8 初めての長いお留守番
「高島さん、夕方には戻るからゲラを出しておいてね」
「はーい! 気を付けて行ってらっしゃーい」
営業に出る課長に立ち上がって返事をし、美雨は再びデスクに向かうが、なんとなく上の空だった。
考えるのはアルフレドのこと。月曜日が来てしまったので美雨は出勤しなくてはならず、あんな小さな体のアルフレドを残すのは心配だったが、仕事は待ってはくれないのだから仕方ない。
「高島さーん、外線1番から課長だよ」
「はーい。ありがとうございます」
外線に出ると言って、先ほど出発した課長だった。
夕方と言っていたが先方の都合で昼に戻ることになったそうだ。
美雨はディスプレイに表示されたレイアウトを見て気合を入れなおした。とりあえず今はポスターに入れ込む地図をちゃっちゃと作成しよう。そしてなるべく早く帰ることが一番の対策だ。
***
結局、昼に戻った課長が先方にゲラを見せに行き、夕方には校正が戻り、明日の朝一番にまた持って行くと言われれば仕方がなく…。そして当然、他にもすべき仕事はたくさんあるわけで。美雨が帰路についたのはいつもと変わらない午後8時だった。
「アルフ大丈夫かなー?遅くなるかもと思ってお昼のパンは大目に置いておいたし、飲み水もあんまり縁が高くない皿に貯め置きしておいたけど…」
昨日も肌寒かったけれど、今日はもう少し寒い。
古い愛車に乗り込み、エンジンをかけると流れてくるのはお気に入りの音楽。金曜日は溜息をつきながら乗り込んだけど、今日の彼女は違う。
まだ夜の八時だというのに、出歩いている人も全然居ない、いつもの通りの道だって、人通りがないならアルフレドと夜の散歩くらいはできるんじゃないかなとか思えてくる。
「えーっと、晩御飯はちゃちゃっと野菜炒めにしようかな」
どんなに遅くてもちゃんと料理してご飯にはありつき、お風呂には必ず入って眠るのが美雨のポリシーである。
「日曜日にお買い物たくさんしておいて良かったー」
日曜の夕方、美雨は近所のスーパーに買い物に出かけた。両手に買い物袋を持って帰ってきた美雨を見て、アルフレドは申し訳なさそうにしていた。
「俺が大きければそのような荷物など持たせないのにな」
「じゃあ、大きくなったら重たーい荷物運んでもらっちゃおうかな」
「構わない。なんならミュウごと運んでやろうか」
アルフレドの大きくなった姿なんて分からないし、想像もつかないけれど。こんなイケ小人なのだから、きっとすごい美形なのは間違いないだろうなと昨日の会話を思い出した美雨はそう思う。
色々考えていたらあっという間にアパートが見えてきた。一旦通り過ぎ、いつも通り左側にウィンカーを出して駐車する。
美雨は帰宅時のエンジンを切ったあとの一瞬の静けさが大好きだったのだが、今日はエンジンを切るなりバッグを掴んで慌てて車のドアを開けた。
右側に田んぼ、左側にまばらな住宅のいつものアパートへの道をカツカツとヒールを鳴らして歩いていくと、夜空に細い三日月が見えた。
「あ、猫の爪」
彼女の母親は細い三日月を見ると嬉しそうに「猫の爪」と教えてくれたものだ。
アルフレドを拾った場所に通りかかり、思わずあたりをキョロキョロと見てしまう。
こんな時間だから当然なのだけれど人っ子一人、カラスだって見当たらなかったのでほっと一息ついて慌てて歩き出す。
右側の田んぼからは秋の虫たちの音色が聞こえていた。
***
「アルフ、ただいまー。って、うわ! ごめんね、電気のこと忘れてた」
「いや、大丈夫。薄暗いが見えるから。おかえり、ミュウ」
鍵を開けると、窓から入り込んだ街灯で少し明るいが、それでもまだまだ薄暗い室内からアルフのおかえりが聞こえた。
美雨は慌ててヒールを脱ぎ、電気を付けようとして……立ち止まる。
「アルフ、今どこにいるの?」
「テーブルの上だ」
「じゃあ大丈夫だね」
踏み潰してしまう危険はなさそうだと判断し、美雨はスイッチまで歩きスイッチを入れる。一瞬で明るくなった室内に眩しそうにアルフレドは目を細めた。
「そうかー。電気はどうしようかなぁ。付けっぱなしで行くのもなんだし」
言いながら窓へ行きカーテンを閉める。カーテンはベージュに小さな小鳥が描かれているお気に入りのものだ。
「アルフ、遅くなってごめんね」
「いや、気にしなくていい。遅くまでお疲れ様、ミュウ」
優しい言葉に美雨は微笑み、頷いた。
「すぐにご飯作るね。お昼ご飯とお水は足りた?」
「ああ。十分だった。水はまだ残っているしな」
テーブルの上にはまだ水が半分ほど残った深めの皿が置かれたままだった。隣に置かれた、小さくカットしたパンが入っていた皿はもう空だった。
***
出来上がった遅い夕食の野菜炒め。もちろんアルフレドには小さくカットしてある。平らげたアルフレドは美味しいと褒めてくれた。
「どうだった?絵本、少しは読めるようになったかな」
日曜日、美雨が外出の際に小物のほかに幼児向けの絵本も買ってきていた。ストーリー性も何もない、犬が描かれていて「いぬ」、服が描かれていて「ふく」と書かれているようなシンプルなものだ。
会話はできるが、文字が読めないのに気付いたのは日曜日のことだった。
スマホを一緒に見ていてそれが判明した。少し不思議だったが、文字の勉強をしたいとアルフレドは言ったので簡単なあいうえお表を作り、ついでに絵本もプレゼントしたのだ。
「ああ、少しだけな」
「ふふ、アルフは勉強家なんだね。私だったら会話ができるからきっと諦めちゃうなー」
「この世界には便利なものが溢れている。少しでもその知識を得たいのだよ」
「なるほど」
確かに美雨も逆の立場だったら覚えようと頑張るだろう。ただ、小人になってしまったらその時点で心が折れそうな気もする。
「この世界の言語は大変だな。“ひらがな”に“かたかな”“かんじ”もある」
「数字もあるよ」
「数字はもうだいたい覚えた。元の世界にもあったし、規則性があるものは楽だな」
なんてこったいと美雨は思った。数字に弱い彼女は数学どころか算数から大の苦手だったのだ。
「そういえば、ミュウの名前は何と書くんだ。本当は発音も違うのだろう?」
「うん。私の名前はね」
鞄から手帳とペンを取り出す。余白を開いて大きく『高島美雨』と書いて隣に振り仮名で『たかしまみう』と書き、さらにその隣にカタカナで『タカシマミウ』と書いた。
「これが全ておなじ読みなのだから、本当に興味深い。この“カンジ”はどういう区切りなのだろうか」
「えっとね、高島で苗字…ファミリーネームだよ」
指で示せばアルフレドは頷く。
「美雨で名前。漢字はひとつひとつに意味があってね。例えば“高”は高低の高い」
「すごいな。一文字にそんな意味が込められているのか」
アルフレドの菫色の瞳は好奇心に輝く。
「ミュウ、名前の意味も教えてはくれないか」
「うん。“美”は美しい。“雨”は空から降ってくる雨のことだよ」
「…そうか。ミュウらしいな」
「ふふ、お母さんが付けてくれたみたいでね。感謝してるんだ」
美雨の優しさは大地を潤す雨のように慈しみに溢れ、美しくぴったりだとアルフレドには思えた。
渡った先がこの世界で良かった。この、心優しく可愛らしい大きな女性の元で良かったと心から思う。
それと同時に小さいままの体と、残してきた自身の大切な友の魔獣、部下や騎士団のことも頭から常に離れない。
この穏やかな時間が続けばいいと願う一方で、早く帰らねばという気持ちも存在していて。
その複雑な心にそっと蓋をして今は己にできることをしようと思うのだった。
アルフレドくん、初めてのお留守番。
お皿のお水は彼にとっては水汲み場のようなものですね。とても燃費のいい小人さんです。