72 会いたいならば、会いに行こう
白銀の竜王が、二人を背中に乗せて、昼前の空を飛ぶ。大輝のようにソリは必要ない。うっかり落とさぬよう、負荷をかけぬようにコントロールできるからだ。
その斜め後ろにはロゼリオが付いてきている。この数日間でロゼリオの速度は格段に上がったように思える。いや、むしろ今まではアルフレドを落とさぬよう、無意識のうちにスピードを下げていたのだろう。確実に天馬を超える速度で翔ける友を誇らしく思った。
美雨が行きたいと言った場所は、竜王と母が初めて出会った場所だった。寒い所だということで、持ってきていた防寒着を着せ、自分の足の間に座らせて後ろから抱き込んでいる。昨日は真っ青な顔をしていたのだ。もう体調不良を見過ごしたりはしないとアルフレドは決めていた。
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「ああ、あそこだな」
巣からは近いが、だいぶ山の上の方にある、雪がギリギリ積もっていない寒い場所だった。竜王はゆっくりと旋回して降りていく。
「私は、あまり他人や同族に興味を持てない性質でな。ここで毎日のんびりと暮らしていたのだよ」
広い場所に降り立ち、ロゼリオも隣に降り立つ。高度が高くて少し空気が薄く感じる。母はよくこんな所まで一人で登ってきたなと美雨は感心した。彼女はとても行動的だったようだ。
「いつものように、あの滝壺でのんびりと冷水浴を楽しんでいたら、あの岩陰からミサキが現れてな」
竜王は大きな喉を震わせて笑った。
「そんなに浸って寒くないの? と聞いてきてな。私は氷と雪の竜だというのに」
優しい緑の瞳に、以前のような悲しみの色はない。ただ、昔を懐かしんでいるのだと分かって美雨はほっとした。ここにはどうしても来たかったが、彼を傷付けてしまうのではとも思っていたからだ。
「他人に無関心な私だったが、ミサキの言葉や行動には心惹かれるものがあってな。それから、私と彼女は旅に出たのだよ」
竜王は目を伏せ、言葉を切った。もう話すつもりはないのだろう。
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あの後、冷たい滝壺の近くに腰掛けて、パンに塩漬けの肉と野菜を挟んだ簡単な昼食を取った。竜王とロゼリオは水を飲んだだけだった。
竜王は、美雨との約束通り色々な母のことを話してくれた。大輝が居なくて残念だが、後で教えてあげることにする。それに、彼は竜となったのだから長い時間があるのだ。竜王と二人で話す機会もたくさんあるだろう。
話もひと段落ついた所で、あとはのんびりとあの巣で過ごすことにした。せっかくだから、美雨が晩御飯を作ると申し出ると竜王は殊の外喜んだ。娘の作ったごはんというものにとても憧れていたらしい。
美雨とアルフレドはキッチンで準備、竜王は大輝を探してくると出ていった。ちなみに、ロゼリオはのんびりと広い部屋の干し草の上でゴロゴロとしている。
「ミュウ、オレも手伝おう。皿を出しておくか」
「あ、じゃあね。お父さんの大好きなレモネードをつくろうと思っているのだけど、氷がなくって」
「ああ、竜王殿は冷え切ったレモネードが大好きだったな」
美雨の作るレモネードは至って簡単。レモンの絞り汁とはちみつをグラスに入れておいて水で溶く。その後に氷を足すので、はちみつの溶け残りがとても多い。お湯で溶かしたり、レモンをはちみつで漬けておくのが一般的なのだろうが、母のやっていた通りにずっと作っていたからこうなってしまった。それに、溶け残っているはちみつを食べるのも大好きなのだから、これでいいと思っている。
「ロゼと取りに行って来よう。ロゼのあの様子ならば、明日の早朝に発てば帰る時に丁度合流できそうだから、まだ大丈夫だ」
「ごめんね、走らせてしまって…でも、どうしても作ってあげたいなと思って」
「父親の大好きなものを作ってやりたいと思うのは当然だろう? それに、オレも竜王殿の嬉しそうな顔を見るのは好きだ」
「ふふ、ありがとう。寒いから、きちんと防寒して行ってね」
アルフレドは頷き、準備のために一旦部屋へ戻る。その間に美雨は手際よく準備を進める。大きなサラダと、自分たち用にはパスタを作るつもりだ。父にはパン、木の実、サラダ、レモネード。そして大量にもらったベリーでジャムを作ろうかと思う。ジャムなら日持ちするし、少しパンを残しておけば父も食べられるだろう。
ここのキッチンは本当にすごくて、美雨はこのキッチンごと持って帰りたかった。なんと、簡単なオーブンまであったのだ。小麦粉を持ってきていて良かったと思う。最初から簡単なパンは作るつもりだった。フライパンで作れそうなものを…と思っていたが、予想外のことに結構立派なものが作れそうだ。
「では、ミュウ。行ってくる。何か入れ物を貸してくれないか」
「はい。この蓋付きの陶器でいいかな?」
「ああ。ちょうど良さそうだ。しかし、本当に何でもあるな、ここは…竜王殿の愛情深さが伺えるな」
豊富な品揃えのキッチンを見て、アルフレドは微笑んだ。今の自分には竜王の気持ちがよく分かる。そして、美雨の近くに居られるという幸せも。
「では、行ってくる。すぐに戻れると思う」
「うん。気を付けて、行ってらっしゃい」
美雨は手を拭いてから、つま先立ちでアルフレドに手を伸ばした。いってらっしゃいのキスを受けたアルフレドは美雨の頭をひと撫でし、キッチンから出て行った。わずかに見えた広い空間の滝の先が夕日で真っ赤に染まるのを見て、美雨は思い出す。
夕焼け空の田んぼ道。母を真ん中にして、美雨と大輝と一緒に手を繋いで歩く秋の日を。
母はゆうやけこやけを歌っていて、子どもたちも大きな声で歌っていた。
***
大輝を連れて帰ってきた竜王は、キッチンへ続く扉を開けれずに立ち尽くしていた。
中から小さく聞こえるのは、今も恋焦がれて止まない彼の愛する人にそっくりな声で歌う娘の声。
旅の間中、夕焼けが綺麗な日はいつも歌っていた。一緒に歩いていた時もあったし、彼の背中の上に居た時もあったし、腕の中に居た時もあった。
「…入ろっか、父さん」
息子が優しく彼の肩を叩き、頬を伝う涙に気付かぬふりをして扉を開けて先に入った。
「姉ちゃん、ただいまー! シーラがこれお土産って」
「え、すごい! これ全部はちみつなの? 良かった。持ってきてた分だけじゃ一人分しかなくって」
辛く、悲しい思い出に塗りつぶされてしまっていた彼の家。それが優しく塗り替えられていく。
『ハルト、私ね。この家を素敵な場所に変えたいの! 一緒に改造しよ!』
部屋ひとつひとつについた扉を見るたび、彼女の設計図通りに作った家具を見るたび、思い出して辛かった。ここには思い出が多すぎて。娘も二人の息子も明日の夕方には旅立ってしまう。しかし、会いたければ会いに行けばいいのだ。距離はあるが、竜の彼にとってはそう遠くはない。同じ世界に居るのだから。
いつの間にか止まっていた涙の跡を擦り、何食わぬ顔をして竜王はキッチンへと入った。そんな彼に娘が優しく、おかえりなさいと声をかけた。
あと数話で終わりとなります。
次話、別れと告白。