香鶯祭2
香鶯祭を締めくくる舞踏会。会場となる城前広場には月光花の甘い香りが立ち込め、夜光蝶の放つ蒼い光が幻想的な空間を生み出していた。人工の光は一切ない自然が作り出した舞台には、既に大勢の人で溢れかえっている。
ハーミヤがルドルフにエスコートされ会場に現れると、鋭い視線が突き刺さった。
「ルドルフ様がハーミヤ様と踊られるのって、本当だったのね。前のように足を踏んでルドルフ様に迷惑をかけたりしないでほしいわ」
どこからか毒を含んだ言葉が投げ掛けられる。密やかな声はそこかしこから聞こえてきて、容赦なくハーミヤの心に突き刺さる。だが自分のやってしまったことを思えば非難されるのも仕方がない。息苦しくて、逃げ出したくて、ハーミヤは俯いた。
「ハーミヤ様。どうか下を向かないでください」
すぐ隣で囁く声がする。ルドルフだ。
「貴女はご自分で思われている以上に素敵な方ですよ。それに、貴女をお誘いしたのは私の方です。忘れないでください」
「でも……」
「それに、睨まれているのは私も一緒です」
ルドルフは苦笑する。
誰が彼を睨んだりするのだろう。
ハーミヤは不思議に思って、彼の視線の先を追った。そして尋常ではない殺気を感じた。
殺気の発生源であるその人物は、楽団員のいるステージのすぐ右隣りにいた。濃紺の衣装に身を包んだ長身の男。焦げ茶色の短髪は清潔感があり、紺碧の瞳には怒りが宿っている。
ハーミヤとルドルフが立ち止まると、男は大股で歩み寄って来た。その様子にハーミヤの血の気が引く。
昨年の舞踏会でも、こんな光景を見たことがあった。
「……ルドルフ。俺の妹のパートナーに名乗り出るとはいい度胸だな」
もしも帯剣していたなら切り掛かっているかもしれない、というくらいの勢いでランズールは詰め寄った。
一方のルドルフはさして取り乱す風もなく、にこやかに笑っている。
二人の間に挟まれたハーミヤは狼狽した。止めようにも兄の形相が恐ろし過ぎて声が出ない。
「ランズール殿下、そう怒らないでください。眉間に皺が寄っていますよ」
「眉間の皺の一つや二つ、可愛いハーミヤの為ならなんでもない。さぁ、表に出ろルドルフ!」
「表ですよ」
ルドルフが苦笑しながら指摘すると、ランズールは握った拳を下ろした。二人の間に静寂が訪れる。
危機は去ったのだろうかとハーミヤが様子を伺っていると、美しい女性がルドルフとランズールの間に に割って入った。
「ハーミヤ様が可愛くて仕方がないのはわかりますけれど、彼女を困らせるのはどうかと思いますよランズール様」
ランズールの後ろから進み出たその女性は、声だけでなく容姿も姉フレイアに並び立つほど美しい。
女性は手に持った扇で口元を隠すと、空回り気味のランズールを窘めた。
すると先程までの勢いが嘘のようになくなったランズールは、「いや、でもな……」と女性に弁解をはじめた。
しかし女性はランズールの相手はせずに、ハーミヤとルドルフに向き直った。そして優美な動作でお辞儀をする。
「お久しぶりです、ハーミヤ様。そしてお初にお目に掛かりますルドルフ様。クレア=ベルンシュタインと申します」
「お久しぶりです、クレア様。今日の衣装もとってもお似合いです」
ハーミヤが惚れ惚れと見つめると、クレアは柔和な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。でもハーミヤ様の方が素敵でしてよ。周りの殿方がルドルフ様に嫉妬してしまうくらい」
「そ、そうでしょうか……?」
姉フレイアと並び美女と名高いクレアにそう言われると気恥ずかしかったが、それは素直に嬉しかった。
和やかな空気が流れ始めると、今度はランズールがそこに割り込む。
「クレア! それは俺が言おうと思っていたのに……。何故先に言ってしまうんだ!!」
「ハーミヤ様を褒めるより先に、変な嫉妬心を出してルドルフ様に噛み付いたランズール様が悪いのです。第一、過保護は嫌われましてよ」
クレアがそう一蹴すると、ランズールは拗ねたように背を向けてしまった。それを気にも留めずに、クレアはハーミヤの肩に手を置く。
「……相変わらずお兄様にはお困りのご様子ですね。心中お察し致します」
「いえ、クレア様のおかげで助かりました」
「それからルドルフ様も、どうか許して差し上げてね。ハーミヤ様を思ってのことですから」
「承知しております」
ルドルフの答えにクレアは安堵の表情を見せた。
「よかった。彼は少し子供染みたところがあるから、臣下からの信用を失うのではないかと心配だったのです」
それまで黙っていたランズールだったが、自分の評価に納得がいかないのか口を挟んだ。
「自分の婚約者に対して酷い言いようだな」
「だからこそ心配なのではないですか」
ぴしゃりとそう言われるとランズールは罰の悪そうな顔をした後、くるりと向きを変えた。
「ハーミヤ」
「は、はい。お兄様」
二人のやりとりを微笑みながら眺めていたハーミヤは、急に自分に声を掛けられ驚く。
「俺たちはまだ若い。これから色々なことを経験していく中で、失敗や挫折はどうやったってついてまわる。完璧であろうとするな。だから今はこの状況を楽しめ」
その言葉の端々に気遣いを感じたハーミヤは、返事の代わりにハーミヤは笑顔を浮かべた。するとほんの少し心が軽くなった。
「それと癪ではあるが、ルドルフはなかなか優秀な男だ。頼りにしていいぞ」
「恐縮です」
ランズールが不本意そうに指をさすと、ルドルフは軽く会釈した。
十九時を告げる鐘の音が、賑わう広場に木霊する。それを合図に楽団員達が一斉に楽器を構える。弦楽器の艶やかな調べが夜空の下で奏でられると、誰も彼もが踊り出した。
「参りましょう、ハーミヤ様」
「はい」
ルドルフに手を引かれ、ハーミヤは一歩踏み出した。会場の中央右寄り。ほんの少しだけ空いた空間に二人で立つ。流れる曲目は昨年踊ることができなかったあのワルツ。不安がないと言えば嘘になる。緊張していないと言えば嘘になる。相変わらず周囲からの視線は痛いし、毒を含んだ声も聞こえる。
右手をルドルフの左手に重ね、左手はそっと上腕に添える。胸が動悸する。こうして密着すると視界にはルドルフしか入らなかった。
「ハーミヤ様、私だけを見ていてください。そして、私を信じて一歩踏み出してください」
ルドルフが耳元で囁く。美しい銀色の前髪が、額にかかるのがくすぐったい。ハーミヤは漆黒の瞳を見つめる。そこには自分しか映っていなかった。
私だけを見てくれる貴方を、私が信じない訳にはいかない。
「信じています、ルドルフ」
そう言って微笑むと、ルドルフも微笑み返してくれる。
踏み出す一歩が軽い。鋭い視線も、心ない言葉も気にならない。聞こえるのは弦楽器が奏でるワルツと、自分の鼓動だけ。その音がルドルフに聞こえてしまわないか、それだけが気掛かりだった。
「良い表情ですわねランズール様?」
広場の端で二人を見つめていたクレアは、隣のランズールに声をかける。恋人の横顔に先程までの殺意はない。
「ああ、そうだな」
「安心しましたか?」
クレアの問いにランズールは壁にもたれながら答える。
「あいつがパートナーなんだ。最初から心配はしてないさ」
「ならどうして最初会ったとき喧嘩腰だったんです」
「誰だろうと、ハーミヤのパートナー役など気に食わん」
ランズールは腕組みすると、鼻を鳴らした。そんな恋人にクレアは嘆息する。
「本当に子供みたいな人……」
クレアは再び会場に視線を戻す。息のあった見事なステップとターン。楽しげな二人の様子は見れば見るほど心が苦しくなってきた。
「ランズール様。これから先、もしも二人が互いに想い合うようなことになれば……」
「きっとこれから辛い思いをすることになるだろうな」
ランズールはクレアの言葉を引き取った。
クレアはそれに泣きそうな顔をした。
「身分の壁というのは疎ましいものですね。想いを告げることさえ許されないなんて」
「そうだな。俺たちのように好きになった相手がたまたま婚約者だった、ということの方が珍しいだろうしな」
「まぁ、今さりげなく俺たちって言いました?」
「っ! 違うのか?」
愕然とした面持ちで見つめるランズールからクレアはふいっと顔を背けた。あまりにも悲しそうな顔で問い掛けるので、笑いそうになりながらもクレアは答えた。
「違いませんけれど」
からかわれたことに気付いて睨んでくる婚約者をクレアはひとしきり笑った。
「掟を、変えることはできないのでしょうか……」
「分かっているだろう。それは無理だ」
「そう、でしたわね」
分かりきっているのに、言わずにはいられずクレアは俯いた。二人の間に沈黙が訪れる。先に破ったのはランズールの方だった。
「だが、あいつが元帥にまで登り詰めれば話は別だろう。異国人だろうが、なんだろうがな」
「そうなってくれればと思わずにはいられませんわ」
クレアはそう言って空を仰いだ。
それにつられてランズールも上を向く。そしてふと疑問を口にした。
「そういえば、もう一人の妹の姿が見えないな。クレア、お前見たか?」
「まあ、そういえば見ていませんわ」
「いつもなら真っ先に出て行ってフロアの真ん中を独占しているというのに」
毎年恒例、フレイアが踊っている辺りには人垣が形成されているので見つけやすいのだが、今日はそれが見当たらない。二人がキョロキョロと会場を見渡していると、階段の上から声が落ちてきた。
「二人共、なにを探しているのですか?」
その声にランズールとクレアは同時に顔を上げる。そこには不思議そうな顔をしたフレイアが立っていた。
「お前を探していたんだ。今日は姿を見ていないと思ってな」
「あら、そうなんですか?」
フレイアは階段を降りると二人の横に並んだ。舞踏会の花形である三人がダンスホールから離れた隅で見学というのは、珍しい光景だった。
「フレイア、今日は踊らないの?」
「もちろん一仕事終えたら踊るわ」
クレアが訊ねると、フレイアは拳を握りしめた。その様子からは気合いを感じた。
「一仕事……って、なんだ?」
ランズールが怪訝そうな顔をすると、フレイアは逆に驚いた表情を見せた。
「まぁお兄様! そんなのあれに決まって……あら、来たわね」
フレイアはなにかを見つけたようで話を途中で切ると、手を振る。彼女の見つめる方向から誰かが走ってくるのが見えた。
お世辞にも趣味が良いとはいえない派手な衣装、金のボタンに刻印されているのは貴族家の家紋。
現れた人物にランズールとクレアは瞠目した。
「フレイア様! このカインめを相手に指名して下さるとは、身に余る光栄です!」
なんとハーミヤの元婚約者カインだった。
途端ランズールの瞳が細くなる。目から光線が出そうなほど鋭い眼光だった。
それに気付いたカインがヒッ、と体を硬ばらせた。見るからに怯えてしまったカインを庇うように、フレイアが二人の間に立つ。
「私ね、是非一度貴方とワルツを踊ってみたいと思っていたの」
そう言って微笑むと、カインはすぐに立ち直る。
しかしランズールとクレアはすぐに気付いた。フレイアの貼り付けたような作り物の笑みに。
「実を言うと、私はハーミヤ様よりフレイア様の方が素敵だと以前から思っておりました。ハーミヤ様にはなんという、花がないというか」
カインの言葉にランズールとクレアが同時に頭に手をやる。ハーミヤを悪く言うなんて、それはフレイアの地雷だ。
「まぁ、そうですか。花ですか……。色々とお話したいことはありますけど、立っていないでそろそろ踊りませんか?」
フレイアの右手に握られた扇が、バキャッっという無残な音を立てて折れ曲がる。しかしカインはそれに全く気付いていないらしい。
「はい、参りましょう。華麗にリードして見せます」
「まぁ、嬉しい。楽しみにしていますわ。足腰立たなくなるまで踊り倒しましょう?」
「ええ! お任せください!」
フレイアがこぼした恐ろしい一言にも、舞い上がっているせいか、カインは全く反応しなかった。
離れていく二人を見送っていたランズールはポツリと言葉を漏らす。
「脳みそ花畑だな、あいつ」
「まったくですね」
これにはクレアも素直に同意する。それから数分もしないうちに、カインの悲鳴が夜空に木霊した。
彼程度の技量ではフレイアの相手など務まるはずもない。
その憐れな声をクレアはひとしきり笑うと、隣に立つランズールを見上げた。
「見ているだけというのも飽きてしまいました。踊りませんか?」
「ああ、待たせて悪かったな」
クレアが差し出した手をランズールは慣れた動作で取る。
「待たせた分、いつも以上に楽しませてくださいな」
「仰せのままに。愛しい人」
そして二人はダンスホールへと足を踏み入れた。




