。水を吸った布が肌にまとわりつく。額を伝う雫を手の甲で拭う。
息が上がって苦しい。己の運動不足を呪いながら、時折転びそうになりながらも決して足は止めなかった。
導かれるような感覚だけを頼りに走り続けていたら、前方に淡い光が見えた。探していた後ろ姿。本当に、居た。ホッとしたのは一瞬で、雨に打たれながらうつむくその姿に思わず叫んでいた。
「淡稀様!」
振り向いた淡稀様は目を丸くしてわたしを見た。
微かに揺れる橙色の瞳に自分が映っていることに心底安堵し、側へ寄って差していた傘をずぶ濡れの淡稀様へ傾けた。
「翠……?」
なんとか呼吸を整えようとするが、全力で走ってきたせいで口から漏れるのは荒い息ばかりだ。
淡稀様、驚かれてる。なにか言わないと。でも、なにを?なにも考えずにここまで走ってきてしまった。少しぐらい考えておけばよかった。
ええと、わたしが言いたいこと。言わなきゃいけないことはーー…
「おかえり、なさい」
次の瞬間、手を引かれた。
あ、と思う間もなく気付けば淡稀様の腕の中にいて。持っていた傘が地面を転がる。
思考が追いつかず、何が起こったのか理解するまでに時間がかかった。でも淡稀様の香りや体温、肩に回る手の大きさまで実感した途端、心臓がどくりと暴れまわる。
「あ、あわ、淡稀様…っ?」
身動ぎしかけると一際抱擁が強くなる。
顔どころか身体中が熱い。状況に付いていけなくて頭が壊れそうだ。やっと落ち着いてきたのに、呼吸すらままならない。
どうしよう、このまま死んでしまうかもしれない。
「……翠」
「はっ、はい!?」
「ーーただいま」
耳元で紡がれた言葉に、ぎゅうっと締め付けられて。じわじわと全身を染み渡っていくこの気持ちをなんと表せばいいのか、分からない。
けれど何故だか、視界が霞みそうだった。
置き場のなかった両手をためらいながらも淡稀様の腕に添え、そっと目を閉じる。
淡稀様の鼓動が近くに聴こえる。相変わらず自身の心臓の音はうるさいけれど、自分を包むぬくもりがとても心地よかった。
(……おかえりなさい、淡稀様)
心の中でもう一度呟いた言葉は、ゆっくりと胸の奥へと溶けていった。