女騎士に「可能性」を教える。
王国への道のりは馬車で3日ほどだった。正確にはあの村も、あの塔でさえも王国の版図なのだそうだが。つまり俺たちがこれから向かうのは王都というやつだ。
鉄格子の向こうの御者台で重鎧の女騎士と軽鎧の騎士見習いの男が説明してくれた。すると今度は何故そんな事も知らないのかと説明を求められる。
異世界へ転生するという事がこの世界でどういう位置付けなのか分からない時点でほいほい喋るべきではないだろう。
俺は自分が記憶喪失だという事にする。
「というわけで気がついたらあの塔の近くに倒れていた訳です」
「ははーん」としたり顔で見習い騎士が言う。「ヘルヴィスティアの姐さん。こいつぁ奴隷ですぜ。どうせ北への逃亡の最中にドジって頭でも打ったんでしょうよ」
ちょっとムカついたがムキになって反論するのもおかしいだろう。実際にそういう事例があるのかもしれない。
ヘルヴィスティアの姐さんと呼ばれた女騎士はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「それで似たような境遇の奴隷どもを逃したってわけだ。どうだ? 違うか?」
「違う。純粋に奴隷制度というものに反旗を翻したんだ。人に上下なんてない」
「何言ってんだ? 上とか下とか関係ねーよ。弱い奴が奴隷になるんだ。お前もあの村長の奴隷もだぜ? 単に弱かった。それだけさ」
「それは獣の法だ。人間が従う道理はない」
次の瞬間女騎士ヘルヴィスティアが剣を抜いて俺を殺さんばかりに刺してくる。もちろん俺はまるで無力な子供のように剣に怯えるフリをする。
「それ以上言ってみよ。二枚舌を三枚に下ろしてくれる」
女騎士は兜の中から死を宣告するような重々しさで言った。いや、実際に同等の意味を持っているのだろう。
「よりによって王の法を獣の法だとよ。こんな馬鹿はどのみち勝手にくたばるぜ」と騎士見習いがひひと笑う。
俺は黙っている事にする。この状態では余りに不利だ。ヒナタやピニャには無事に帰ってくると約束したのだから、傷一つでも負うわけにはいかない。それが俺の矜持というものだ。
それから3日かけて二つの丘を背に、波打つ蛇腹のような地形を超え、盆地の中心にある王都ヘズ・オッドへとやって来た。世界の中心という意味だそうだ。いかにも傲慢さの滲み出る頭の悪そうな名前だ。
しかしその都の豪華絢爛さは眼を見張るものがあった。建物は全て白いレンガによって作られ、全ての地面は青いタイルに覆われていた。まるで大海原に跳ねる白波か、大空に揺蕩う白雲か。正午の太陽が眩く照らす王都はあまりに爽やかな風の似合う風景だった。
実際のところは臭い。美しいのにとても臭い。下水道が整備されていないのだろうか。まるでゴミ溜めのような臭いだ。
「おい! この臭いはこの国では普通なのか!?」
俺はひん曲がるような鼻を抑えて騎士達に問う。
「普通なワケがねえだろうが! この臭いの原因は現在調査中だ!」
何か分からないが何か原因があるらしい。俺は我慢ならずに悪態をついてしまう。ヒナタやピニャには見せられないな。
「へっへっへ。お前が行く牢屋はこんなものじゃねえぞ? 外に出るか殺してくれってな囚人がわんさかいる牢獄さ」
勘弁してくれよ。
街の端にある茂みに覆われた入り口から牢獄へと入る。
見習い騎士の言った通りだった。その地下に造られたらしい牢獄は地獄だった。この臭いに耐えるくらいなら殺してくれと言う者が出てきてもおかしくないと思った。ドブ鼠すら逃げ出す悪臭が牢獄の入り口まで漂ってくる。
黄ばんだ、元は青かっただろうタイルを踏みしめ、思わず立ち止まる。本能が進む事を拒否しているのだ。見習い騎士も鞘の先で俺をつつくが強くはしない。近づきたくないからだ。重鎧の女騎士ヘルヴィスティアの方はどこかへ行ってしまった。逃げたのだろう。
「何がどうしたらこんな臭いが出てくるんだよ! 原因は明らかにこの牢獄じゃないか! 何が調査中だ!」
「調査中なのは本当だっての。ただ調査隊が帰って来ないだけだ」
「おい! 俺はいつの間に死刑判決が出たんだよ!」
「うるっせえ。さっさと行きやがれ! 三番目の牢が空いてるからその中に入ってろ!」
「どこの世界に罪人自ら牢屋に入らせる牢獄があるんだ!」
「やかましい!」
そう言って見習い騎士は俺の背中にドロップキックをかます。もんどりうって投獄された俺がまず最初にした事は胃の中にある物を全て吐き出す事だった。
そうして三番目の牢屋に素直に入る、ワケがない。かといって後ろは閉ざされている。他の牢屋には人がいない、生きた人は。
ならば奥?
悪臭の源へ?
勘弁してくれ。
俺は今閉じ込められたばかりの扉の裏で待つ事にした。
何を?
機会をだ。
裁判があるはずだ。そうでなくとも今晩の食事が運ばれてくるはずだ。
食事にはありつけなかった。しかし誰も来なかったわけではない。眠れない夜の奥深くで金属の叩く硬質な音が聞こえた。目の前に小さな、とても小さなナイフがあった。
これはつまり慈悲だろうか。
死をくれてやるという。
もちろんこんなものはいらない。俺はこれをくれた何者かに小さな声で罵倒しつつ、濃厚な暗闇の向こう、忌まわしい悪臭の漂いくる牢獄の奥に向けてナイフを思い切り放った。
もちろん何の反応もない。
何の反応もない?
なぜナイフは床に落ちて硬質な音を響かせなかったんだ?
俺は意を決して立ち上がる。振り返り、扉の隙間から出来るだけ新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。そうして息を止め、臭いのやって来る方を睨みつける。まるでそうすれば悪臭の源がどこかへ飛んで行ってしまうかのように。
もちろんそうはならない。源を突き止め、絶たなくてはじきに俺は死ぬ。
一歩、また一歩と粘つく空気に逆らって奥へと進む。肌にまとわりつく悪臭を掻き分け、闇の奥に眼を凝らす。
すると、何か空気の漏れるような音が聞こえてきた。隙間風のような細かな糸のような空気の流れに気づく。そしてその空気は一層胸がムカつく憎々しい臭いだった。
意識が飛びかける。体が震えだす。汚物が肺から血を巡り全身に行き渡る想像をする。その自分自身が生み出した想像がさらに俺の頭を締め付ける。吐き気がする。
現れた。
それは、それが正体なのだろう。最奥の牢屋いっぱいに巨大な肉塊が詰まっている。灰色の皮膚には縦横に赤い血管が走り、緑の毛が少しだけ生えている。その肉体に比して小さな頭を見るに、どうやらそれは鼠のようだ。小さな前足が暴れているが床にも壁にも天井にも触れられない。身動きが取れないままに汚臭悪臭を吐き出しているらしい。
俺はナイフを見つける。兵士らしき死体の首に突き刺さっていた。抜き去ると赤い血がとぷとぷと溢れる。自殺用ではない英雄めいた仕事をこれから成し遂げるナイフに感謝する。
きっちりと脳天を狙う。何があっても外れるはずのない一撃はしかし何の感触も得られない。
鼠の頭と小さなナイフ、そして俺の手が肉塊の中に沈み込む。いや、それは肉塊とはいえない弾力だった。弾力とすらいえない抵抗の無さだった。小さな波紋を起こすそれはまるで液体のようだった。俺は踵を返して入り口に戻る。息が限界に達する。
次に誰かが来た時に俺はそいつを呼び寄せた。半日が過ぎ太陽が天頂にあるようだった。
「何だ。貴様、生きていたのか」
その声はあの重鎧の女騎士の声だった。重く響く声は威厳に満ちている。
「ああ、生きてるよ。何があろうと死を選んだりはしない」
「そうか。まあ、好きにするがいい。いずれにせよお前がここから出る事はないだろう」
「そうか。じゃあせめて英雄譚の一つでも残していこうかね」
女騎士が高々と笑いさんざめいた。それですらどこか厳かな雰囲気に思える。
「この汚らしい牢獄でどのような英雄譚を遺すんだ? 鼠殺しの英雄ならオレの妹が飼っている猫で十分だぞ?」
そう言ってまたおかしそうに笑う。
「いや、ご名答だ。この牢獄の最奥に牛10頭分くらいの巨大な鼠がいる。しかも牢屋の一つにぎっちりで動けないらしい。あいつを殺せば王様も恩赦の一つも与えたくなるんじゃないか?」
女騎士は馬鹿馬鹿しいという雰囲気で鼻で笑う。
「法螺吹きめ。馬鹿馬鹿しい嘘吐きは王女だけでいい。お前はこの汚らしい牢獄で惨めに死ぬ。せめて心だけでも潔くある事だな」
「ところでこの国に蔓延した悪臭の原因を探る気はないのか? 騎士様。ここが原因だと分かっていて手を打たない臆病者め」
「手は打っているさ。新たな牢獄が建設中だ。そこが完成した暁にはここを埋める。それで終わりだ」
「何だよ! 化け物退治の栄誉はいらないのか!?」
「鼠退治なら間に合っていると言っただろう。ほれ、これでも食って汚らしい生にしがみつくが良い」
扉の隙間からパンが捩込まれる。俺は無我夢中でパンに食らいついた。だが喉は、胃はそれを拒否した。そして吐いた。ここで何かを食べるのは不可能だ。肺が泥水に浸かったような気分で俺は限界まで胃液を吐く。
俺はまたしても気を失った。
どれくらいの時間が経っただろう。またも夜がやって来たようだ。
生きている事を恨めしく思ったのは初めてだ。このまま汚臭に侵され、俺の死体も汚物になるのだろうか。いや、既に俺は汚物そのものなのかもしれない。
その時、背中の扉が何者かに叩かれた。だが俺は返事をする気力もなかった。
「い、生きておられますか? 生きていらっしゃるなら返事をしてくださいませ」
澄み渡る清水のような静謐な声が扉を背中を響き渡る。心まで浄化されたような気分になった俺は気力を振り絞って頭で扉を叩く。
「よ、良かった。良ろしいですか。聞いてください。最奥の牢屋は地面を掘って脱獄された事があります。も、もちろんすぐに埋められる事になったのですが、脱獄に気づいた時には地下水が染み出しており、完全に埋める事は出来なかったはずなのです。少なくとも他の場所を掘るよりはマシでしょう。き、きっと生きてください」
ぼやけた意識が透き通っていく。俺は何とか声を出す。自分の息まで臭くなっている気がする。
「その牢屋には鼠の化け物がいるんだ。何か知恵はないか?」
「そんな! す、すみません。私には何も……。すみません」
「……そうか。いや、十分だ。助かった」
「ああ……わ、わたくしは何の力にもなっておりません」
「いいや、生きる気力をくれた。それは何より喜ばしい事だ。本当にありがとう」
「いえ、そう言ってもらえてわたくしも、す、救われます。きっと助かるよう祈っております。お達者で」
「待ってくれ! 君の名は?」
少しの躊躇いがあった。
「わたくしの名はオルミア。わ、忘れられた者です」
忘れられた者?
その人が去りゆく足音が聞こえた。だけと希望は今もそこに留まっていた。
新しい牢獄とやらがいつ完成するのかは知らない。明日かもしれないし、数ヶ月後かもしれない。だがもちろん明日土に埋まるつもりはないし、数ヶ月間もこんな所にいるつもりはない。
つまるところ俺に死ぬつもりはない。
ヒナタとピニャには自分の正しさを証明すると言い残してきた。証明する機会すら与えられていない自分を恥ずかしく感じた。
これ以上ここに用はない。去らせてもらおう。
俺は扉の隙間から大きく息を吸い込む。まだマシな悪臭を肺いっぱいに満たす。そして振り返り、闇の中へと一歩、また一歩、薄汚れたタイルを踏みしめて進む。
汚水の鼠の目の前までやってくる。変わらず汚水の体をぶよぶよと弾ませ、小さな顔と手足をばたつかせている。俺はもう一度ナイフで鼠の顔を切り裂いてみるが、抵抗なく顔が流れ、汚水の水面に一筋の裂け目が一瞬だけ出来た。それだけだ。
こいつは今持っているナイフでは倒しようがない。だが。
腹はもう括っている。一気に走り込み、汚水の鼠の体の中に飛び込んだ。肌が滑り、不快感が全身を覆う。何より開いた目に激痛が走る。
しかしもう戻ってはいられない。薄汚れた液体の中で牢屋の床を探る。どこの誰だか知らないが逃げ果せた犯罪者はおそらく牢屋の端に穴を掘ったはずだ。ナイフをタイルの間に突き立てる。何度も何度も突き立てて探す。肺は既に悲鳴をあげている。引き裂かれそうな痛みはしかし目の痛みほどではない。
突き立てる。
突き立てる。
突き立てる。
ない。どこにもない。オルミアは嘘をついたのか? そもそも何で俺はあの女の言葉を信じたんだ? 他に何もなかったからだ。俺には他に何一つすがれるものが……。
ナイフが突き刺さる。タイルとタイルの隙間に深く突き立てられる。ここだ。俺はナイフを捻じ曲げて引っ張った。床が、人一人分の面積が持ち上がる。俺は必死に汚水から地下水へと飛び込んだ。振り返る暇もなければ、名残惜しい気持ちもない。俺は一心不乱に穴を泳ぎ続ける。
どれくらい泳いだろうか。とにかく必死だった。何か壁にぶつかる。辺りを探ると上向きの穴が開いている。俺は立ち上がった。足がついた。水面を出た。まだ臭うがはるかに新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。地下水に洗い流されたのか、体の滑りも目の痛みも消え失せた。地上まではまだ高さがある。縄梯子がかかっており、俺はそれを使って地上に出た。夜だ。虫の鳴き声が辺りに湧いている。
そこはどこかの庭園だ。巨大な屋敷が見える。すぐ背後には堅固な塀が聳えている。あまり手入れされていないのか草も木々も伸び放題だ。巨大な屋敷の一箇所だけ光がついている。二階の端の部屋だ。
「お、お待ちしておりました」
すぐそばに女がいた。とても美しい女だ。金の髪は陽光のようで星の光を受けて輝いている。その可憐な声は忘れもしない。忘れられた者オルミアだ。
「オルミア!? 何故ここに!?」
「ここはわたくしのや、屋敷でございます。ビンセント様」
「屋敷? 君は貴族か何かなのか? それに何で俺を助けてくれたんだ?」
「それらのは、話も追ってお話しし、します。とにかくま、まずはお風呂に入ってくださいま、ませ」
控えめながらオルミアは顔をしかめていた。
お言葉に甘える。屋敷の風呂はとても巨大で豪勢だった。揺らめく蝋燭の灯りに、俺は疲労で、このまま……。
誰かの呼ぶ声で目がさめる。オルミアだ。素っ裸で倒れている俺を同じく素っ裸のオルミアが揺すっている。
「何で!? どうした!? オルミア!」
「す、すみません! お、お背中を流そうと思いまして入ったら浴槽でぐ、ぐったりされていたので!」
「分かった! 分かったし背中は流さなくていいから外に出ろ!」
オルミアは至極残念そうに風呂場を出て行った。服くらい着ればいいだろうに。
オルミアに言われてテラスで涼む。すぐに冷たいドリンクを持ってきたオルミアがやってきた。
「じゃあ話してくれるか? 何故俺を助けてくれたのか」
「は、はい。その為にはわたくしのみ、身の上話をしなくてはなりません」
「喜んで聞かせてもらうよ」
「わ、わたくしは騎士爵の元に生まれたのですが生来お、臆病で。ふ、父母が死んでからは騎士として、王女様の近衛兵として精一杯務めてま、参りました。初めこそ慎重に仕事を成し、お、大きな失敗もなかったのですが」
「失敗しちゃったのか」
「はい。賊を前にして、お、王女様を背にして、逃げ出してしまいました。一級の罪で即刻し、死刑を言い渡されたのですが王女様のお言葉添えでし、終身刑となりました。そして、牢獄のさ、最奥に囚われました」
「何!? じゃあ脱獄したってのは……」
「はい。わ、わたくしです。もちろんその時は鼠の化け物なんていませんでした。ド、ドブネズミはよく見かけましたが。す、すみません。話が脱線しました。牢獄を過ごす日々の内にある囚人からある噂を聞きつけました。大盗賊が身代金狙いで王女様を誘拐する計画があると。わ、私は居ても立っても居られませんでした。お、王女様は幼い頃よりとても良くしていただきました。いつもわ、わたくしを守ってくださいました。なのにわ、わたくしは逃げ出し、失望しただろう王女様に助けられて生き永らえていました。何とか助けようと」
「脱獄したというわけか。で、俺を助けた理由はどこにあるんだ?」
「す、すみません。話はまだ、続くのです。脱獄したわたくしはこの屋敷に辿り着いた瞬間気を失いました。そ、そして気が付けば夜になっていました。そして王都はある噂で持ちきりでした。な、謎の重鎧をまとう女ヘルヴィスティアが王女様を救った、と」
「あの女騎士か」
「わたくしは何の為に脱獄したのか、と思い、ろ、牢に戻ろうとしましたが既に地下水に溢れてしまい、既に脱獄の報は国中に知れ渡っていました。わたくしは朝を待ちました。そしてこの国を去ろうと。しかしわたくしはまたも気を失い、気、気がつけば朝でした。そしてわ、わたくしは身に覚えのない重鎧を身に纏っていました」
「何!? つまりそれは。一体」
「推測ですが。わ、わたくしは昼になると女騎士ヘルヴィスティアになっているようなのです。お、女騎士ヘルヴィスティアはいつの間にか王女様の近衛兵として重用され、この屋敷に居を構えているようです。ヘルヴィスティアの方も恐らく自覚しています。け、決して顔を見せないように常に兜をかぶっているようですから」
「ヘズ・オッドに俺を連れてくるまではどうしてたんだ?」
「わ、わたくしが意識を取り戻すのは夜だけですから。誤魔化すのは簡単です」
「ふむ。まあいいや。それで一体いつから俺は活躍するんだ?」
「こ、ここからです。どうにか女騎士ヘルヴィスティアの正体を暴いてもらえないでしょうか?」
俺は腕を組んで首をかしげる。
「どういう事だ? オルミアがヘルヴィスティアなのだろう?」
「わ、わたくしは怖いのです。女騎士ヘルヴィスティアの意図が分からないのです。王女様に近づいて何をする気なのか」
「つまりお前の中の暗い心が噴出してヘルヴィスティアを形作っているのではないか、と思ってるんだな?」
「はい。ヘルヴィスティアの評判はとても良いです。わ、わたくしの名など既に忘れられています。わたくしは自分でも気づかないうちに王女様を逆恨みしているのではないか、と。嫌なのです。大好きな王女様が傷つくのを見たくはないのです。な、なんて敵前逃亡したわたくしが言っていいセリフでない事は重々承知しているのですが」
「しかし何故俺なのかがまだ説明されてないぞ」
「ビンセント様がこの都で何と噂されているかご存知ですか?」
「知るわけないだろ」
「奴隷の救世主と皮肉交じりに呼ばれているのです」
「良いあだ名じゃないか」
俺は高らかに笑ってやった。
「ですのでわ、わたくしの事も連れ去って欲しいのです北の秘境へと」
「何を勘違いしているのかしらんが俺は笛吹き男じゃないぞ? ただ解放しただけでどこかへ追いやったり導いたりはしていない」
「そ、そうだったのですか。す、すみません。勘違いして」
「いいさ。その勘違いのお陰でこうして助かったんだ。それに、別にオルミアの頼みを聞いたっていい。人目のあるところで兜を外すだけだろ? 朝飯前だ」
オルミアは自分で頼んだ癖に信じられない出来事に立ち会ったかのように目を丸くしている。
「あ、ありがとうございます。このお礼は必ずいたします。父母の遺産は没収されましたがヘルヴィスティアへの褒賞金としてかなりが戻って来ているのです。そ、それにビ、ビンセント様がお望みならば、わ、わたくしの、そ、その」
「じゃあ俺は立ち去る」
「ええ!?」
「朝目が覚めたらヘルヴィスティアに斬り殺されるなんてのはゴメンだからな。どれくらいかかるか分からんが普通通りに日々を過ごしてくれ。必ず兜を外してみせる」
「わ、分かりました。きっとお待ちしております」
さて、とりあえず王都を出よう。ここはあまりに臭い。
ヘズ・オッドの夜はとても静かだった。瞬く竃の火がそこここから漏れ、盆地の都を彩っている。青いタイルが照り返し、ぼやけた光に沈んでいる。郊外に至ると聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ビンセント兄様! ご無事で何よりです!」
ヒナタが、そしてピニャが勢いよく抱きついてきて俺の体はふらついた。倒れはしないが。
「ヒナタ。ピニャ。どうしてここに来たんだ」
「ビンセント兄ちゃんがいつまでも帰ってこにゃいからだ。あたし達ずっと待ってたんだぞ! ヒにゃタなんてずっと泣いてたんだからにゃ!」
「ずっとではないです。たまにです」
「悪かったな、二人とも。実は色々あってな。それはともかく飯を食おう。今にも倒れそうだ」
ある食堂で無理を言って食事を提供してもらった。
そしてここまでの事を全て話す。オルミアの事もヘルヴィスティアの事も。
「それで見ず知らずの騎士様を助けるというわけですね。ビンセント兄様は」
ピニャの口周りを拭いながらヒナタは言った。
「だが命を助けてもらった恩もあるじゃないか」
「ビンセント兄ちゃんを捕まえたのもヘルヴィスティアじゃにゃいか。ヘルヴィスティアはオルミアにゃんだろ?」
「確かにな。だけどそれも突然現れたあいつのもう一つの人格なんだ。オルミアを責められないさ」
「大体その話が本当とも限らないじゃないですか。何か別の思惑があって兄様を助けたのかもしれません。なぜ信じるのですか?」
「信じるしかないさ。恩人の言うことだ」
ヒナタは頬を膨らませる。ピニャもそれを見て真似をする。
「あたしは手伝うぞ! ヒにゃタはお留守番かにゃ!」
「ヒナタも手伝います! 何をすればいいのか分かりませんが。大丈夫なのですか? ヘルヴィスティアは近衛兵。昼間は王宮にいるのですよね」
「別にそんなに難しい事じゃないさ。もちろん作戦は立ててる。念には念を入れて準備をするだけだからな」
という訳で俺はまたもや牢獄に来たのだった。もちろん中には入れない。外から南京錠がかかっているからだ。代わりに近くの茂みに隠れて時を待つ。
すると前と同じであろう時間に奴が現れた。しかしヘルヴィスティア以外にもあの見習い騎士がいる。これは想定外だった。前回牢獄にやって来たのがヘルヴィスティアだけだったからだ。いや、俺に話しかけたのがヘルヴィスティアだけだったのか。近くにはあの見習い騎士がいたのかもしれない。
さて、どうするか。なんて考えている場合ではなかった。道を挟んで反対側の茂みで白い尻尾が揺れている。ピニャは今にも飛び出すタイミングを伺っているようだ。
予定ではヘルヴィスティアが牢獄にいるはずの俺に話しかけ、俺は外から返事をする。こちらに気を取られた隙にヒナタとピニャで兜を奪うという算段だ。仕方ない。やるしかない。
ヘルヴィスティアが牢獄への扉を叩く。まだ俺は返事をしない。
「おい。死んだか? えーと、何て名前だったかな」
「ビンセントですよ、姐さん。返事ないんすか?」
「そのようだ。あの鼠の餌食になったらしい」
今何て言った? あの鼠? 知ってたのか!?
「俺は死んではいないぞ! ヘルヴィスティア!」
そう言って茂みから飛び出した。ヘルヴィスティアと見習い騎士がこちらに驚く。
「て、てめー。どうやって牢から出たんだ!」
「にゃー!」
ヒナタとピニャが飛び出し、ヘルヴィスティアの兜を外す。オルミアの顔が現れる。
「な!? 騎士オルミア!? あんた死んだはずじゃあ?」と言ったのは見習い騎士だ。
騎士オルミアはしかし寝ぼけ眼だ。
「あれ? び、ビンセント様? ここは一体!?」
オルミアの人格が現れた。代わりにヘルヴィスティアの人格は眠りについてしまったのか?
「な、なんだかわからねーけど死刑囚の脱獄囚め! ここでお縄につきやがれ!」見習い騎士が言った。
「ひゃー!」とオルミアは悲鳴を上げながら見習い騎士に体当たりし、兜を被りなおす。そして牢獄への鍵を開いて中へと走り去る。
鼻がひん曲がりそうな強烈な臭いが溢れ出す。
「お、おい!? オルミア! どうしたいんだ!? お前は!?」
「分かりません! 体が勝手に動くんです! 誰か止めて!」
「とにかく追うぞ! ヒナタ! ピニャ!」
「はい!」
「合点!」
汚水の鼠までの道中の中程でヘルヴィスティアを捕らえ、再び兜を奪う。
「離せ! 貴様ら!」と言ったのはオルミアではなく兜だった。
「そういう事か。二重人格とかじゃなくてお前がヘルヴィスティアを演じてたんだな!」
オルミアは突然兜を脱いで素っ裸になる。そして重鎧は一人でに動いて俺から兜を奪い返した。
「演じるも何も私がヘルヴィスティアだ!」
「何だって鎧が一人で動くんだ?」
「神のおぼしめしだろうさ! そこのクズ騎士の鎧として私は日々屈辱的に生きていた。挙句、この牢獄で朽ち果てろと!? そんな事が許されてたまるものか! あの水が! あの水さえ手に入れれば私はさらに強力な騎士となれるはずだ!」
重鎧ヘルヴィスティアは振り返り、またも牢獄の奥へと走り出す。
「おい! そっちには汚水の鼠が!」
ヘルヴィスティアの悲鳴が聞こえる。俺たちが駆けつけるとヘルヴィスティアは汚水の鼠の中に浮かんでいた。身動きが取れないらしい。俺と違って外にも中にも汚水が侵食したからだろう。
汚水の鼠は汚水の鼠で何やら慌てている様子だ。キーキーと泣き喚き、小さな手足をばたつかせている。
「ビンセント兄様。これはピニャに反応しているのでは?」
鼻を塞いでヒナタが言った。
「よしピニャ。ちょっかいかけてみろ」
「まかせろ兄ちゃん」ピニャは一歩前に出て汚水の鼠の目の前に行く。「にゃー!」
汚水の鼠が目を回したかと思うとみるみる体が小さくなり、一匹の鼠になった。
「覚悟しろ!」俺は素早く追いかけるとそのドブネズミを踏み潰した。
「すごいですビンセント兄様!」
「あとしより素早い!」
「まあな。さあ、帰るか」
俺は道中オルミアを抱き上げて、あの屋敷へと向かう。
「全て終わったよ、オルミア」
「ありがとうございます。か、感謝しても仕切れないです。このお礼は必ずなんとしてもわ、わたくしのか、体を」
「それよりオルミア。あの鎧は何だったんだ?」
「分かりません。も、元々我が家に伝わる重鎧なのですが。意志を持ってたなんて」
「もしかしたらあれはオルミアの可能性の一つだったのかもしれないな」
「可能性ですか?」
「ああ。量子力学って知ってるか?」
「いえ、き、聞いた事もありません」
「だろうな。簡単に言えばいくつもの可能性が重なり合ってるって事だ。臆病なオルミアも勇敢なオルミアも」
「ヘルヴィスティアはわ、わたくしの中に眠っているって事でしょうか」
「かもな」
「こ、これからどうなるか分かりませんが、わ、わたくし自分を恥じるような生き方はしないとち、違います」
「ああ、それがいい」




