第七話 北の大地
会津を出た龍次郎と寧々は榎本艦隊が滞留している石巻の軍港を目指した。
艦隊を指揮するのは幕臣の榎本武揚。彼は多くの幕臣を乗せて江戸を脱出した。江戸城が薩長新政府に明け渡され、いよいよ行き場のなくなった幕臣と共に新天地に向かった。それが蝦夷、現在の北海道である。
榎本は十九のおり幕命で蝦夷地を探索したことがあり、その広大な地の開拓を夢見ていた。蝦夷に幕臣たちの国を作る。薩長に干渉されず諸外国にも認められる新国家を築く。途方もない話だ。だからこそ土方歳三を始めとする男たちがそれに賭け、北の大地の蝦夷へ向かった。
◆ ◆ ◆
会津から石巻に向かう龍次郎と寧々。山を登り、川を下る。難所に至っても龍次郎は寧々の手を取り、時には背負い歩いた。まだ鶴ヶ城で受けた足の負傷は完治していなかったのだ。歩くのが辛そうだった妻を背負う龍次郎。
「ありがとう、旦那様」
「妻を守るのは当たり前だろ」
「一緒に行くと言っておきながら足手まといなんて申し訳なく思います」
「側にいるだけで嬉しいんだ。家族が出来たんだから」
「私も…」
共に戦争で家族を失っているのだ。ただ一人の家族の妻であり良人。龍次郎は苦にならなかった。
「ねえ…旦那様」
「ん?」
「開陽丸、女も乗せてくれるのかしら」
開陽丸とは榎本艦隊の旗艦である。
「うん、それは俺も気にかかっているんだけど…」
「どうしても無理なら石巻でお帰りを待っていますから」
「生きて帰ってこられるかも分からないんだ。連れて行くよ」
「旦那様…」
「男で通そう。声を発するとバレるから言葉を生来失っていると取り繕う」
「会津武士はウソをついたらダメなんですが…」
「ウソではない。方便だよ」
「ふふっ、そうですね」
やがて石巻の軍港に到着した二人。軍艦開陽丸の大きさに圧倒される。
「こっ、これが開陽丸、すげえ!」
「鉄で出来ているのに、どうして沈まないのでしょう」
「そうだよなァ。不思議だ」
しばらく開陽丸に見とれていた二人。
「やっぱり石巻で待っていられません。私もこの船に乗りたいです」
「うん、寧々と一緒に乗りたいよ」
「私、船の旅って初めてです」
「俺もだ」
「あ、そうそう旦那様、ツテである大鳥隊長と土方様は?」
「うん、探そう」
ややあって伝習隊の隊士と再会出来た龍次郎。
「おお、母成で会った二本松のわっぱじゃないか。無事だったのか」
「はい、何とか」
「間に合ってよかったな。明日に蝦夷地に出航なんだ」
「そうだったんですか、良かった」
「大鳥隊長ならば本陣に土方さんと一緒にいる。案内しよう」
隊士に伝習隊本陣に案内された。
「ここで待っていろよ」
「はい」
隊士は本陣の大鳥と土方に伝えに行った。
「隊長」
「なんだ?」
「母成で我ら伝習隊に入隊した二本松の少年が訪ねて来ました」
大鳥と土方は顔を見合った。
「そうか、無事だったか」
ホッとする土方歳三。安否が気にかかっていた。
「よし通せ」
大鳥は目通りを許した。龍次郎は大鳥の前に行った。
「酒巻龍次郎、ただいま会津から馳せ参じました」
「おう、無事で良かった。鶴ヶ城が落ちたと聞き案じておったぞ」
「ありがとうございます」
「なんだ?元服したのか」
と、土方。以前にあった龍次郎の前髪がない。
「はい、会津藩公松平容保様が元服親になって下さいました。名は『武良』と」
「それは良い名だ」
「土方さんは洋装になられたのですね。髷も落として」
「ああ、和服より動きやすくてな。西洋かぶれは嫌いだが西洋の良いところは取り入れることにしたのだ。ところで後ろの者は?」
寧々はペコリと頭を下げた。
「会津で仲間になりました者です。申し訳ないです、彼は生来クチが利けないんです」
苦笑する大鳥と土方。土方が言った。
「おいおい、それはお前の女房であろう?」
「え!いえ違います!」
「別に女連れでもかまわんぞ。榎本さんは旧幕府軍の者たちで蝦夷地を開拓し、薩長とは異なる政府を作ろうとしている。この艦隊にいる者たちは開拓民となる。家族ごと来ても何の差支えもない」
と、大鳥圭介。
「そ、そうなんですか?」
「まあ我らのような転戦を繰り返してきた者たちは国許に女房を置きっぱなしゆえ、ハナッから女連れではないが、薩長によって国を追われた奥羽諸藩の武士の中には家族ごと榎本艦隊に身を寄せている者も多い。せっかく会津で娶った恋女房に肩身の狭い思いをさせることはない」
「は、はい!良かったなあ、寧々」
「はい、旦那様」
「大鳥さん、龍次郎は新撰組にくれんか」
「ほう、どうしてだ土方くん」
「こいつの狙撃の腕前が欲しい。大鳥さんのところにゃ優秀な狙撃手も多くいようが新撰組にはそうはいないからな」
さすがは土方歳三、母成峠における龍次郎のたった一発の狙撃でその腕を見抜いていた。
「いいだろう、どうだ龍次郎」
「はい、お願いいたします。土方さん」
「上官としての俺は甘くないぞ。心しておけよ」
「はい!」
かくして龍次郎と寧々は榎本艦隊に合流、翌日に石巻を出航。蝦夷に向かった。
時は明治元年(1868年)十月二日、榎本武揚率いる艦隊は蝦夷の鷲ノ木沖に到着、榎本は艦隊に停船を指示した。
「あれ?陸地はもうそこなのに、どうして停船するんだろう」
と、甲板で首をかしげる龍次郎。
「箱館港は国際港なのだよ」
「え?」
堂々としたヒゲを生やす武人が龍次郎に言った。洋装が似合っている。
「国際港に敵か味方かも分からぬ軍艦が舳先を揃えて寄せてきたら国際問題に繋がるであろう」
「…?…?」
「ははは、少し難しい話だったかな」
箱館港の台場から空砲が三発撃たれた。
「我らも空砲を三発撃ちなさい」
「「ははっ」」
砲手に指示する男をまだ疑問そうに見つめている龍次郎。
「軍港に他国の軍艦が寄港する時の作法だよ。空砲の返答がなければ攻撃されるんだ」
「どうして空砲なんです?」
「再度の弾込めは時間がかかるであろう?武装解除の知らせも兼ねているんだ」
「へええ…。もしその作法を知らなかったらどうなったんだろう」
「軍艦の船長をやっている者に『知らなかった』は通らない。万国航法、世界の海の決まりなのだ」
「船長?で、では貴方が」
「榎本武揚だ」
「こ、これは知らずとは云え!二本松藩の酒巻龍次郎と申します!」
慌てて平伏しようとする龍次郎の肩を掴んだ榎本。
「二本松藩の少年兵たちの話は聞いている。実に勇敢に戦ったと」
「あ、ありがとうございます」
開陽丸から空砲三発が放たれた。
「これでよし、さて龍次郎」
「はい」
「我らはここに自分たちの国を作るために来た」
「我らの国を…」
「そうだ。箱館に我らの政権を作り、蝦夷地開拓を目指すには西洋列強と手を組む必要がある。上陸と同時に宣言書を箱館の各国領事に送り、我々に対する承認を得るつもりだ」
途方もない話だ、龍次郎は思った。そして胸が高鳴る。国を作る、男子一生の仕事ではないか。
「それには箱館は無傷で手に入れなければならない。そしてこの広い蝦夷地を開墾して鉱物資源を採掘するんだ」
「す、すごいです、夢のようです!」
「夢ではない。目標だ。我らはここでオランダみたいな海運国家を作るのだ!」
◆ ◆ ◆
榎本武揚は箱館港の各国領事に宣言書を送った。内容はこうである。
『我々は叛徒や盗賊ではない。祖国の上に気高く生き、正当な権利をもって明治政府と戦う交戦団体である。我々は明治政府軍との戦いにおいても国際法を重んじ統率された軍隊によって蝦夷地に居留する欧州人の商取引や身の安全を確保する。ご理解いただきたい。徳川脱藩家臣 榎本釜次郎』
やがて榎本艦隊は箱館(函館)に上陸し箱館を占領。
各国領事も榎本艦隊を一つの政権と認め、支援を了承。イギリスだけは中立であったそうだが榎本たちを一つの政権と認めたのは間違いないと云えるだろう。
しかし明治政府は榎本たちの蝦夷政権樹立を認めなかった。すぐに追討令が発せられた。
榎本艦隊は箱館を占拠した際、五稜郭に入城した。そこには薩長軍の兵士もいた。先行して国際港である箱館を押さえるため駐屯していたが榎本艦隊の攻撃を受けて占領されてしまった。榎本艦隊は多勢で、この駐屯部隊は寡兵、五稜郭を守る戦いで多くの負傷者も出た。
「箱館病院に負傷した薩長兵を搬送せよ。私が治療する」
榎本艦隊に江戸から共にいる医師がそう言った。彼は上陸後に箱館病院を設立していた。
しかし旧幕府軍の者たちで『薩長兵を搬送せよ』の指示を聞く者はいない。その中には龍次郎もいた。たまたま居合わせたのだ。
「頼む、私一人ではどうにもならない。手を貸して欲しい」
医師は頼むが、薩長に怨み骨髄に至っている旧幕府軍の者たちがそんな指示を聞くはずがない。病院に搬送どころか皆殺しにしてやろうと殺気立っている。
「先生」
「何かね?」
「私は二本松藩士の子弟で酒巻龍次郎と申します。率直にお伺いしますが、何故敵軍の兵士を助けようとするのですか」
「医者に敵も味方もない。あるのは患者だけだ」
「お言葉ですが、それは家族を薩長に殺された者には受け入れられないと存じます」
「そうだ!その少年の言うとおりだ!」
「怨み重なる薩長軍、皆殺しにしてやろう!」
「ならば、私を殺してからやりたまえ!」
殺気立つ味方たちを一喝する医師。名を高松凌雲と云う。後年に医傑と称される当時における最大の名医であった。
「たとえ怨み骨髄に至っていようと抵抗できぬ者を殺すのは人ではない。押し問答している場合ではない。すぐに治療が必要な者もいるのだ。さっさと病人と負傷者を運びなさい。これは人道である!」
まだ動かない一同。その時、
「よいしょ」
龍次郎の妻の寧々が長州兵を背負い出した。
「寧々、お前…!」
「藩校日新館の教えに『怨みに報ゆるに徳をもってす』怨みに対して報復せず、むしろ徳、相手のためにもなることをもって報いる。やられたらやりかえすよりも、こちらの方が長期的に考えればうまくいく、とあります。兄が学び、そして私に教えてくれました」
「薩長にそんな道義が通じるわけがない」
「そうかもしれません。でもこのまま見殺しにしたら、私は会津や二本松を蹂躙した賊徒たちと同じ人間になってしまう気がしたんです。私は会津武士の娘であり、二本松武士の妻です」
「「……」」
寧々の言葉に思わず黙ってしまった一同。ふう、と溜息を出した龍次郎。
「どちらに運べば」
同じく長州兵を担いだ龍次郎。答える凌雲。
「ありがたい、城門に荷台を多く運ばせてある。それに乗せて箱館病院に運んでくれ」
「分かりました」
頭を掻いて赤面する伝習隊士。
「ふ、ふん!薩長とは度量の大きさが違うと示してくれようぞ。おい運ぶぞ」
「「おう」」
凌雲自身も一人の薩摩藩士を担いだ。
「先生…」
「しゃべるな」
「…私は薩摩藩士の田島圭蔵、礼を申し上げる」
「礼なら、あの会津の娘さんに言いたまえ」
「…はい、必ずや」
よいしょ、よいしょと長州兵を運ぶ寧々の後ろ姿を見る凌雲。先に歩む龍次郎に追いついて話しかけた。
「龍次郎くん、彼女は君の細君かね?」
「はい、そうです」
「彼女を箱館病院で雇いたいのだが」
「え?しかし妻は医術のことなど何も」
「教えるよ。あの性根が欲しいんだ」
「分かりました。妻に勧めてみます」
「頼むよ」
高松凌雲、徳川慶喜の弟昭武が代表となりパリ万博に参加する際、その随行医として選ばれたのが凌雲だった。万博後、凌雲は留学生として居残ることになったが、彼はその時に最新医療とレッドクロス、つまり赤十字の精神を学ぶことになった。
貧しい人々が無料で診察と治療を受けられる仕組み、幕藩体制で生まれ育った凌雲には衝撃であった。現地の医師たちは優れた医療技術を持つだけではなく高潔な人柄であった。
そして何より医師と云う仕事に誇りと自信を持っている。凌雲は改めて自分の医師と云う生業に誇りを持ったのだ。レッドクロスの精神こそこれからの日本に必要なのだと。
彼は将軍家の典医。江戸で安穏と医師をやっていられたはずである。
しかし榎本艦隊に彼は身を投じた。医師は江戸より榎本が向かう蝦夷にこそ必要と知っていたからである。榎本艦隊の医師になるさい、凌雲は治療に関しては一切の口出し無用と榎本に明言し、そして榎本もそれを受けている。五稜郭にいた薩長兵を救うと云う姿勢もレッドクロスの精神ゆえである。反発は当たり前と思っていたが凌雲は毅然として『患者に敵味方なし』と言い切った。
そして凌雲がこの時に行った敵兵への治療が後に多くの命を救うことになるのである。
「私がこの病院に?」
その夜、箱館は暴風雨となった。負傷者の搬送を終えて、やれやれと箱館病院内の一角で休んでいた龍次郎と寧々、龍次郎は先の凌雲の言葉を寧々に伝えた。
「うん、寧々の性根が気に入ったようだぞ」
「性根?」
「真っ先に長州兵を運ぼうとしたじゃないか」
「…それをお気に召して下されたのですか」
「ああ、中々出来ることじゃない。俺も私怨で凝り固まり、凌雲先生がいなければ何をしていたか。抵抗できない者を怨みに任せて撃ち殺していたかもしれないんだ」
「旦那様…」
「その場では溜飲を下げるだろうが、一生後悔することになったと思う。感謝しているよ」
「旦那様に一生の後悔をさせなくて済んだのは私にも嬉しいです。で、旦那様はいいの?私がこの病院で働いて」
「ああ、俺は新撰組の詰め所にいることになるけど、ここに寧々がいると思うだけで安心して戦えるよ。俺からも頼む、ここで働いて欲しい」
「はい、分かりました」
「さて、俺は詰め所に帰る…」
この時、箱館湾から大砲の轟音が聞こえた。
「な、なに今の大砲の音!」
「新政府軍が、もう蝦夷まで来たのか!?」
急いで海に走った二人。そして浜で見た。大砲を撃っていたのは開陽丸だった。
「錨が流されて座礁したのだ!大砲の反動で傾いた船を立て直そうとしている!」
二人のいる浜に凌雲も来た。
「いかん、開陽丸は持たない!」
「そんな、開陽丸を失えば我らは!」
「とにかく沈没に伴い負傷者が続出する!龍次郎くん、寧々くん、君たちも手伝ってくれたまえ!」
「は、はい!」
同じく大砲の轟音を聞いた榎本武揚は台場に来ていた。
「舟を出せ!私が開陽丸に向かう!」
「無理です艦長!この荒波に舟を出すのは自殺行為です!」
部下が必死に止める。榎本武揚にとって開陽丸は命である。
何より開陽丸がなければ艦隊の軍事力は激減する。
「いいから舟を出さないか!私が指揮を執り沈没を防ぐ!」
たまらず土方歳三が榎本を殴り飛ばした。
「落ち着け!指揮官が狼狽してどうするか!もはやどうにもならん、あきらめろ!」
「あきらめろだと!ふざけるな!開陽丸を失うことが我らに取りどれだけ痛手か分からんのか!」
取っ組み合いになった土方と榎本を止める部下たち。
そして開陽丸、大砲の反動を使い沈没を防ごうと撃ち続けるが、もはや焼け石に水。船は傾き沈んでいく。
「か、開陽が沈む!我らの開陽丸が沈む!」
絶叫する榎本武揚、彼が作ろうとする蝦夷共和国の前途を示すかのような開陽丸の沈没であった。
場所は異なれど開陽丸の沈没をずっと見ていた龍次郎。
「開陽丸が…沈んでいく…」
「お前さま、とても人手が足りません!一人でも多く集めて下さい!」
凌雲と共に救護の準備をしている寧々が叫んだ。
「わ、分かった!」
急ぎ人手を掻き集めに走る龍次郎。
「我らは…どうなるのか…」
◆ ◆ ◆
箱館の各国領事は開陽丸の沈没を見て、箱館政権に蝦夷地の治安を守ることは無理と判断。支援国家は箱館政権を交戦団体と認めず、明治政府のみを日本唯一の政府とした。
これにより明治政府への引渡しが保留されていた最新鋭の軍艦『甲鉄』が明治政府に渡された。
榎本たちは日本で初めての選挙を行い、榎本は総裁に選出され十八名の閣僚からなる箱館政権が発足した。開陽丸の沈没と云う衝撃はあったが、まだ我らが負けたわけではない。蝦夷地を開拓し自分たちの国を作ると云う大望がある。箱館政権誕生を祝い、榎本艦隊は酒宴を開いた。
しかし新撰組は参加しなかった。土方は『今は騒ぎ浮かれる時ではない』と、あくまで冷徹だった。それゆえ新撰組の本陣は他の隊と異なり食事も静かである。
政権誕生の祝宴のとき、やはり土方と同じように『浮かれている場合ではない』と思っていた者が新撰組の本陣に来て土方と要談していた。土方との要談を終えて自陣に帰るときだった。食事の後片付けをしていた龍次郎がその男に誤って鞘当をしてしまったのだ。龍次郎はすぐに謝ったが鞘当は親兄弟でも即座に斬りあいが始まると云われるほどのものである。許されるはずがない。
「無礼者!」
チカラ任せに殴られた龍次郎は吹っ飛んでしまった。
「いつつ…」
すごいチカラで殴られた。めまいがしてくる。
間に入った少年がいた。十六歳の新撰組隊士、市村鉄之助だ。
「申し訳ございません。最近我が隊に入った者で、まだ士道不行き届き。何とぞお許しを」
「ならん、鞘当がどのようなものか。新撰組に籍を置いて知らぬとは言わさぬ」
先輩隊士も止めようとしない。まったく新撰組は厳しい。
「鉄」
「副長…」
「庇い立て無用、退け」
「し、しかし」
「退けと言っている」
「土方さん。鞘当をされた以上は…」
「好きにされよ」
無論、土方も龍次郎を庇わない。そのまま自分の部屋に戻ってしまった。
しかしその男と一緒に新撰組本陣に来た者が止めた。
「よせ八郎、相手はまだ子供ではないか。大人気ないぞ」
(八郎…?それに隻腕…。ま、まさか伊庭八郎?)
血の気が引いた龍次郎。故意ではないとは云え何と云う男に鞘当をしてしまったのか。
伊庭八郎、幕臣であり智勇備えた武士として名高い。天狗の異名を持つほどの剣客とも知られている。
「前髪がある子供であれば説教で済ませた。しかし元服している以上は大人として見る。ここは子供のいる場所ではない。異存あるか若僧」
「…い、異存はありません」
「ならば結構。抜け、鞘当は果たし状に値する」
「どうあっても許していただけないのならやむを得ません」
龍次郎は刀を抜いた。足が震えている。
だが十五歳の少年が伊庭八郎相手に一対一で逃げず刀を抜いただけでも賞賛に値する。
伊庭八郎と云えば隻腕になったとは云え歴戦の剣客である。市村鉄之助はよく龍次郎が伊庭八郎の真正面に立っていられるとさえ思っていた。
「かかってくるがいい」
しかし肝腎の八郎は刀を抜いていない。
「貴方も刀を…」
「自惚れるな。お前ごときに刀などいらん」
こうまで言われては龍次郎とて退けない。
「では遠慮なく!」
二本松武士の剣法は『斬らずに突け』である。龍次郎は全身の体重を乗せて八郎に突きかかった。
「だあああッ!」
「ふん」
しかし、あっさりかわされ刀を持つ手に拳骨を食らった。
「あぐっ」
刀を落としてしまった。八郎は龍次郎の襟首を掴んで簡単に持ち上げた。ものすごいチカラである。
「お前の負けだ。覚悟は良いな」
「まだだ!」
八郎の手を噛んだ龍次郎。
「そのあきらめの悪さたるや良し!」
地面に思い切り叩きつけられた龍次郎。気を失った。
部屋で一部始終を見ていた土方歳三。
「まあ、よくやった方か。ははは」
龍次郎の軍服の袖を見る八郎。二本松藩の『直違紋』の肩章があった。
「どうして新撰組にいるのかは知らんが…。さすがは二本松武士、根性は認めてやるわ」
そして市村鉄之助を見て
「死なない程度に投げてやった。手当てをしてやるがいい」
「は、はい」
新撰組本陣を立ち去った八郎。
(ふん、俺も甘いな。しかし…)
振り返った八郎。
(あの小僧、いい面構えをしていたわ)
しばらくして気がついた龍次郎。
市村鉄之助が横になっている龍次郎の傍らにいた。土方にも介抱してやれと言われたらしい。
「バカだなァお前。よりによって伊庭八郎に鞘当するなんて」
「わざとじゃありません」
「そりゃあそうだな。あはは」
「しかし怖い人だった…。噂の通りだ」
「でもお前、逃げずに伊庭八郎に突きかかったじゃないか」
「退くに退けず」
「良かったなァ。それで逃げていたらお前、土方副長に」
鉄之助は右手で首を切る。
「うそ…」
「本当だ。新撰組は隊規が厳しいんだぞ。まあ逃げずに伊庭八郎に挑んだと云う点を副長は喜んでもいた。そういう方でもある」
やられた悔しさもあるが、同時にあの伊庭八郎に挑めたと云うことが嬉しかった。誇りに思えた。
(いつかあの世に行った時…。二本松の仲間たちに自慢しよう)
◆ ◆ ◆
そして明治二年三月、箱館政権は新政府軍艦隊が宮古湾に入港するとの情報を入手した。
明治新政府軍との戦いはもう避けられないことになった。
榎本は拿捕していた、と云うより箱館病院で治療を受けていた薩摩藩士の田島圭蔵らを初めとする明治新政府の兵たちを解放した。開戦前に処刑されると思っていた田島たちは榎本の計らいに感動。しかし
「これは国際法に乗っ取ってのこと。他意はない」
と、恩に着せようとせず彼らを津軽地方に送り届けた。これは現在の戦時国際法で当たり前のことであるが当時の日本では異例中の異例と云えた。
この後に箱館政権と戦うことになる薩摩藩の黒田了介は『賊将ながら大した男』と賞賛している。
蝦夷の雪が解けて春が訪れる。
しかしそれは新政府軍の襲来の時でもある。
酒巻龍次郎、この時まだ十五歳。