起章:第十六幕:傷を負って見えた物
起章:第十六幕:傷を負って見えた物
手負いの獣は危険である、そんな言葉を現実世界に居た時聞いた事がある。
なぜ危険なのか、あとは仕留めるだけなのでは、と子供の頃考えていた気がする。
いざこうして、直視してしまうと、「あぁ、あの時の僕に今の光景を見せてあげたい」と思ってしまう。
両眼を失ったバンディットウルフは顎を大きく広げ、僕たちの立っていた位置に確実に迫ってきていた。下あごの先は時折地面をかすめ、土石を口内に運ぶが、炎に焼かれ一瞬で塵と化す。
クフィアーナの大樹を前にしても、そのまま直進し、なぎ倒すと同時に噛み、炭へと化す。その手負いの獣が僕たちを逃がさないというのは、最早食料としての意味ではないのだろう。
ただのプライド。そう感じ取れる。
残りの魔力を脚へと送り、身体強化を行う。そしてキーナさんを背負ったまま、森の中を右へ左へそして、前へと後ろから迫る双眸から血涙のように血を流す獣から逃げる。
最早姿を隠すのは無意味と悟ったのか、もしくは通常の木々を「視認」できなくなったために、僕たちを直線的に捉えただ真っすぐ進んできているのか。
『グガァァアアァァアアァァア!!』
そうバンディットウルフが吠えるたびに背中のキーナさんは小さく震え、腕の力を強めてくれた。
「キーナさん、怖いですか?」
そう、森の中を飛びながら問うと、右肩に押し付けられた顔が微かに左右に震える。
「そうですか。僕はめちゃくちゃ怖いです」
「え?」
そう返事をすると、間髪を入れずに返され、押し付けられていた顔が上がり、瞳に涙をためていた。
「めっちゃ怖いです。後ろからあんなのに追われて、下手したら死にます。怖いに決まってます」
でも足は止めない。当然、止まったら死ぬだろうし、止まりたくもないのだが、とうに限界を迎えている。
何で今もこうして、森の中をキーナさんを背負ったまま、走れているのか謎だった。
「でも、だからそこ、一歩前に出すと、続いて一歩と前に出せる」
あの日、フェリアさんからイヤリングをもらった日に言われた言葉を思い出す。
「一歩踏み出して、ダメだったら――」
バンディットウルフの突進が迫り、地面を強く踏み前へと跳躍し、なんとか回避する。
「それでダメだったら、隣に立っていた人の事を思い出すと良いそうです!」
着地と同時に、足を前に出し、止まったら二度と動かなくなる気がする足に無理を強いる。
「キーナさんの隣には誰が立っていますか?!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
問われ、誰だろうかと思案する。
父母どころか家族なんていうのは居ない。アスール村に流れ着けたのは幸運で、それからの人生は今まで受けてきた仕打ちに比べれば遥かに天国だった。
裕福なのではない。むしろ、その真逆。日々生きていくだけで精一杯。それでも、私は笑えていた。
そういった生き方が楽しいのではない。むしろ、その真逆。日々過ごしていくだけで精一杯。それでも、私は笑えていた。
その笑顔にはいつも近くに誰かが居た。
ガルムさん。私の古くなり、壊れたベルトを嫌な顔一つせず、修理をしてくれて、無償で良いと言ってくれた。
ビルクァスさん。私が村の外へ採取に出かけるとき、門番をしている時は必ず「気を付けて」と一声かけてくれる。
ラスティル。私の好きな人の妹。お店が休みの日に一緒に街中でお話ししたり、近くの泉に水浴びにいったりと、一緒に過ごしてくれる。
そして、フィリッツ。私の好きな人。彼の事を考えるだけで、口の端が上がる。不安が消える。
「良いですね、今の笑顔――、誰を想像したのかわかります」
顔に出ていたらしい。汗が滝のように流れているミコトさんの横顔は、どこか悪戯が成功したのが嬉しいような、そんな笑顔だった。
「もう少しです」
声と同時に、ミコトさんが左に飛び、重心がずれる。そしてさっきまで私たちが居た場所に獣の口が現れ、地面ごと抉りかみつく。
「ガルムさん」
左に避けた事で頭の向きを変え、こっちに振り向く獣の双眸は無く、あふれ出る鮮血のせいで別の意味で怖い。
「ビルクァスさん」
再び獣が見えていないはずの目で、私たちを正確に捉え真っすぐ進んでくる。
「ラスティルさん」
大きく顎を開いて迫ってくる獣を見据える。もうすぐ、この悪夢とも別れられるのだろうか、と思いながら。
何度も怖い現実から目を背けるために、ミコトさんの肩に顔を埋めた。その都度、心の中である人を思い浮かべた。
「それと――」
『――ィ―――アァァァァ!』
そう耳に何かの音を拾う。きっと後ろから迫る獣の痛みから発せられる声なのだろう、と「拾うな」と念じながら耳をたたむ。
その行動を感じ取ってだろう、ミコトさんは優しく声をかけてくれる。
「大丈夫、大丈夫……」
――と。埋めていた肩から顔を上げ、ミコトさんと同じく前を見据えると、本来ならこの時間は暗闇なのに松明かりが無数に焚かれ、浮き上がる村の城壁が見えた。
『――イィィ――ナアァァァァ!』
また、聞こえた。かすかに耳を伸ばす。
松明かりの中に浮き上がる、森に入ろうとしている給仕服を纏った垂れ耳のラヴィテイル。何かを必死の形相で叫んでいる。
その左には見慣れたドワーフの親方が両手で大きなハンマーを掲げ。右には顔に火傷痕を有する人間は他の鎧を纏った人達に指示を出すように、指さし声をかけていた。
「……僕が「生きてますよー」って声をかけるのは、いろいろロマンに欠けると思うんですよ?」
「……私、絶対に無理だと思ってました……。生きて帰れる訳が無いと、諦めてたんです。ミコトさんに助けられるまで……」
「誰だってあの状況ならそうですよ……。間に合って良かった」
今なお背後から迫る、牙と炎にいつかはやられるのだ、と。二度と愛しい人に名前を呼んでもらえないのだ、と。
それが今、二度も声を耳に聞いた。名前を呼んでくれたのだ、と思うと胸に込み上げてくる物が、あった。
これをどうすれば良いのかわからず、気づいたときには、胸から喉へ、そして口へ、森の中へ、愛しい人へ声にした。
「フィル――ッ!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さっきまでの恐怖に怯えていた表情はどこへ行ったのだろうか。
好いている人の前ではココまで人は変われるんだな、となぜか若干一七歳の小僧が思ってみる。
そして僕は別の光景が眼に入り、かなり嬉しかった。
何度も「ここに精霊が居れば」と思った事か、その願いが遠くの精霊をこの場へと集めたのだろう、目の前に広がる光景は神々しい物があった。
精霊が幾重にも重なり、高さを増し、幅をまし、まるで村の城壁の外にもう一枚光の壁があるかのような形を成していた。
正直、キーナさんを送り届けた後、どうやって「アレ」から逃げようか、と思案していたが、これなら大丈夫だと思う。
「キーナさん。次、前に大きく飛びます。そしたら、降りてみんなの所に走ってください」
「え?な、なんでですか?」
「大丈夫です。「アレ」はもうキーナさんは見えてません。ここまで森の出口まで来れば、別のディアブロに襲われる可能性も低いでしょう」
だから、と続ける前に脚へ残りの魔力の半分を注ぎ、全力で前に飛び、バンディットウルフとの距離を広げる。
着地して、バンディットウルフとの間を確認する、距離にして百メートルくらいだろうか、離れる事ができ、安心してキーナさんを背から降ろす。
森というか、木々が埋まっているのは残り十数メートルで、フィリッツさん達もこっちに寄ってきていた。
「走ってください。それから、フィリッツさん達に、森には入らないように、と。何があっても村の中に戻ってください、と伝えてください」
あ、その前に……。
「キーナさん」
返事を待たずして、彼女に幻術魔法をかけ、身なりを整える。
「そのままの格好で戻れば、フィリッツさんが心配しますから身なりが整ってみえる幻術をかけました。愛しい相手の腕に抱かれるのは着替えてからにしたほうがいいですよ?」
「なっ!……意地悪です……ミコトさん」
キーナさんは顔を真っ赤にして、ふてくされたようにしながら言われるが、後に短く頷き、森の外へ一人で駆けていった。その足取りは、確かなもので、これなら大丈夫そうだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
キーナがミコトさんの背中から降りて、最初はゆっくりではあったが徐々に加速して森の中で兄さんの腕に抱かれた時、良かったと安堵したが、それ以上にミコトさんが森の中で森の方へ向き直り佇んでいたのが気になった。
そして、なにかキーナが兄さんに伝えてから二人で、森の外へ出てきたときにはミコトさんは右腕を空に掲げ、盾にしか見えなかったクロスボウを広げていた。
直後、バツンと何かが弾かれた音が森から聞こえたと思うと、ミコトさんの奥に居た何か黒い影が飛び跳ね、空へと双満月が照らす世界へと姿を現した。
それはまるで、巨大な真っ黒い狼で、飛び跳ね大きく開いた口から火の粉を吐き、その先にはなにか青白く淡く光る小さい何かがあった。それはまるで夜空に淡く輝く星に見え、狼が口を閉ざすと同時に口の中に納まったのだろう、淡く光る星は見えなくなった。
そして、ミコトさんの左手から店でも聞いた指を弾く音が聞こえると、光り輝いていた壁の一部が解け、糸のようになり夜空の狼の周りにまとわりつき、四肢をばたつかせていた。
狼は空から落ちる事が無く、何故か空に浮き、徐々に集まる光の糸にくるまれその姿は三つ目の「月」にさえ見える程の大きな球体になると、完全に狼は見えなくなりただの光の玉が空に浮かんでいた。
ミコトさんはその状態を見て、落ち着いたのか膝に手をつき、苦しそうに呼吸を整えていた。
そこで、兄さん達が森の外へ出てきて、全員村の中に入るよう、ミコトさんに言われたと言う。
しかし、キーナさんを含め、そこに居る全員が未だに動こうとしないミコトさんを見つめ、誰しもその場から村へと近寄ろうとはしなかった。
みんなに静かに見つめられているミコトさんの頭上には大きな三つ目の月がある事に気づいているのはここに居る人達では私だけなのかもしれない。
それが嬉しくもあり、同時にひどく怖い事であるとも思った。
そして、ミコトさんが膝から手を離し、身体を起こすと同時に、微かにミコトさんの声が聞こえた。
「デュウェス・フェル……」
古代エルフ語だと思われる。別に学んだ訳ではないのに、何故か私の中に「その場にて集え」という意味が解ってしまう。
そしてその意味が解ると、全員の眼に見えていたのだろう、誰しもが息をのみ、目の前の光景を見つめていた。
私にはただ、光の壁が、徐々に崩れ一本の巨大な光る槍へと姿を変えた。しかし皆には突如、眼前に光る槍が現れたように見えているらしい。
その槍は、穂先が三つあり、各々違う角度に跳ね、柄の頬に行くにつれ、螺旋を描き集まり一つの柄となっていた。それはまるで武器ではなく、一つの芸術品にさえ見えた。
ミコトさんはその槍の柄を持っているかのように森の中で手を握ると、槍が微かに揺れ、震えた。 そして、ミコトさんは穂先を第三の月へと向け、口を静かに開き、
「アディッ・レイアッ!」
――、と。「駆けて、穿て」と声にした瞬間。私たちの眼前にあった槍が放たれ、近くに焚いてあったたいまつの火を全て消すほどの風圧と共に空へと上がり、第三の月へと刺さり、月にぶつかった音なのか轟音と共に爆ぜて夜空を朝に見間違う程明るく照らした。
轟音と光をやり過ごし、静寂を迎え入れて誰しも唖然としていた中、ミコトさんの所在を確認するため森へと視線を向けると、そこには誰も居なかった。
誰しも何が起きたのかわからず、硬直していたが、沈黙を破ったのはたった一人の自警団員だった。
「キ、キーナさん……、凄い血ですがどこか怪我を……しているのですか?」
そう口にした言葉に誰しも、ミコトさんの存在を忘れ、キーナに振り返るが本人は至って健康なのか、疑問に思うような顔をしていたが、月明かりに照らされる彼女の衣服は、血にまみれ、所々黒々と固まっていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
寒い……。
精霊の槍<エピルフィア>を放ち、光と轟音が止む前にみんなの前から姿を消して、白の森に入れたのは良いが、完全に「血が足りない」。
息が整わず、歯と歯がカチカチと合わさり、音を鳴らし、身体が震える。
キーナさんを最初に助けた時に、バンディットウルフの片腕しか防げず、反対側の爪が背中に刺さったのは完全な失敗だった。
簡単な回復魔法は教わってはいるが、回復魔法は「己にかける」事が出来ず、ただひたすらキーナさんを背負う事で少しでも出血量を抑えていた。
度重なる無理な移動で、何度も傷が開きその都度目が覚める痛みが生じ、なんとか意識を保っていたようにも思うが。
背中から守るべき命を降ろした今となると、痛みも薄れ、どこか睡魔に襲われ始める。
寝るわけにはいかない。家に帰らないと、フェリアさんに殴られる気がする。イダさんは泣く気がする。
意識している訳ではないのに、何故か頭が垂れ、視界が道を捉えていたのに、徐々にさがり、足元だけ映す形になり、それでも歩を止めず歩こうとしたが、眠気が勝り、目を開けている事すらおっくうになってきた。
完全に視界が暗くなり、何かに躓いたのだろう、身体が徐々に前に倒れ、地面に当たる衝撃を覚悟したが、いつまで待ってもそれは訪れず、何かにぶつかって倒れいく身体が止まる。
どこか嗅いだ事ある、甘い香りに、懐かしさを覚えたが、眼は意に反し徐々に瞼を重くして、二度と光を捉える事は出来なかった。
その代わり、耳には音が聞こえた。肌には小さい手が背中に回されるのがわかった。
「おかえりなさい。私の騎士」
そこで、僕は意識を手放した。




