迷いなき王女
優しくて愛おしい温もりを左手に感じて、ハーミヤは目を覚ました。
最初に目に入ったのは自室の見慣れた天井で、その次に見たのは心配そうなルドルフの顔だった。
「ルドルフ……」
掠れる声で呼びかけると、ルドルフは安堵に笑み崩れた。彼の両手はしっかりと、ハーミヤの左手を握っている。
「ハーミヤ様、良かった……。貴女がお倒れになったとお聞きして、心臓が止まる思いでした」
「手を……握っていてくれたのですか」
言葉にした瞬間、ルドルフは慌てて手を引っ込めようとした。それをハーミヤは弱い握力で捕まえる。
「どうして、離そうとしてしまうのですか。貴方の手は温かくて、とても落ち着くのに」
ルドルフはほんの一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた。
「私には、ハーミヤ様に触れる資格がありません」
「資格などいらないのに……」
そう言って握る手に力を込めると、ルドルフは躊躇いがちに優しく握り返してくれた。
舞踏会にはいっそ強引といってもいいほどの勢いで誘ってくれたルドルフだったが、それ以上踏み込んでくることはなかった。
彼はいつもハーミヤと自分との間に線を引こうとしていて、ハーミヤがそれを踏み越えようとすると慌てて奥へと逃げていくのだ。
それはお互いの身分を気にしてのことだと、最初ハーミヤは思っていた。だがそれも、彼が度々見せる罪悪感を滲ませた表情と言葉によって違うのではないかと思えていた。
ハーミヤはルドルフの横に大きな荷物が置かれていることに気付いて、問いかけた。
「ダーウェントへ行くのですか?」
「はい、半刻後には発ちます」
「そうですか……。私も、一緒に行きます」
そう言葉にすると、ルドルフは驚きに目を見開いた。それから彼にしては珍しく大きな声を出した。
「なりません!」
「何故ですか」
「貴女を危険な場所にお連れすることなどできるわけがない」
「でもお兄様だって、民の為に危険な地へと赴きました。王族として民を守るのは私の責務です」
「そうだとしても、つい先頃体調を崩してお倒れになった方が言う言葉ではありません」
「もう治りました」
ハーミヤは淡々と言葉を返す。それにルドルフは顔を歪めた。
「王族としての責務なら、この城の中でも果たせましょう。何故そんなことを言うのですか」
「被災地で救援活動を行う人員が足りていないと聞きました。だから私も手伝いたいのです」
「そのお心は立派ですが、現地での活動は激務です。お体がもたないかと思います」
そう言って立ち上がろうとするルドルフの腕をハーミヤは慌てて掴んだ。
「わかっています! 私にできることが多くはないことくらい。それでも、一人でも私の助けを必要とする人がいるのなら助けたいのです」
力仕事では役に立たないことくらい、ハーミヤにも分かっている。非力な自分になにができるのかと思いもした。
でも思い出したのだ。疫病に苦しむ人々の救援活動へ行った折、もらった感謝の言葉を。そして自分を見て安堵に涙した人々を。
王族の自分だからこそ、民の心に寄り添い安心させることができる。
「それに私は……」
ハーミヤは言ってもいいのだろうかと悩んだ末に、はっきりと言葉を口にした。
「ルドルフの側にいたい。離れたくないんです」
なおも反論の言葉を口にしようとしていたルドルフは虚を突かれて黙った。
「もういいでしょう、ルドルフ。貴方の負けよ」
そう言って部屋に入ってきたフレイアは、困ったような顔で微笑んだ。
「フレイア様、しかし」
「ハーミヤの気持ちはもう分かったでしょう? この子は言い出したら聞かない。以前、疫病が蔓延しているダーウェントへ行くと言った時もそうだった」
フレイアはベッドに腰を下ろすと、ハーミヤの頬を優しく撫でた。
「あの時も、私やお兄様の反対を振り切って城から飛び出して行ってしまった。そしてハーミヤが病に感染したと聞いた時は凄く後悔した。どうして、無理にでも止めなかったんだろう、って」
「それなら」
ルドルフの言葉をフレイアは微笑みで止める。
「民がね、ハーミヤに凄く感謝していたの。あの子が危険を顧みず助けに来てくれたことがどれだけ心強かったか。それは助かった人も、家族を喪った人も同じように言っていた。私はそれが誇らしかった……」
フレイアは母親が子供にするように、ハーミヤを優しく抱きしめる。
「いってらっしゃい、ハーミヤ。あなたが選んだ道なら、後悔はしないんでしょう? お父様には私から言っておくから」
「ありがとうございます、お姉様……」
「ルドルフ、ハーミヤの身を案じてくれてありがとう。どうか、この子をお願い」
安全の為にもハーミヤは城にいるべきと言っていたルドルフだったが、やがて諦めたように頷いた。
各地で起こる災害に奔走する王国は、深刻な人手不足に陥っており、ダーウェント救援に充てられた人員は僅か五十人だった。
王都からダーウェントまでは、いくつかの小さな街を通り過ぎて、神獣の森を越えた先にある。
六日前の夕刻に城を出立した一団は、ようやく神獣の森へと足を踏み入れていた。
一団の最後尾には大きな荷車が六台付いて来ており、中には食料や衣類、薬品が目一杯積み込まれている。
馬の数が足りないので、出発時ハーミヤはこの荷車に乗るように勧められていた。しかし自分が乗ることで貴重な物資が乗せられなくなっては困る、と言ってそれを断った彼女は、今は先頭を進むルドルフの馬に相乗りしていた。
その姿は優美なドレスから動きやすい軽装に変わっており、髪は高い位置で一つにまとめられている。
ハーミヤは視線を下に向けて、水溜りに映るルドルフを盗み見た。
この三日間、同じ馬に乗っている二人だが、会話らしい会話はほとんどない。
普段は場を和ませようと取り留めもない話をしてくれるルドルフだが、今はこちらから声を掛けない限りは黙り込んだままだった。背中越しに感じる体温がなければ、一人で馬に乗っているような錯覚さえした。
「怒っているのですか……」
視線は前に向けたまま、ハーミヤはルドルフにだけ聞こえるくらい小さな声で問い掛けた。
彼は最後まで、ハーミヤが共にダーウェントに行くことを反対していた。
「ハーミヤ様は自分のことはいつも後回しになさる。だからただ、心配なだけです」
その言葉にはどこか不機嫌な色が含まれていて、なのにそれがハーミヤには嬉しかった。
「そんなことありません。少なくとも私が今ここにいるのは私自身の為でもありますから」
ハーミヤはそう言ってルドルフに体を預けた。途端、ルドルフが緊張するのがわかった。
「ごめんなさい、迷惑でしたか?」
「迷惑などと……。ただどうしたらいいのかわからないだけです」
「それを迷惑と言うのではありませんか」
ハーミヤは少しも気分を害した様子なく伝えた。しかし対照的にルドルフは慌てて言葉を紡いだ。
「そんなことはありません。ただ本来私は、ハーミヤ様の側にいていい者ではありませんから」
そう答えるルドルフの声には苦渋に満ちていた。
「貴方が前に言っていた罰と、それは関係があることなのですか?」
そう尋ねると、手綱を握るルドルフの手が微かに震えた。しかしそれは寒さゆえではない。
「ええ、そうです。罪人なのです、私は」
罪人、それはひどく重たい響きだった。
ハーミヤは振り返ると、ルドルフを見上げる。
夜空を映したような黒の瞳は、悲しみに揺れていた。何かを恐れるようなその様子に、ハーミヤもまた悲しくなった。
「話しては、くれないのですか」
「話せばきっと、ハーミヤ様は私を許して下さるでしょう。でもだからこそ、私は貴女に許しを請えない」
「何故? 許しは貴方にとって救いにはならないのですか」
「この罪は、許されてはいけないのです」
自らを戒めるようにルドルフはそう言った。彼は自分に逃げ場所を作ることさえ許してはいないようだった。
ハーミヤはそっとルドルフの頬に触れる。すると彼は泣き出しそうな顔をした。
「それでも私は、貴方が苦しむ姿を見たくはありません」
「ハーミヤ様……。私は……」
ルドルフが躊躇いがちに口を開いた時、大きな地鳴りが轟いた。大気さえも揺らさんばかりのその轟音に、馬達は一斉に暴れ出した。
ルドルフを含め兵達は嘶く馬を落ち着けようとなだめる。しかしその間にも音はどんどん大きくなって、遂には地面が揺れ始めた。森の木々はミシミシと嫌な音を立てて傾いた。
「ルドルフっ、地面が!」
ハーミヤが亀裂の入った道に気付き声を上げるのと同時に、地面が崩れた。
逃げる間も無く、救援隊の一団は森の小道から次々と崖下へ転落していった。
先頭にいたハーミヤとルドルフも例外ではなく、足場を失って体が傾く。
体重の軽いハーミヤは、途端に馬から投げ出されてしまった。
「っ、ハーミヤ様!」
ルドルフは悲鳴と共に崖下へと転落するハーミヤの手を捕まえると、自分の方へと体を引き寄せ衝撃から庇うように抱き締めた。
ハーミヤは恐れによって目を瞑る。もはや自分の体が下へ下へと転がり落ちて行く感覚と、大地を揺らす轟音しか聞こえない。
大陸の端から荒廃が始まり、いずれ全てが世界を飲み込む。以前頭の中に浮かんだあの不吉な言葉がハーミヤの中で過ぎった。恐ろしかった。それが現実になるようで。
「ハーミヤ様」
耳元で声がした。こんな状況だというのに、それは穏やかで優しいいつものルドルフの声だった。
「貴女は私が、絶対に守りますから」
やがて二人は、緑の草が茂る大地に放り出された。
ハーミヤが恐る恐る目を開けると、すぐそばにルドルフの胸があった。体はあちこち痛んだが、動けないということはなく、ハーミヤはゆっくりと体を起こした。
「……ルドルフ」
倒れたままのルドルフに、ハーミヤは声を掛ける。しかし彼は目を瞑ったまま反応がない。
「ルドルフっ!」
その体にはハーミヤとは比べものにならないほど、傷付きあちこちから血が滲んでいた。
ハーミヤは手をつくと、ルドルフの胸に耳を当てる。すると確かに心臓の動く音がした。
生きていることがわかると、目頭が熱くなった。
しかし感傷に浸る間もなく、ハーミヤはすぐに涙を拭うと、辺りを見回した。
一緒に落ちたはずの他の兵や馬の姿はどこにもない。どうやら二人だけが別の場所に落ちたようだった。
足元には一面青々とした草が繁茂しており、そのどれもが露に濡れている。
二人が落ちてきた場所に木々はなく、一本の立派な大樹だけが立っていた。その木の側には古びた小さな祠があった。それを目にした瞬間、ハーミヤはここが森の中心に位置する神木の前だと気がついた。
彼女は六年前に一度だけ、この聖域を訪れたことがある。
戦によって荒廃する国を憂えた母と共に祈りを捧げるために。当時の森は踏み荒らされ、祠も崩れてしまっていた。ただその中で神木だけが、美しい姿のまま立っていたのを覚えている。
ハーミヤは吸い寄せられるように神木の元へと歩を進めた。
あんなに美しかった神木が、今は枝の先から腐食が始まっていた。それを目にした瞬間、涙が出た。
戦乱の中で唯一、気高く在り続けたこの木も、世界の変事には成す術もなく朽ちている。
ハーミヤがそっと傷付いた神木に触れると、途端に光の洪水が襲った。
驚いている間もなく、ハーミヤは流れ込んでくる過去に呑まれた。




