紀伊くん
8月。約束の日。待ち合わせの噴水近くのベンチに座り、紀伊くんを待つ。相手が同窓生とはいえ、男の人と出かけるなんて大学卒業後初じゃなかろうか。うひゃー、もしかして私干物…?いやいやいや、まだ、まだ25だよ。うん。まだね。大丈夫
「林さん、怖い顔して…怒ってる?」
「25でひも…ごめん、なんでもない」
「(ひも…俺?)…そう」
「あ、怒ってないよ!…あれ、顔色悪い?大丈夫?」
「ううん、行こうか」
紀伊くんは予定より少し遅れてやってきた。かんかん照りの中、四角い背中の後ろを歩く。だんだん丸くなってきた。紀伊くん、猫背のくせは治らないんだ。変わってないとこ、見つけた。
「うへー、着いたー」
「こんなオシャレな建物あったんだ!?」
写真を見る前に感動…。白を基調とした近代的な建物なのに、庭がなんとなく日本庭園のような雰囲気で。奇をてらいすぎない、調和がとれた、そんな建築。好きだなあ、
「建物じゃなくて、写真見るんでしょ」
と少し拗ねて、紀伊くんは足早に建物の中に入ろうとする。分かりやすいところも、変わってない。紀伊くんは昔から感情表現が素直だ。 たった数回しか、高校の時は話せなかったけど、純粋に、仲良くなったら楽しいだろうな、と、そう思える人だった。もちろん、今も。
中に入ると人はまばらだった。チケットをもらってから少し調べたのだが、最近売れっ子の、青井さんという写真家の個展のようだ。名前通り、空や海といった青い風景の写真が主らしい。ネットで何枚か写真を見たが、どれも綺麗だった。実物はもっと綺麗だった。さすがプロの写真は違う。この人にとって、写真部OGの学校行事写真なんて屁みたいなもんなんだろうな。
紀伊くんは、一枚一枚の写真にじっくり見入っているようだった。私も、他の人に比べて立ち止まる時間は長いような気はしたのだが、それ以上に紀伊くんは真剣だった。紀伊くんはきっと、青の中にいくつもの色が見えるんだろうな。虹が7色と言うのは日本だけで、国によって5色だったり3色だったりするように、私にとってたった1色の色でも、紀伊くんには何色もの色が見えるのだろう。
そういえば、一度だけ、高校の時に紀伊くんの写真を見たことがある。というか、入賞作品に紀伊くんの作品があった。若葉の写真だったと思う。文芸室の窓に入る光を遮るように生えている、あの名前の知らない木。確か、光に透けた葉脈が、生きている木の力強さ、たくましさ、繊細さを見事に切り取れていると、審査員から高評価を得ていた。
一通り見て回ると、すっかり青色が好きになった。私は写真を撮るとき色にこだわったことがないけど、今度青色を切り取ってみたいと思った。というか、今すぐ写真が撮りたい。山とか、海とか、なんなら公園でもいい。心が、わくわくしていた。高校の時も、放課後が楽しみで仕方なかったなあ。あの頃から私は、写真が本当に大好きだったんだなあ。
建物内のカフェでくつろいでいると15分後くらいしてから紀伊くんが来た。
「ごめん、俺ばっかりじっくり見て」
「ううん!すごく、良かったから」
それから、どの写真も好きになったこと、私が青井さんのファンになったこと、写真が撮りたくなったこと、思いの丈をありったけの言葉にして紀伊くんに伝えた。紀伊くんはうんうん、と笑顔で静かに聞いてくれ、でしょー!とかさすが林さん!なんて相槌を打ってくれたり、時々てれてれ、と照れたりした。紀伊くんとの時間は、本当に幸せだ。
それからというもの、ちょくちょく紀伊くんと写真を撮りに出かけるようになった。土手だったり街中だったり、地元なのに初めて行くところがいくつもあって、自分がどれだけ今まで冒険しなかったかを思い知った。世界を広げることに、カメラに夢中になって、1日が過ぎるのが早かった。逆に、紀伊くんと写真を撮りに行く日までは亀みたいにゆっくりと時間は過ぎた。あっという間に秋になり、冬になった。今年の秋の文化祭、体育大会は去年よりもいい写真をたくさん撮れたと思う。なんだか、25になってやっと、成長した、と実感できた気がする。日々が充実していると胸を張って言える。生徒にも、先生最近可愛くなった?なんて言われたりしてね!!!でへへって笑ったらやっぱ勘違いだったわって言われたけど。本当に、紀伊くんのおかげだと思う。紀伊くんに会う日があるおかげで、今の私がいるといっても良いくらいかもしれない。
今日はクリスマス。去年は家で、一日中サボテンを眺めていたような気がする。でも!今年は違う。彼氏ではないけど一緒に過ごしてくれる人がいる。心があったかいね。しみじみ。ルンルンと、鼻歌を歌いそうになりながらいつも通り待ち合わせ場所に行って、紀伊くんと会う。写真を撮りつつ散策をする。今日は周りがカップルだらけのせいか、なんだか、いつにも増してドキドキしていた。写真を撮るときはいつもドキドキするけど。
そろそろ晩ご飯にしようか、と紀伊くんが言った。いつもは、そろそろ帰ろうか、なのに。ふふふ。つい笑ってしまう。行きたいところがある、と紀伊くんはどこかへ向かい始めた。紀伊くんの行きたいところって、どんなところだろう。とりあえず顔のにやけを止めたい。
「ここ?」
「ここ」
着いたところは街から少し外れた場所にあった。ログハウス風の建物で、まるでサンタさんの家みたいな、そんなレストランだった。玄関のランプは暖かい橙色の灯で、中も暖かい内装だった。
二人でテーブルにつくと、注文しないうちに料理が運ばれてきた。予約してたの?と聞くと、紀伊くんはてれーっと照れた。お。いつものてれてれとちょっと違う。おいしいねって言うと、おいしいねって返ってくる。こだまでしょうか、いいえ紀伊くん。幸せだ。デザートも食べて幸せいっぱいだ。自然と笑顔になってしまう。
「林さん」
「ん?なあに?」
紀伊くんはリボンのついた四角い箱をテーブルの上に出して、私の方へ差し出した。プ、プレゼント…オブ…クリスマス…。開けていい?と聞くとてれてれと照れながら、こくっと彼は頷いた。
「わぁっ…」
綺麗な薄い水色のハンカチだった。こんな素敵なプレゼント、初めてかもしれない。
「その色、白藍って言うんだ。林さんに似合うと思って。」
白藍……薄い水色じゃないのか…。さすが紀伊くん。にしても、私に似合うと思って選んでくれたなんて、嬉しすぎる。
ありがとう、とお礼を言って、私からも紀伊くんにプレゼントをあげることにした。
「え、いいの…?」
「内緒ね」
裏門の壊れている鍵を外し、静かに中へ入って行く。目的地が裏門に近くてよかった。最近知ったのだが、第3棟には一つだけ、鍵のかかっていないドアがある。建て付けが悪く、鍵がうまくかからないのだ。だから、コツさえつかめば開けられる。
「よっ」
開いた!
「林さんって泥棒やったことある?」
とりあえず紀伊くんのお腹を軽く殴って中に入る。夜の学校は初めてじゃないけど、夜の文芸室は初めてだ。うう、寒い。
「どう?懐かしい?」
「うん…すごく、懐かしい」
これぞ教員の権力!ではなく、ただの不法侵入だけども。…何か物をあげようとも思ったけど、分からなさすぎて諦めた。だから、紀伊くんをこの文芸室に連れてこようと決めていたのだ。
「あ…」
声の主の方を見てみると、紀伊くんが何かを手にとってパラパラとめくっていた。
「何見てるの?」
紀伊くんはてれてれとしながら、これ、全部俺の写真、と言った。…高校生の紀伊くんが撮った写真ばかりのアルバム…こんな本棚の奥にいたんだ。周りは埃だらけだったけど、ずっと陰に置いてあったからか、保存状態はよく、写真一枚一枚の発色は全く色あせず、鮮やかに8年前を写していた。昔から上手かったんだなあ。一緒に撮りに行って思うけど、紀伊くんは切り取りのセンスがすごい。一緒の物を撮っても、全然違うものに見える。紀伊くんは私の撮る方が良いというけど…お世辞にしか思えない。あ。
「桜の写真…これ綺麗…」
「そうかなぁ?昔の写真って、どうも自分じゃ正しい評価ができなくって。」
「すごい、素敵だよ…!紀伊くん、来年の春にでも一緒に撮りに行こうよ!」
「行、ける…といいよね」
「え、行けない…の?」
「さあ。未来は分からないから。」
行けるといいね、と紀伊くんはもう一度言った。うん、行こう、って、言ってくれないんだ。少し紀伊くんらしくない。少し、寂しい。
「…そういえば、人物は撮らなかったの?」
「…確かに、これを見る限り風景とか自然だけだねー。そういう林さんは、逆に人物ばっかだったよね」
「そうだっけ?」
「うん」
自分が何をどんな風に撮ってたかなんて、すっかり思い出せなくなったな。私もアルバムで残しとけばよかった。実家にあるかもしれない…。
紀伊くんは自分のアルバムを一通り眺めてから、もう一度、文芸室を見回した。そして、私をまっすぐ見た。
「本当、懐かしかった。連れてきてくれてありがとう。」
「どういたしまして。不法侵入の共犯にしただけだけどね」
それからまた世間話をしつつ、お互いに家路に着いた。
部屋に入ってから電気をつけ、スマホを確認すると通知が届いていた。紀伊くんだった。写真を撮りに行く日と場所は交代で決めることにしていて、今度は紀伊くんの番だった。”今日も楽しかったよ、ありがとう。次は2月20日、空港とかどうですか?”。
「2月か。りょ、う、か、い、っと。」
返信して、ベッドに横になる。いつもは次の約束まで大体一ヶ月なのに、今回は少し長いんだなぁ。じっと、今日もらったハンカチを手にし、見つめる。白藍色、か…。良い色。ふふ。なんだかもらったのが随分昔のように思える。今日のことなのに。ほんのりラベンダーの香りがする。嬉しい。2月20日…待ち遠しいな。
冬休みも終わり、あっという間に2月に 入った。3年生は受験真っ只中だ。3学年の先生方を筆頭に、職員室も段々と慌ただしい雰囲気を帯びてきていた。私は主に1学年担当だが、いくつか3年生のクラスに出ていることもあり、なかなか写真部に顔が出せずにいた。久々に文芸室に行くと、2年と1年の子が一生懸命なにか作っていた。
「みんな、何作ってるの?」
「千香ちゃんやっときたー!」
林先生でしょ、とたしなめながら、様子を見る。なんでも、3年生の卒業に向けてアルバムを作っているらしい。泣かせるじゃないか…。
「それで相談なんだけど、2月20日の午後も部活やっていい?先輩多くて、全然間に合わないんです。休日は顧問の先生がいないと部活できないから…」
「…2月20日の午後…どんだけピンポイントよ…」
紀伊くんとの約束の日。まあでも生徒の頼みは断りたくないし…。んんん。仕方ない、紀伊くんに断りの連絡入れとくか。
「わかった」
「ありがとう千香ちゃん!!」
林先生ね。何度言ったら分かるんだ。そしてその日、学校が終わってからメールすると、わかった、と一言返信がきた。まあ、今まで1度も予定が潰れずにお互い会えてたことが奇跡なのだ。仕方ない。そう、仕方ない。
2月20日。顧問として文芸室へ。部員はすでに作業を始めていた。…やることない。ふと、紀伊くんのアルバムを思い出して眺めることにした。クリスマスの日はバレないように薄明かりしかつけれなかったから、じっくりは見れなかったんだよね。でも、前見ても、今見ても、写真が綺麗なことには変わりなかった。ペラペラ。
「…ん?なんの写真?」