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第九話 木戸孝允

東京と名を改めた江戸、龍次郎もまた酒巻武良と名を改め妻の寧々と共にやってきた。

二人は師の高松凌雲が開設した病院に住み込みで働き出したのである。意外にも凌雲には弟子がいなかった。武良は医傑凌雲の一番弟子となったのである。寧々は二番弟子と云うところか。


治療が良かったのか、武良には宮古湾海戦で受けた負傷の後遺症もなかった。

快癒後は凌雲の医術を懸命に学んだ。凌雲は患者には優しいが教えは本当に厳しかった。一度言っても分からなければ容赦ない叱責と平手が飛んできた。睡眠時間を削っても武良はその日の治療の復習をしていた。武良自身は凌雲の教えをつらいと思ったことは一度もなかった。厳しくも凌雲は温かかったのだ。

十五歳で凌雲の弟子になった武良は頭もやわらかく覚えが早い。もう自分が生きていくにはこれしかないとも思っていたからだろう。凌雲の持つ医学書はすべて書き写して覚え、凌雲から直接教わらなくても、その治療法を見てどんどん盗んだ。


明治三年、寧々はめでたく女児を出産。武良と寧々は十七歳で父母となった。女児の名前は『酒巻松会』二本松と会津の名から一字ずつ取ったのだ。

松会まつえですか…。いい名前です」

産後、愛娘を抱いている寧々。疲れきっていたが充実した顔、もう母親の顔だ。

「凌雲先生が名づけてくれた。二本松と会津の子だと」

「本当にいい名前…。戦が終わった後で生めて良かった…」

「まったくだ」

病室の外から

「若先生―ッ!いつまで患者を待たせるのですか―?」

看護婦が武良を呼んでいる。

「おっと、もう外来の時間だ。寧々、ゆっくり休んでいるんだぞ」

「はい、お仕事がんばってね」

「うん、松会のためにもな!」

弟子入り二年後には診察室も一つ預けられ、看護婦や患者からは若先生と呼ばれていた。


箱館戦争後、高松凌雲は東京に戻って病院を開院した。明治政府の高官の誘いも来たが彼は全部断り、市井の医者として生きていくことを選んだのだ。凌雲の医術を学びたいと云うものは多かった。ただの憧れで出来るものではなく十人志願して残るのは一人か二人であったらしい。武良は一番弟子として師を助け、凌雲の建設した病院は成功する。


そんなある日、武良は凌雲から仕事を任された。医者が足らない地方に行き半年ほど医療に従事してほしいというのだ。現地は凌雲を要望したが多忙のため断るしかなく、弟子の一人を派遣すると云う運びになった。

「分かりました。で、任地は?」

「山口だ」

「は?」

「旧長州藩だ」

「…私が、長州に?」

「イヤかね?」

「……」

「意地の悪いことを、とでも思っているのかね?」

「…はい」

「正直だな。まあ私も正直言えば山口でなければ他の者を行かせていたかもしれない」

「はあ…」

「私が君を弟子にするとき、これだけは守れと約束したことがあるな」

「『医者に敵も味方もない、あるのは患者だけだ。もし君が薩長土の者だからと治療を拒否した時は破門する』と」

「そうだ。私は今まで二度、目をつぶってきた」

「い…!?」

確かに武良は患者が薩長土の者と聞き、治療を拒否して凌雲に内密で他の同僚医師に回したことが過去二度あった。さほど重症ではなかったからと云うこともあるが、それでも凌雲との約束を破ったことに変わりはない。師の凌雲の目はごまかせていなかったのだ。

「まだ若いゆえ、二度まで許すと思ってきたが三度目も時間の問題であろう。三度目は私も君を破門するしかない。だからその前に私から手を打ったと云うわけだ」

「先生…」

「怨みがあるからその患者を治療しないのでは、どんなに優れた医術を身につけても仁術を身につけてはいないということ。もう一度言うぞ。医者に敵味方などない。あるのは患者だけなのだ」

「はい…」

「住居は山口県庁がすでに用意している。寧々と松会を連れて三日以内に発て。分かったな」

「は、はい!分かりました!」

(寧々は何と言うか…)


その夜、家に帰った武良は寧々に山口行きを告げた。

「長州に半年も!?」

「そうだ」

寧々の大きな声で寝ていた松会が起きて泣き出してしまった。

「あらあら、ごめんなさい。お母さん、つい大声を。おお、よしよし」

泣いている娘を抱いてなだめる妻の背にそのまま語る武良。

「気持ちは分かる。五稜郭では他者より率先して長州兵の搬送をやった寧々といえどな…」

「…はい、正直複雑な心境です」

「寧々は凌雲先生から最新の産科医術を学んで、そして体得もしている。当然補助にもついてもらうが長州藩の女たちにもここと同様に温かい産科医でいられるか?」

「……」

泣き止んだ娘を蒲団に入れて武良の前に戻る寧々。

「この山口行きは凌雲先生のご指示、イヤであろうが行くしかありません」

「それはそうだが…」

「それに…現地で医者として尽力すれば、旦那様も私も長州の者に感謝されるではないですか。亡き伊庭様のお言葉『戦以外で仕返しする道を選び、その道で薩長に頭を下げさせてみろ。お前の勝ちだ』旦那様、私たちは早速長州者に頭を下げさせることが出来ます。むしろ凌雲先生のご指示はまたとない好機ではないですか」

「そ、それもそうだな…」

「旦那様、私たちの生業は医者しかないんです。凌雲先生に破門されるわけにはいきません。与えられた仕事に全力を尽くしましょう」

「そうだな、うん、そうしよう!」


かくして三日後、東京の港から下関の港を目指した武良と妻子。

この当時、維新の立役者の国となった長州とは言え医療技術の基準はそう他の地方とは変わらなかった。それで高松凌雲の招致が考えられたわけであるが、来たのは弟子で、しかも十八歳になったばかりの若者であった。

山口県庁は失望したが凌雲が直々に推薦しているので無下にも出来ず、そのまま凌雲と同じ待遇で出迎え、そして五日後に下関の病院に勤めることとなった。


山口県庁に着いて、その辞令を受けた当日、驚愕する事件が起きた。別室で県庁役人と要談していた武良の元に血相を変えた役人が駆け込んできた。

「た、大変です!」

「どうされた?」

と、武良と話していた役人が訊ねた。

「て、敵襲です!」

「な、なにぃ?」

「この県庁に不平士族が攻めてきたのです!九州で起きた乱と同じです!数は二千!奇兵隊です!」

「き、奇兵隊だって!?」

武良の故郷、二本松藩を蹂躙した長州藩の主力部隊である。

奇兵隊、戊辰戦争終了後、大村益次郎による徴兵制度が行われると奇兵隊は不要な存在となる。奇兵隊は士分に取り立てられており、維新後は態度が武士化していた。彼らは維新動乱の命がけの戦争に挑んだ理由は勝利したあと新政府高官に取り立てられ名誉ある地位と高給が得られると思っていた。だから命がけで戦った。

だが今まで自分たちの上官であった大村益次郎により刀は奪われ、武士になれたと思えば維新の戦争を経験していない農民町民と同列にされてしまった。新政府の構想は士分廃止であり開国である。ついに奇兵隊士の不満が爆発、武力蜂起して山口県庁を攻めたのである。包囲して声を荒げる。

『天下の人心は以前と異なっている!』

『民衆の心は新政府から離れている!』

『王政は幕政にしかず、薩長は徳川に劣る!』


窓から県庁を包囲する二千の軍勢を見つめる武良。

「なんてことだ…。よりによって下関に到着した日に!」

だが、この挙兵は明治政府に露見していた。奇兵隊が県庁を包囲して数刻後に下関港に政府軍が上陸した。

しかもその部隊を率いていたのは桂小五郎、今の木戸孝允である。県庁の役人たちにもその知らせが入り、安堵の声が庁舎内に流れた。武良は

「早すぎる。なぜこんなに申し合わせたように政府軍が」

と驚いていた。それに答える県庁役人たち。

「いや、前々から奇兵隊どもは政府に不満を訴えていたのですよ。まったく時代遅れは困る」

「それにあの中から政府高官の椅子などをエサに内応したのもいたでしょうな。まさに烏合の衆」

「とにかく我が身が安全でよかった。奇兵隊め、はよ殺されてしまえ」

「……」

(…なるほど、こういうヤカラが出世して県や政府の偉いさんになれて、立ち回りの悪い不器用な者が貧乏クジをひき…)

県庁舎の外から銃声が響いた。政府軍は大軍であり、奇兵隊はアッと云う間に離散していった。

(ああやって、かつての同胞に殺されていく…)

政府軍の追撃は厳しく、そして木戸孝允も容赦ない弾圧に出た。二百名が捕らわれ、裁判も無しに国家反逆罪で斬首刑となり首をさらされたのだ。


翌朝、武良はその首がさらされている場所へと歩いていった。妻の寧々も一緒に行き、その哀れなさらし首を見た。

遺族たちが首を囲んで泣いている。処刑された農家出身の隊士は斬刑直前にこう言ったと云う。

『国のためにしたことが、こんなことになろうとは』

と。あまりに無念だったのか血涙を流したまま首となっている者もいた。一つ一つの首を見る武良。

かつて二本松藩を蹂躙した長州藩の奇兵隊、武良は維新後に調べて知っていたのだ。霞ヶ城下は落城後に分捕りと強姦の嵐となっていた。薩長土の政府軍は分捕りを行う地域を暗黙の境界線で分けていた。

そして酒巻家がある地帯で分捕りと強姦をやったのは長州藩の一隊だと分かった。

奇兵隊かどうかは知らない。しかし奇兵隊は長州軍の主力であったため奇兵隊がやったと思うのが自然だ。武良は母を殺し、義姉と妻を強姦したうえ殺したかもしれない男たちの死を見届けに来たのだ。


(確か才次郎が討った白井某も奇兵隊士と聞く。その男は才次郎に討たれて幸せだったのかもな)

その時だった。

「わあっははは!ざまあみろ!!」

「我らの国を蹂躙したツケだな!因果応報だ愚か者!」

武良と同じく故郷を長州軍に蹂躙された者たちなのだろう。奇兵隊の処刑を聞いて喜び勇んで見物に来たのだ。

「けっさくだ。ほうれ、俺様の小便でもくらいな。末期の酒だ。わっははは!」

首を地に放り、小便をかけている男。仲間たちも笑っている。遺族たちは激怒して殴りかかろうとしたが

「かつてこいつらが我らの国にやったことだ!」

「俺の女房と娘は奇兵隊に輪姦されたうえ殺されたんだぞ!」

「何が新時代を作る戦だ!こいつら子供まで殺したんだぞ!」

そう激しく罵られた。遺族たちは無念だが何の反論も出来ない。遺族にとって良き父兄、夫であろうと彼らにとって奇兵隊はまぎれもなく悪逆非道の侵略者なのである。

「旦那様…」

切なそうに武良を見る寧々。

「止める気も彼らを責める気も無い。俺とて凌雲先生に教えを受けていなかったら間違いなく似たようなことをしている」

「そうね…。私も内心どこかで溜飲をさげている」

「死者に鞭打ちたくはないが…どんな立派な大義名分をかざそうが、錦の御旗を立てようが、彼らがみちのくを蹂躙したのは事実なのだ。自業自得だよ」

「確かに自業自得ね…。みちのくの女たちを輪姦して殺した者に安泰など許されない」

「奇兵隊の大部分は農民と町民と聞く。百姓を続けていたらこんな末路はなかったろうに。明治維新のあと、また農民か町民なり戻れば良かったものを」

「我慢ならなかったのでしょう。武功に見合った褒賞と官職を得られるまで退くわけにはいかない、このままお役御免では何のために戦ったか分からないと…」

「おそらくな…。しかしそれは国のためではなく自分の立身出世のために戦ったと言っているようなものだ」

「でももう土に戻れなくなっていた…」

「少し考えれば分かったはず。維新のために戦った全兵士に新政府が報いきれるわけがないと。弓は必要が無くなれば蔵にしまわれる運命にある。いつまでも政府に意地を通せば身の破滅を招き、そしてそうなった…」

武良と寧々は悲しい首に手を合わせることも無く立ち去った。


そして武良は下関の病院に一年と二ヶ月間勤務し、東京に帰っていった。下関での武良の医療活動の内容は伝わっていないが半年の任期のところを八ヶ月間も延期したことから現地の人々に引き止められるほどの活躍であったかもしれない。まぎれもなく武良と寧々は長州の者に感謝され、そして頭を下げさせたのだ。しかし彼は自分が二本松藩士の子弟と一言も口にしなかったと云う。


◆  ◆  ◆


数年の歳月が流れた。酒巻武良は凌雲から独立、東京で小さな診療所『酒巻医院』を建てた。師と同様に貧しい者からは診療代は取らず、かつ腕も良いので助けられた者は多い。

明治十年、武良は二十三歳になっていた。忙しい合間を縫って寧々との間に生まれた子どもたちと遊び、幸せな日々を送っていた。そんなある夜、寧々が武良の書斎に来た。

「旦那様、往診をお願いしたいと来ていますが」

「そうか、では出かけよう。準備を」

「はい」

医療具を持って外に出た武良は驚いた。何と馬車が待機していたのだ。

「…?」

「先生お早く。主人の元に連れて行きます」

御者が行った。

「あ、ああ…頼みます」

馬車で行くこと二十分ほどで患者宅に到着。表札を見て唖然とする武良。

『木戸』

「木戸…。しかもこんな大きな屋敷…。ま、まさか患者は桂小五郎なのか?」

拳を握る武良、故郷二本松を蹂躙して家族を殺した長州藩の元凶桂小五郎、それが患者なのか。


やがて桂小五郎、今の木戸孝允が床に伏せる部屋に行った。彼の妻の松子が寄り添っている。

「医師の酒巻です。往診に参りました」

「家内の松子です。当家より近く、かつ名医と呼ばれる酒巻殿に是非往診してもらいたく、夜分に無理を申しました。申し訳ございません」

「では早速…」

仇敵の桂小五郎は痛々しいほどに弱りきっていた。

「…医者か」

「脈を拝見します」

「…無用、もう私は助からない」

「それは医者が決めるのです。患者がそんな弱気だと治るものも治らない」

「……」

脈を取り、瞳孔を確認、松子に着替えと蒲団を用意させた。

「ひんぱんに湿った寝巻きと蒲団を変えなければならず、水は飲めるだけ飲ませてください。塩と砂糖を適度に溶かしたぬるめの物なら尚いいでしょう。そして…」

枕を肩の下に移動させ、そして頭をのけぞらせた。

「気道の確保と言います。これで呼吸が楽になったでしょう」

「…ああ、だいぶ楽になった」

「仰向けで横になっている時はこの体位で。睡眠に入る前は体を横向きにして寝て下さい。舌根が喉に沈下するのを防ぐためです」

「分かった」

「木戸さん、貴方の病は心痛から来たものです。私にはここまでが精一杯です」

「ほう、どうして私が心を痛めていると?」

「私は医者ですから分かります」

木戸は奇兵隊の弾圧から精神に異常をきたした。

加えて政界で繰り返される権力争いに嫌気が差しており、しまいには長州藩の同胞の井上馨や伊藤博文とも不仲になってしまったため精神的に追い詰められていたのだ。慢性的な頭痛に悩まされ、この時すでに半身が不随であったと云う。

「……」

「その心の痛みにはどんな処方箋もございませんが、とにかく解熱剤を置いていきます。これにて」

「…待たれよ。松子、席を外せ」

「は、はい」

「木戸さん?」

松子は部屋を出た。木戸と武良のみである。

「私に…何か言いたいことがあるのではないか」

「…なぜ?」

「…顔に『この男を診ることになるとは』と書いてある」

「……」

「私を憎んでおるのか…」

「はい」

「憎む男に対して、こうも温かい処置をしてくれるとはな…」

「十年前に…お会いしたかった。撃ち殺してやったのに」

「貴公は会津藩の者か?」

「二本松藩です」

「…少年兵たちの生き残りか…」

「なぜ会津藩を生贄にする必要があったのですか」

「……」

「『断固たる基礎を据えるには戦争より良法はない』『戦争は実に大政一新の最良法なり』『天皇のチカラを見せ付けるために、相手に絶望感を抱かせるほど徹底的に残虐非道な戦争の遂行』と強く主張したのは桂小五郎と西郷隆盛と聞いています。事実なんですか」

「事実だ」

「どうして…。会津は恭順を示していたのに!それを受け入れてさえいれば、みちのくの人々は死なずに済んだのに!私の家族は殺されずに済んだのに!」

「幕府を完全に葬り去り、新政権を世に知らしめるには劇的な幕切れが必要だったのだ」

「…何を根拠にそんなことを!そんな幕切れがなく江戸城で戦いが終わったとしても何ごともなく今のような平和の世が来たかもしれないでしょう!」

「かもしれぬ。だがあの時は戦争の継続が上策と考えたのだ」

「なぜ…」

「平和な統一では、諸大名に余力が残ったままと相成る。新政府に不満あらば武力蜂起しようし、徳川も回復してしまう。西郷、大久保、岩倉卿、そして私が画策した『王政復古』は潰え、元の木阿弥となってしまう。だから戦争を続けて会津を叩きつぶし新政府に逆らうとこうなるぞと示す必要があると考えたのだ」

「バカな…」

「言えることは上策と思ったことを遂行しても最良の結果を得られるとは限らないと云うことだ。お前の言うとおり江戸城で戦いをやめていた方がもう少し良い世であったかもしれぬ。だが人間はその時その時に是と選んだことを実行するしかないのだ。結果がどうであろうとも」

「……」

「納得いかんか…?」

「…あの戦は薩長にとって正義ではなく錦の御旗と多くの最新武器を嵩にとった弱い者いじめと云うことが改めて分かりました」

「否定できんな。する資格も私にはない…」

木戸と武良の間に沈黙が流れた。

「もう一つ」

「…ふむ」

「貴方が軍律を徹底させていれば…」

「……」

「私の父と兄、師と仲間たちが戦死したことに対して怨みはない。勝負だから仕方ない。武士である以上、戦場に出ることは覚悟のうえのこと。しかし私の母と義姉、妻は戦闘員ではない。奇兵隊には現地の民に狼藉してはならないと高杉晋作の定めた掟があったはずです。なぜ!」

「戦は狂気だ…」

「…?」

「勝利もまた病の元となっていく」

「……」

「高杉の奇兵隊旗揚げ当時はみんなその掟を徹底して守った。それが誇りだった。しかし連勝を重ね、ついには江戸城を落とし、将軍慶喜を降伏させてからのち奇兵隊には勝者の驕りが出た。武器が貧弱で実戦経験のない奥羽諸藩に連戦連勝し…ついにはその連勝が奇兵隊を蝕んだ。いつしか奇兵隊は初心を忘れ去り…掟を無視して各々が欲望のために戦いだした」

「…答えになっていません。それを押さえて軍律を守らせるのが指揮官でしょう!」

「軍律を守らせるには褒美が必要だ。だが政府軍にはそんな金はなかった」

「だから…やりたい放題にさせていたと云うのですか…!」

「そうだ…」

「『勇にして礼無ければ即ち乱れる』これが長州の武士道なのですか。女子供を殺して…何の新時代だと言うのですか!」

「そう…明治維新に勝利者は存在しない。あったのは破壊と殺戮だけだ…」

「……」

「だから今の私を見ろ。歴史に選ばれ、そして捨てられていく私の今のみじめな姿を…」

「……」

「因果は巡る。遠からず私は死ぬ。長州の麒麟児と呼ばれた私が駄馬以下となって死んでいく。それでいいのだ…。それでな」

穏やかな微笑を浮かべる木戸。

「…それとも私を討つか?」

「…いいえ、もはや貴方は私の患者。そうはいきません。それに…」

「それに?」

「貴方を殺して投獄されるほど暇人ではありませんので」

「ふっ…。ちがいない」

「では、これにて」


武良はその後も定期的に木戸を往診している。会津戦争については最初の往診以降クチにしなかった。

木戸はよくうわ言で『すまない』『許してくれ』と云う言葉を発していたと云う。奇兵隊に対してか、それとも死に追いやった会津や二本松の者たちに詫びているのか。

武良は長州の麒麟児と呼ばれた男の哀れな末路を見てどう思ったのだろうか。


◆  ◆  ◆


同年二月十五日、日本最後の内戦と云われる西南戦争が勃発した。

これは野に下った西郷隆盛の弟子たちである私学校の生徒が隆盛を擁立して、明治政府に『政府に尋問の筋あり』を大義名分に挙兵。一万五千もの大軍で鹿児島を出発して熊本に入り、熊本城を包囲したのだ。


九州は戦乱となっていたが東京の酒巻家は平穏な朝食を迎えていた。

「旦那様、西郷が挙兵したそうですね」

と、寧々。

「うん、この新聞にも書いてあるよ」

「もう!朝食の時に新聞はやめてくださいと」

「ははは、ごめん」

「ところで旦那様」

「ん?」

「昨日届いた元老院からの書、どんな用件だったんです?」

「なんだ、気になっていたのか?」

「はい、市井の一医者にすぎない旦那様に政府の偉いさんから何をと思って」

「佐野常民殿からだった」

「そ、そんな大物政治家から?」

佐野常民、緒方洪庵の適塾で学び、華岡青洲が創設した春林軒塾でも医学を学んでいた。佐野自身は医者にならず政治家であったが医療にかけては武良の大先輩である。

佐賀藩出身で明治維新の時は国内不在であったが帰国後に藩主鍋島直正(閑叟)の推薦で元老院の議員となっていた。

「今しがた話に出た西郷の挙兵についてのことだよ」

「西郷の挙兵について?」

「ああ、現地の医療活動に手を貸してくれないかと」

味噌汁を吹き出して咽る寧々。

「じょ、冗談じゃありません。やめて旦那様、もう貴方は兵ではなく医師なのですよ。私の良人であり、子供たちの父親なんだから」

「分かっているよ寧々、矢弾飛び交う戦場、そんな物騒なところに行けないよ」

「安心しました」

武良は佐野の要請に『私の治療が必要な患者がここにいる』と断っていた。

しかし優秀な若い医師こそ戦地に必要である。佐野はあきらめず書を送る。


熊本城から三キロほど北にある田原坂という場所は、かの加藤清正が敵軍の進入に備えて作った要地であり、地形は蛇行した坂道の窪みである。そこに薩摩軍は布陣して政府軍を迎え撃った。

激戦は二週間続き、両軍合わせて六千人の死者が出た。負傷者の数はそれ以上にのぼり、負傷者の収容ができない状態であった。このような実状を東京にいた常民は同じ元老院の同胞である大給恒と相談して、西南戦争の負傷者を救護すべく組織を作る計画を立て、博く愛する社『博愛社』と云う組織を創立したのだ。


明治になって大火が二度ほど東京であった。酒巻武良は負傷者の治療をするため師の凌雲と共に現地に行っている。

一般に知られていないが酒巻武良は自分に任された傷病者たちに対して治療優先順位を示す札をつけていたと言われている。つまり今日で云うトリアージを日本で初めて行ったのだ。それは師の凌雲も真似たほどで多くの命を助ける要素となった。

佐野はそれを伝え聞いていた。集団治療の経験があり、しかも良い結果をもたらした武良に現地の医療を行ってもらいたいと考えたのだ。


だが武良は腰をあげない。助けてやりたい気持ちはあるが自分にも患者がいる。業を煮やした佐野は

『貴方の師の高松凌雲は五稜郭に行ったではないか』

こんなことまで言ってきた。何と云うことを言ってくる。武良は頭を抱えた。ちなみに師の凌雲も多くの患者の治療を手がけており、とても戦地である九州に行くことは出来なかった。

「レッドクロスの精神か…」

活動は敵味方を問わない、人道的支援を目的としている。戦場で傷ついた者は敵味方の区別はつけず治療する、これがレッドクロス、赤十字の精神である。


「先生」

武良の部屋に看護婦が来た。

「なにかね?」

「木戸様の奥方がお越しですが」

「ああ、そういえば今日は往診に行く日だった。でも刻限よりずいぶんと早いな」

「先生にお話があると」

「…?通してくれ」

木戸孝允の妻松子が来た。武良の前に座った松子。

「先生、本日早朝に木戸が亡くなりました」

「え…」

「見舞いに来た大久保卿(利通)の手を握りながら『西郷、もういい加減にせぬか』と発し、そのまま息を引き取りましてございます」

「…そうでしたか、チカラ及ばず、申し訳ございません」

「木戸から聞きました。先生は二本松藩の少年兵たちの生き残りだと」

「ええ、そうです」

「怨み骨髄に至っていよう木戸に対して、あんなに温かい治療をして下され木戸の妻として感謝しています」

「いえ」

「木戸から頼まれました。これを渡すようにと」

「…?」

それは長方形の包みだった。

「五百円入っています」(現在の金額で約五百万円)

「ごっ…!?」

「腹を立てないで下さい。元老院の佐野殿から九州へ行ってくれるよう頼まれていることを人づてに聞きました。戦場の医療には何かとお金もかかるでしょう。今までの治療代も含めて先生に渡すようにと木戸から仰せつかりました」

「木戸さんから…」

これは木戸家の全財産に近いとも言われている。

「『逆賊となった薩摩も日本国の民、何とぞ救ってやって欲しい』そう申していました。先生、どうか木戸の望みを叶えてくれませんか。かつて維新を戦った仲間たちが敵味方となり戦うことに木戸はどんなに嘆いていたことか…」

頭を垂れる松子を見つめる武良。そして

「分かりました」

「先生…!」

「私は九州に行きましょう」

「あ、ありがとうございます!」

「木戸さんの御霊にお伝え下さい。このお金、けして粗略にしない、一人でも助けるべく使わせていただきます、と」

「は、はい。木戸も泉下でどんなに喜ぶか」


翌日、師の高松凌雲に会った武良。

「先生、俺九州に行きます」

「…すまんな、出来れば私も行きたいのだが」

「いえ、先生は東京にいるべきです。先生を頼みにしている患者はいっぱいいるんですから」

「それを言うなら君とて。でもよく決心してくれた。礼を言うぞ」


良人の九州行きを知るや寧々は猛反対。

「九州には行かないと言っていたではありませんか!」

「戦いに行くわけじゃない。救護に行くんだ」

「しかしあまりに危険です!」

「承知のうえだ」

「……」

「俺はいまだ薩長、明治新政府を許してはいない。今後の人生でも許す気もない」

「私もです…」

「しかし生業を医者とした以上、患者を選んでは失格だ」

「旦那様…」

「薩摩の者に見せつけてやるさ。お前らがバカにした二本松藩の男がどれだけのものか…それを示すためにも俺は行く!」

あと2話ほどで最終回となります。

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