女海賊に「信念」を教える。後編
烈火の如き怒りを向けられる。こんな事を実感したのは初めてかもしれない。それ程の怒りを向けられる事自体転生後にも先にも無かったと思う。
ヒナタはそれ位の怒りに震えていた。怒りとそしてそこには悲しみも伴っている。ベッドの脇に立ち、部屋に入ってきた俺を睨みつけ歯を食いしばり、涙を流し、頰を真っ赤にしている。
俺に嘘をつかれた事がそれ程のショックだったという事らしい。甘くみていたのかもしれない。野生児同然だったヒナタにとって俺がどれだけ大事な存在なのか、心の支えになっていたのか、ヒナタの主観的世界において中枢的存在だったのか、俺は分かっていなかったらしい。
ピニャが少し遠巻きにヒナタを見ている。恐れと混乱が見て取れる。俺とてこのようなヒナタを見たのは初めてで、混乱しないよう何とか冷静に努めているくらいだ。ヒナタはピニャに比べれば遥かに大らかな性格だ。そのヒナタの怒りはそれ程の恐怖心を抱かせるものだろう。
しかしヒナタは怒り特有の怒鳴り声も悲しみ特有の泣き声も出さない。
おそらくヒナタにとっても自身の状態に対して混乱するばかりなのだろう。どうすればその感情を処理できるのか分からないのだ。
「ヒナタ」と呟き、俺は両手を広げる。
しかしヒナタは祈るように組んだ手を胸の前に持ってきて背中を丸める。とても小さい囁くような唸り声と共に愛らしい唇を震わせている。
「ビンセント兄様は私を信頼していらっしゃらないのです」
それは俺ではなく自分自身に語りかけるような声だった。
「私なんかが帝国へ行く準備ができる訳がないと思っているのです」
ヒナタの瞳から大粒のダイヤのような涙がポロポロと零れ落ちる。涙は頰を伝い、首筋に流れて行く。
「私は兄様にとって何の価値も有していない」
自然と涙が床に落ち、ヒナタは己を掻き抱くようにして座り込む。
「……いてもいなくても同じだから!」
「ヒナタ!」
俺は叫びつつヒナタの元に飛びつくように抱き寄せる。
「勘違いするなヒナタ。俺はお前を信頼している。きっとお前はイイグルース帝国へ行く為に必要な手配をしてくれるだろうから全てをヒナタに任せ、俺は騎士隊長を問い詰めて状況をより正確に把握していたんだ」
「でも! でも!」
「ああ! 嘘をついたのは確かだ。しかしそれこそヒナタを信頼している証じゃないか」
ヒナタは何が何だか分からないという様子だった。ピニャが少しずつこちらへと歩み寄ってきている。
「考えてもみろ。あの時俺が嘘をつかないとすれば『待て。ヒナタ。俺が全部やる。お前は大人しく待ってろ』と、そう言う事になってしまうぞ。勿論俺はそんな事は言わない。ヒナタ。お前を信じているからだ」
ヒナタがとうとう泣き叫ぶ。悲痛な声が部屋にこだまし、ピニャもつられて泣き出した。
「ごめんなさい。ビンセント兄様! 信頼していないのは私の方でした! なのに! なのに私は!」
「どうかしたのか?」と俺はヒナタの髪を撫で摩りながら言った。
「必要物資は王国の皆さんに掛け合って準備をしました。しかし帝国への足を確保できなかったのです。王国の軍港が帝国に襲われたらしく、船を全て破壊されているのです。私は兄様の信頼をフイにしてしまいました!」
ピニャが後ろから飛びついてきて、俺の背中に抱きつく。
「なんだそんな事か。気にするな。ヒナタは悪くないんだからな。それに帝国への足なら当てがあるんだ」
ヒナタがようやく顔を上げる。真っ赤に腫らした目を潤ませて俺を見上げる。
「そうなのですか! 一体どうやって? 船は全て破壊されたと王国の方々は絶望していたのに」
俺はヒナタとピニャを安心させるように微笑む。
「それは後のお楽しみだよ。さあ! 立って。長い船旅になるはずだ。二人とも覚悟は出来てるか?」
二人は泣きながら笑いながら何度も何度も頷く。
軍港は確かに破壊し尽くされていた。火を放たれたのだろう。あらゆる物が黒焦げて炭と肉の焼ける臭いが潮風と共に吹いている。今では消火されているが、そこかしこで燻り、白い細い煙が何本も空へと立ち上っている。後始末をしている兵士たちは足取りも頭も重そうに働いている。
「酷い有様ですね、ビンセント兄様」とヒナタは悲しげに呟く。
「ああ、かなり激しい戦いになったようだな。おそらく火薬も使われている。科学力で水を開けられているんだ。王国は帝国に」
「くしゃい」と言ってピニャは咳き込む。
この港に幾つの船が停留していたのか分からないが、唯一姿を残している船はその半分が沈み、黒焦げている。
ただし遠洋に一隻の船がある。赤と黒を使って威圧的で悪魔的な文様の描かれた軍船だ。あれがおそらくイイグルースの船だろう。既に王国の船が無い中で何故そこにとどまっているのだろうか。港を封鎖する意味はないはずだが。
威圧、だとしても何が目的なのか。女王を攫う以外にもまだ目的があるのかもしれない。
ヒナタが突然はしゃぐ。「あ! 船があります! ビンセント兄様! あれに乗るのですね!」
「いや、あれはイイグルース帝国の船だな。おそらく港を封鎖しているつもりなのだろうが」
あるいはロスヴィータに出会う事が無ければあれを乗っ取る他になかったかもしれない。
まあ、それはそれとしてどこでどうすればいいのだろうか。ロスヴィータとどこで落ち合うのか何も話さなかったな。
もしかして帝国の船があるせいで出てこられないのだろうか。いや、他に考えられない。となればあの船をどうにかするのは俺しかいないわけだ。
「ヒナタ、ピニャ、ちょっとここで待っててくれ」
二人とも首をかしげる。
「どこに行かれるのですか?」
「あの船だ」と言って俺はイイグルース帝国の赤黒い船を指差す。
「兄ちゃんは馬鹿だにゃー。船が無いと海の向こうには行けないんだぞ」とピニャがニヤニヤしながら言った。
「しっ! ピニャ! ビンセント兄様は疲れていらっしゃるのです! 意地悪を言ってはいけません」
「ごめんにゃさい」
「いや、謝らなくていいぞ。俺は海を泳いで行くんだ」
「ビンセント兄様は泳げたのですか!?」
「泳げるが」
「でも湖ではいつも私に泳がせてました!」
「楽しそうに泳ぐからついな」
「もう! ビンセント兄様は意地悪です! ですが海は湖と違って波がありますが大丈夫ですか?」
鼠の中を泳ぐ事に比べれば何でも無い事だ。
「ああ、勿論だ。じゃあ行ってくる」
俺は着の身着のままで海に飛び込んだ。
数分後。俺はイイグルース帝国の船にタッチし、ついクイックターンをしそうになるのを堪えて船体に張り付く。木製の船だ。錨が降ろされている。
俺はよちよちと船をよじ登る。波の音しか聞こえない。甲板に上がるとしかしそこには誰もいなかった。
「おい! 誰もいないのか!」
返事も返って来ない。
人の代わりに甲板にあったのは無数の水瓶だ。そして、そして、火薬の入った樽。なぜ火薬が入ってると分かる? 今! まさに導火線の全てが燃え尽きて!
間一髪、俺は船から飛び降りる。しかしそれほどの規模の爆発では無かった。水瓶の割れる音が聞こえ、閃光が放たれたが爆炎が噴き出すほどではなかったようだ。
だとすれば問題は水瓶の中身だが、一体何が入っていたのだろう。その疑問への答えは先送りされる。黒い影が空を覆ったと思えば、船が大きく軋み、亀裂が入る。船体の真ん中で破裂音がしたかと思うと白波を吹き上げて舳先と船尾が同時に跳ね上がる。真っ二つに折れた船の上に現れたのは5メートルはあろうかという巨大な八本足だった。
八本足、というより八本の足だ。それは人間のひいては男性の足のような造形をしている。それも神話の英雄を象った彫刻のような、筋骨隆々かつ優美な足だ。四本が右足で残りの四本は左足のように見える。そして、それらの足を繋ぐ胴体も、やはり人間の皮膚のような質感に見えた。
それら八本の巨人の足が突然に現れ、そうして恐らくはその重みにより、帝国の堂々たる船は崩壊したらしい。
太陽を背にした黒々とした体格を見上げると、その胴体の上には更に二本の腕が聳えている事に気づく。やはりたくましい腕が高々と拳を掲げている、と思う間にその大質量を振り下ろした。辛うじて残っていた船の残骸は粉々になり、海に溶けるように沈む。
思いもかけず、船を片づけるという当初の目的は果たされてしまったが、新たな問題が発生してしまった。俺がどうするかはこの巨人のパーツで出来た蟹次第だが、 とても平穏穏当な生き物には思えない。俺の存在に気づいているのかは分からないが腕を振り回す様は威嚇をしているように思える。
船が沈み、人体蟹も水に浸かろうとしている。そもそも蟹は泳げるのだろうか。水棲生物ならば泳げないという事もなさそうだが、こいつの場合はどうだろう。
俺は少し距離をとって様子を見る。
人体蟹の全身が水に浸かったかと思えば、突然にその大木の如き腕を振り上げた。それはバタフライ!
蟹の癖にダイナミックかつエレガンスな泳ぎを見せつけてくる。
俺は人体蟹の起こす波に逆らいつつも流されてしまう。そのままその機会な巨大蟹は海岸の方へと突き進んでいる。
余りにも不味い。ヒナタたちを狙っているのか、それともただ単に陸に上がりたいだけなのか、分からないが日向たちが危険であることに違いはない。俺自身も華麗な平泳ぎで徐々に距離を詰めるが、先にスタートした分人体蟹の方が僅かに早く陸に上がることになりそうだ。何よりあまりにも巨大なために距離感がつかめなくて困る。あと少しのところまで迫っているとは思うのだが。
その時、視界の端に巨大な船影が見えた。まっすぐにこちらへ突っ込んでくる。俺はその意図をあっさり見抜き、追い抜きざまに船に捕まった。船をよじ登るとそこにいたのはロスヴィータだった。
「すまないね。少しばっかり遅れっちまったよ」
「いいさ。帝国の船があったから出てきづらかっただけだろう? 次からは気を付けてくれよ」
「さあて、それじゃあどうする?」
「何だよ。考えなしに突っ込んできたのか?」
「悪かったな。あんな化け物お目にかかったことがないんだ。どうすればいいのかなんてわかりゃしないさ」
「それもそうだな。とはいえ、簡単さ。あの人体蟹とこの船じゃ圧倒的な質量差がある。このまま突っ込んじまえ」
「馬鹿言うんじゃないよ。アタシの船がぶっ壊れっちまうだろ?」
「その時は俺が直してやるさ」
「分かったよ。あんたを信じてやる」
船はまっすぐに人体蟹に突っ込み、その巨体を切り裂いた。真っ赤な血が船に降りかかる。
「ひええ。とんでもないね。しかしさすが私の船だ。あんな怪物をやっつけっちまうなんてね」
「この船、名前は何というんだ?」
「ビリー号さ。私の父の名前からとったんだ。適当だろ?」
「それならブラッディ・ビンセント丸ってのはどうだ? この血塗れの英雄に相応しい名前だと思うんだが」
「いいね、気に入った。今日からこの船の名はブラッディ・ビンセント丸だ」
ヒナタとピニャをブラッディ・ビンセント丸に乗船させ、ロスヴィータに紹介した。
「何だい? このちんちくりんどもは」とロスヴィータがしかめっ面で言った。
「俺の妹みたいなもんだ。ヒナタとピニャー・サッチ・ヴァルジオン。仲良くしてくれ」
ヒナタが驚愕する。「妹!? 何ですか? それ。初めて聞いた概念です!」
ロスヴィータは大笑いし、俺は苦笑する。
「大事な家族ってことだよ」と俺はヒナタの頭を撫でて行った。
「大事なカゾクー」と言ってピニャは俺の背中に抱き着いて俺の頭を撫でた。
「なるほどね。じゃあアタシもあんたの妹ってことでいいんだね。ビンセント」
「え? 何で?」
「同じ船に乗るなら家族ってことさ。ビンセント兄さん」
「まじかよ。どう見ても年上だろ。まあいいや、じゃあロスヴィータ、イイグルース帝国に向けて出港だ」
「アイアイサー」
「あいあいさあ」「あいあいさあ」「あいあいさあ」とヒナタたちは繰り返した。




