番外編1 噂話と奥様
こんにちは。早すぎる再会ですが、ひとつだけ番外編を。
―――これは、彼女が美雨・フリクセルとなって一か月が経った頃に起きた事件である。
届け出を出して、女神に受理されて一か月。最近になってようやく美雨にも結婚したのだという実感が湧いてきていた。近所の奥様方に『フリクセルの奥さん』と呼ばれるからだ。その通りなのだけれど、やっぱり少し恥ずかしい。アルフレドのことを『主人が』と言うのはすごく恥ずかしいけど、誇らしい。
暖炉の使い方などさっぱり分からなかったが、今では色々できるようになったのは奥様方のおかげだ。他にも色々教えてくれたりしたので美雨は悩んだ挙句、“あんこ”を作ってお返しにした。なんと、ロゼリオの大好物である小豆は『赤豆』として一般的ではあるが“あんこ”は存在していなかったのだ。そもそもが人間が食べるには炒ったりスープに入れたり等しかしていなかったそうだ。
さんざん悩んで、小倉フランス的なものにして渡したらこれが奥様方の心にクリティカルヒットだったらしい。彼女たちは美雨をますます気に入り、色々と教えてくれるようになったのだ。
最近、粉雪が舞い散り始めてきたので、美雨は保存食作りに精を出していた。近所の奥様方が我先にと教えてくれるのでありがたい。雪が深くなってきたら、パン生地…といっても、ナンのようなパンだが。それを大量に作って一枚づつの状態にし、冷たい場所に保管しておく。食べる時は暖炉の前に熱した台を置いてそれの上に置いて必要なだけ焼く方法だとか。そういう、美雨が知らないことをたくさん教えてくれる。
そうやって長くて厳しいらしい冬の準備をしていると、やはり色々と足りなくなってくるわけで。美雨は初めて、一人で買い物に行くことにしたのだった。
いつも通り、夫と友を送り出してからしっかり戸締りをして彼女は家を出た。この世界にきて、初めての一人での遠出に少しの緊張と、昂揚感にどきどきしながら白樺の並木道を抜けていく。この辺りは白樺が多く、これを使った細工が名産なのだと聞いた。
しばらく歩くと、アルフレドと一緒に乗った乗合馬車が来る通りへと出た。待っているとやってきたので乗る。
順調に馬車は進み、目的地である市場で降りた。王宮の手前にあるので少し安く、三十クオーレだった。美雨は皮袋から白い小さい硬貨を三枚取り出して渡して降りた。
今日は平日の朝ということもあって、そんなに人出は多くない。さて、どこから探そうかと視線を巡らせた。今日は、小麦粉と塩、ハーブ類が欲しい。できればショウガが欲しいところだが、名前が分からないので見つかるかどうかは分からない。
美雨はゆっくりと歩き出す。順調に、小麦粉、塩、ハーブを数種類買えた。後はショウガを探さねば…と思ったが、少し疲れた。アルフレドとは何度か来たことがあるので、休憩によく使う噴水広場へと歩みを進める。
***
「アルフレド様、結婚したって聞いた?」
「えええー!? うっそ! 初耳!!」
噴水に座ってのんびりとしている美雨の耳に、大声で話す年若い女性の会話が飛び込んできた。
アルフレド様。夫の名前と同じだと、自然と耳を傾けてしまう。
「本当だよー! 一か月も前に急に現れた女と結婚したんだって!」
「でも、騎士団のお仕事で、お怪我をされて休養されていたじゃない。…!まさか!!」
一か月前に結婚をした、騎士団の、怪我をしていてずっと休養していたアルフレド。
あれ? これって、もしかしてと美雨の背を嫌な汗が伝う。
自分たちのことではないのだろうか。
そんな美雨に気付くはずもなく。噴水の斜め後ろに座る、声の大きいお嬢様方はどんどんヒートアップしていく。
「そうだよ! 看病か何かしてたのかな。あーん、うらやましい!!」
「本当! そんなの私がやりたかったわ。包帯を毎日換えて、お洋服を換えて差し上げて…うふふ」
「やだ、はしたない…! ああ、でもあの金の髪を一度でいいから梳いてみたいものよね…」
うっとりと呟く二人の声が、美雨の耳に次々と大音量で入ってくる。
「でも、あの強く美しく、そして誰にもなびかなかったアルフレド様を手に入れた女ってやっぱり美人なのでしょうね…」
「いえね、その…とびっきりの美人っていうわけじゃないらしいのよ」
とっておきの話をするような、楽しげな声に嫌な予感がした。早くここを離れなきゃ。そうは思うのだが、なんだか足に根が生えたようで動くことができない。美雨はそのまま。噴水に座ったままだった。
「体型は普通より小柄なくらい。胸もあんまりなくって、なんか全体的にガリガリらしいわよ」
「ええ! じゃあ、まだ勝ち目あるんじゃない?」
「しかもねー、アルフレド様より年上の女らしいのよ」
「ええ、なんでそんな女なんかに」
女神に受理された時点で、それが覆されることはまずない。もちろんそれを知っている町娘たちは憧れのアルフレドを取られた腹いせに言っただけだった。
ただ、覆されることがないことを知らない美雨は冷水を掛けられたような気持ちだった。
先ほどまでの楽しかった気持ちがしゅんと萎れて行くような気がした。彼を一番好きな気持ちは負けない。それは自信があるのだが、こんな風に言われて落ち込まないでいられるほど大人ではいられなかった。
視線を落とすと、足元の石畳と自分の足が見えた。茶色のブーツ。飾りのビーズが付いたかわいいデザインのこれは彼女の夫が贈ってくれたものだった。思い出して少し気持ちが軽くなる。
ふと、自分の体に影が差す。秋晴れだったのに、天気が悪くなったのかと空を見上げると…。
「ミュウ! 買い物はできたか?」
「え? アルフ! どうしたの、お仕事は…」
大きな黒い翼を上下にゆっくりと動かし、この王国で一番早く空を翔けると言われる魔獣と、その友であり、美雨の夫が広場へと降りてきている所だった。人は少なかったが、何事かと広場に居た人、市場の店主たちが出てきて、ざわついてこちらを見ている。もちろん、先ほどまで心無いことを言っていた町娘二人もぽかんと口を開けてみていた。
「思っていたより早く手が空いてな。今日は一人で出掛けると言っていただろう。時間が空いたから、ミュウの荷物でも運ぼうかと思ってこちらへ来た。飛んでいたらここで休んでいるのが見えてな」
『重たいもの、はこぶの得意。まかせろ!』
平日で人出が少ないとはいえ、混雑しない程度ということだ。この人の往来の多い人ごみの中で上空から見ただけでミュウを判別し、すぐに来てくれたのだ。冷え切って凍えていた心がふっと軽くなる。我ながら現金なと美雨は思ったが、嬉しいものは嬉しい。
誰になんと言われようといいじゃないか。私は、彼の傍に居たくてこの世界へ来たのだ。今更何を言われても気にしなければいい。
「荷物はこれだけなのか?」
「うん。今度、アルフと一緒に行きたい」
「ああ。その方が安心だ。変な男に引っかかっても困る」
「大丈夫だよ、私より素敵な人がたくさん他にいるんだから」
荷物を積み、アルフレドは先に騎乗して美雨へと手を伸ばした。妻は手を差し出し、夫はしっかりとその手を掴んで引き上げた。そして自分の前へと乗せてしっかりと抱き込んだ。
「こんなに小さくて可愛いのだから、気を付けていないとすぐに攫われてしまう」
そして、やっとそこで。広場の注目がだいぶ集まっていることに気付いて気まずそうに、誉れあるネスレディア王国第二騎士団団長は微笑みを浮かべた。
「騒がせてしまって申し訳ない。事件ではなく、ただ単に妻を迎えに来ただけだ」
その言葉に冷やかすように口笛が高く鳴って、美雨は少し頬を染めた。アルフレドは笑って手を振って応え、ロゼリオに合図を送る。力強い獅子の後ろ足が地面を蹴り、翼が上下したかと思うともう上昇は始まっていた。
やがて、広場の人々が豆粒くらいの大きさになった頃に美雨は口を開いた。
「ありがとう、アルフ。わたしが心細いかなと思って、仕事を早めに切り上げてくれたんでしょう?」
「…いや。本当に早めに仕事が終わっただけだ。ミュウが気にすることではない」
「ありがとう、アルフ」
アルフレドはミュウの頭に大きく温かい手のひらを乗せ、黒くなった髪を優しく撫でたのだった。
***
第二騎士団団長、アルフレド・フリクセルと、その妻が去った後の広場は話題で持ちきりだった。
「何が、ガリガリの棒女だ! 小さくって華奢なかわいい娘さんじゃないか」
「なんであんなに変な噂が流れたんだか。大方、団長さんにキャーキャー言ってた娘っ子どもが、聞きかじった話に悪意を込めて広めたんだろうが」
口笛を吹いた年配の男が腹立たしそうに、近くにいた男に話しかけていた。口笛の男はアルフレドがまだ騎士団の下っ端だった頃から知っている街の古株だ。
「…あんなんじゃ、勝ち目ないわね」
「うん。アルフレド様のあんな顔、初めて見たわ」
噂話をしていた町娘たちも、二人の仲の良い様子を見てあてられたのだろう。赤く染まった頬に手を当ててぽーっとしている。
「だいたい、年上の女って言ってたけどあれも嘘なんじゃないの?」
「本当。どう見ても私たちと同じか、少し下に見えたわ」
「あーん、あんな風に愛されたい!」
「幸せになりたーい!」
すっかり噂に踊らされていて悔しかったのだろう。次の日から彼女たちは新しい噂を広めることになる。
みんなの憧れ、フリクセル団長は一人の美しい黒髪を持つ、優しげな笑顔のかわいい妻に夢中なのだと。その様子はとても仲睦まじく、あんな夫婦になりたいわと。
その噂は、元々の噂より早く広まり、城下町からやがて近隣の村にまで広がった。第二騎士団団長はその昔、辺境を守護する役目をもらっていたことも、原因の一つではあるだろう。
さらにその半月後、その噂は遥か西方の国境付近にも流れてきた。この地方を治める領主の息子であり、地元の少年だった彼は、今やこの国の選ばれし、第二騎士団団長である。そのアルフレドが幸せな様子が伝わって聞こえ、みんな喜んだのだという。
さて、そんなことなど露とも知らぬ二人は、今日ものんびりと雪に埋もれ始めた我が家で穏やかに過ごす。周りの噂など、どうでも良い。お互いの唯一がお互いであれば、それでいいのだった。
最初は、勘違い令嬢が美雨一人の時に家に押しかけてくるというものを考えていたのですが、こちらのほうが二人らしいかなと。