58 見返りを求めていい存在
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「ごめんなさい、ちょっと寝てないから、疲れちゃったみたいで。少し、休むね」
美雨は何か言いたげな竜王とは視線を合わせず、かろうじてそれだけを伝えて二階へあがり、寝室の扉を閉めてその場にへたり込んだ。
涙なんか出ないくらい、とても混乱していた。
ドクドクと、普段は聞こえない大きさで自分の脈打つ音が聞こえ、何も聞きたくなくてそっと耳を塞いだ。
自分が人間ではなかったこともショックだった。
しかし、そんなことよりも死んでしまった母のことを思うと苦しくなるほど胸が痛んだ。
心の底のどこかで男性を信じることができなかったのはもちろん、元恋人の存在が大きい。しかし、『母を置いて行った最低最悪な父』という前提があったからだ。
今の竜王の話を聞くと、自分が母にとっていた態度は最低だったと思う。
母は美雨に父親の話をしなかったのではなく、美雨が嫌がっているからしないようにしたのだろう。母本人には何も聞かずに、嫌でも入ってくる周りの噂話を鵜呑みにし、想像して。それだけで拒絶していたのだ。
大好きな人の話なら、誰だって話したい。ましてや自分の娘にならどんな人だったよ、こんな所があってね、と笑い合いたかったに違いないのに、母は何も語ることはなかった。
そして時が経ち、色々なことが分かる年の頃には話すきっかけも、この世界のことだって言えなくなっていたに違いない。いや、言われても笑っていたかもしれない。
母は最愛の人や、優しいたくさんの家族と離されて、自分と弟を守るためにもう帰らないと決めた世界で、必死に闘ってくれていたのに。
「お母さん、ごめんね…」
ポツリ、と零した言葉と同時に涙があふれた。次々に頬を伝う涙は止まらない。
「ふふ…今更、謝っても、もう聞こえないのにね…」
うちにはお母さんとばあちゃんと私と弟しかいない。私が一番しっかりして、がんばって。お母さんたちを守ってあげないと。そう思っていたのに。全てが無駄だったと思うほど愚かではないが、間違った方向に頑張っていた所の方が多かったような気がする。
そんなことより、もっと母と向き合い話せばよかったのだ。とても簡単なことだったのに。
カーテンを閉めたままだったが、朝日が雪に反射しているのだろう。薄暗いが、だいぶ明るい。
一階で、ドアをたたく音と、アルフレドの声が聞こえた。
まだ赤新月の陣を張ってあるから入ることができないのだ。竜王がドアを開けてくれたのだろう。
何か少し話をしていたようだったが、足音がゆっくりと螺旋階段を上がってくるのが聞こえた。
あふれる涙が止まった。彼が来てくれて嬉しいけれど、少し怖い。
廊下を通り、寝室の扉の前で足音は止まり、扉を背に座り込んでいた美雨にコンコン、というノックの振動が伝わった。
「ミュウ、入るぞ」
入っても良いかではなく、入るぞと彼が言ったということは、話を聞いたのだろう。
彼は、人間ではないかもしれない私のことをどこまで知っているのか。美雨は静かに目を閉じ、息を深く吸って、吐きだした。
返事を待つつもりは無かったらしい。ガチャリ、と音がして内開きのドアが美雨の背に当たる。
「ミュウ、そこをどいて。オレも中に入れてくれないか」
優しいアルフレドの声に止まっていたはずの涙がまたポロリ、と零れた。
美雨は目元を拭って立ち上がり、そっと奥に移動してベッドに腰掛けた。アルフレドも部屋に入ってきて後ろ手にガチャリとドアを閉めた。
ベッドに腰掛ける美雨の隣にアルフレドが隙間なく腰かけるとギシリとベッドは大きく沈んだ。
「ミュウ、オレを見るんだ」
美雨は顔を上げたが、アルフレドと視線を合わせることができなかった。知らなかったこととは言え、彼は人間だと思って私を妻にしてくれたのだ。どう言えばいいのか分からなかった。
そんな彼女の頬を優しく両手て包み込み、アルフレドはグイッっと自分の方に無理やり向けた。冷たい手だった。急いで帰ってきてくれたのだろう。
美雨の涙に濡れたまつ毛が戸惑うように瞬きを繰り返す。その漆黒の瞳を深い菫色の瞳はじっと見透かすように見つめる。
「貴女は、小人の私を愛してくれた。それは、オレが元の姿に戻れることが前提だったのか?」
思っていたことと全然違うことを言われ、美雨は戸惑ったが反論する。
「そんなわけ、ない。小さいままでも私はアルフがいい。アルフだから、好きになったんだよ」
アルフレドは嬉しそうに微笑み、両手で包んだままの美雨の唇に優しいキスをした。
「そこまで思ってくれていたとは知らなかったな。それならば、オレもそうなのだとなんで信じられない?」
言われて、美雨は目を瞠った。そんなこと、思ってもいなかった。
「貴女の見返りを求めない部分は美徳だけれど、オレにだけは求めてくれないか。オレが何のために貴女と結婚したと思っている」
「…うん。ごめんね。私、アルフにすごく失礼なこと思ってた。一緒に、ずっと一緒にいてね」
アルフレドは優しく笑い、またキスをする。今度は少し熱のこもったキスだった。抱きしめてくれるアルフレドの腕も体もとても冷たい。体を温める間もなく上がってきてくれたのだ。自分の温もりが少しでも移ればいいと思った。
「オレは、ミュウが巨人サイズの頃から好きだからな。今更、竜だろうがなんだろうが言われても、ずっとそばに置いてもらう予定なのだから、逃げられると思うなよ」
おどけて言う彼に、やっと美雨が笑う。笑った拍子にぽろりと涙が零れてしまったけれど。これは仕方がないのだ。
「…うん。アルフ、ありがとう」
ますます明るくなってきた室内で、今度は美雨からアルフレドへキスを贈った。
昔の意固地な子どもじゃなくって。
今の状態の自分と母で話がしたかった。もう叶うことはないけれど。きっと、お互いの気持ちのよく分かる、素敵な母子になれたのにと美雨は思った。
なかなか全てがうまくなんていきませんよね。
次話、父と娘。