70 おかえりなさい
彼の巣は、雪解けの清涼な滝の裏側に広がる、天井の高い巨大な洞窟だった。
ここに来る途中、竜王は少しだけ話をしてくれた。
彼がここを旅立ってから、残された竜たちは彼らの王と、大切な人、大切な卵たちがいつ戻ってきてもいいように。干し草をきちんを入れてくれていたのだそうだ。しなびては換え、新しいふかふかの状態にする。それを二十年以上も交代で続けたのだという。そうすればきっと帰って来てくれる。何事もなかったように、いつも通りにと。そんな彼らの願いのようにも思える。
滝をくぐる時、水に濡れたりはしなかった。竜王がきちんと陣を張っていてくれたらしい。
ホールのようになっている場所のずっと奥に小さな道が続き、それぞれの部屋に繋がっている。
人間の家のように扉が付いていて驚くと、母がそうしたのだという。
こじんまりとした空間に、テーブルにイス。そしてレストラン等で見かける子ども用のイスが二脚用意されていて美雨は目を丸くする。
「ああ、美雨用にと。ミサキに頼まれて私が作った」
人の姿を取っている竜王は懐かしそうに目を細め、そっと指先で椅子を撫でた。
「大輝が生まれてくると分かってから、すぐにもう一脚を作ったのだが…使う機会は来なかったな」
苦く笑い、顔を上げた竜王は手招きをした。
「ここが、みんなで眠っていた巣だ」
竜の姿でも横たわれそうな広さと高さの空間。そこ一面には干し草とわらが敷き詰めてあってお日様の匂いがした。
美雨は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「なんだか、懐かしい匂いのような気がする」
美雨が呟けば、竜王は嬉しそうに頷く。この場所で、美雨は確かにここで生まれ、二年近くを過ごしたのだ。
「そして、この奥が…ミサキが足を滑らせた場所だ」
竜王が示した場所は、奥の細くなった空間の先にある抜け道のような所だった。美雨が生まれた時に付けた扉を開くと、崖に沿うように細い道が延々と伸びている。
ぞっとした。夜中に、乳飲み子と幼子を二人も抱えて母はこの道を通って逃げようとしたのだ。
想像するだけで恐ろしく、悲しかった。美雨がぎゅっと自身の体を抱きしめていると、肩に温かい温もりを感じた。相手が誰なのかは確認するまでもない。美雨はその温かな夫の手をぎゅっと握り頷いた。滲んだ涙を振り払う。
「竜王さ…お父さん!」
突然の美雨の言葉に大輝は驚き目を丸くする。アルフレドは相談を受けていたので分かっていたのだろう。優しい瞳で父娘を見守る。
竜王の温かな春の緑色の瞳から、ぽろりと涙が零れた。ひとつ流れるとなかなか止まらない。美雨がなかなか泣き止めないのは父親譲りかとアルフレドは微笑んだ。
「私ね、私が生まれた時の話、お母さんとお父さんが旅をしていた時の話とか…たくさん聞きたいことがあるよ」
「…オレも、一緒に聞かせてよ」
ここに付いてからというもの、沈黙を守って辺りを観察するだけだった大輝もぽつりと呟く。彼はほとんどここで過ごしてはいない。何か思うことがあったのだろう。
「色々なことがあって、ずっと会えなかったけど、私は今からを大切にしたいよ」
美雨はずっと服の中に首から下げていた、母の形見の指輪を通したネックレスのチェーンを外して竜王に渡す。
「でも、お母さんのことも忘れたくないから、お父さんにたくさん話を聞きたいな」
それを受け取った竜王の瞳にはまた涙が浮かんできた。
「…これは、私がミサキに贈った、最初で最後の贈り物だ。ミサキが青色が好きだというから、鉱石を自分で掘ってな。大きな石だったのだが、加工していたら力加減を間違えて割ってしまった」
でも、この石がいい。と母は笑って言ったのだという。
大きな青い石が付いた指輪になる予定だったのに、結局は金色の細いリングの内側に、小さな青い石は収まった。
「この、擦れて読めない文字はなんて書いてあるの?」
「ああ、竜族の言葉でな…」
竜王は言葉を詰まらせ、指輪を愛おしそうに撫でながら。ゆっくりと言葉を紡いだ。
「永遠に貴女を愛する。と書いてある」
***
あの後、少し落ち着いた竜王は、テーブルに皆を案内してくれた。
そして、なんと驚いたことに、この巣には冷蔵庫があったのだ。それも冷凍庫機能付き。
ハイスペックな魔石の開発者は、白銀の竜だった。大輝の魔石への適性は間違いなく彼から受け継いだものだろう。
「すごいな。美雨が持っていた冷蔵庫と同じ性能だな」
「ううん、あれは一人暮らし用だから。これはファミリー用サイズくらいだから、こっちのほうが断然高性能だよ…」
これがあれば、買い出しの数がもっと減るのになと言うと、白銀の竜はスペアがあるから持って行くといいと言ってくれた。二つもらって、ひとつは大輝が研究することとなった。作り方を教えてもらったが、白銀の竜は竜ならではの“なんとなく”で作っていたので、大輝には作れなかった。彼がこれを作れるようになるには、竜王と同じくらい生きねばダメらしい。
「では、あの時にお前たちを守ってくれていた、ミサキの一番の友を呼ぼうか」
竜王は滝の近くまで歩きながら転位した。その巨大な竜の姿で滝に向かって大きな吠え声を出す。
しばらくすると、水の壁の向こうに小さな影が見えた。それは水の壁をくぐって、こちらへと入ってきた。
雌竜を見た三人は息を呑んだ。竜としては、随分と小柄なほうだろう。恐らく、竜になった大輝の半分もない。ロゼリオより二回り大きいくらいしかないのだ。
薄い桃色の体躯をしており、瞳は優しい茶色。ただ、その体には無数に走る古い傷跡、そして頭の上にある二つの紅色の角は片方が完全に折れて、もう片方も半分しか無い状態だったからだ。
雌竜は床に足を付け、ゆっくりと変位した。年の頃は十代後半に見える。小柄で華奢な、薄い桃色の髪は柔らかく波打っている。柔らかなピンク色の唇に、長い睫に白い肌。ただ、腕の皮膚は焼け跡でひきつり、体の至る所に切り傷の醜い跡が残されている。綺麗だが、可愛らしい顔の頬にもうっすらだが傷が残っている。
彼女の優しげな茶色の瞳が、大輝と美雨を見つめた。
「おかえりなさい。私の大好きなミサキの卵たち…」
その整った顔が歪む。
「守れなくって、ごめんね…」
美雨はたまらず駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。竜なのだから、自分よりもずっとずっと年上だろう。しかし、見た目では遥かに年下に見えるこの雌竜をそのままにはしておけなかった。
「ありがとう、こんなになってまで、お母さんを守ってくれて。私たちを守ってくれて…」
「…うん、おかえりなさい」
華奢な雌竜はの小さな声は、確かに美雨と大輝の耳に届いた。
雌竜を抱きしめる美雨と、傍らに立つ大輝の視線が合い、頷き合って一緒に口を開いた。
「「ただいま」」
帰れる場所があるというのは、とても素敵なことですね。
次話、ロゼリオ合流、竜の里滞在二日目。