50 白銀の竜とパン
白樺の並木道への細い道は今は跡形もない。白銀の世界を美雨は進んでいた。
いつもなら五分十分ほどで済む道を一時間弱いくらいかけて進むと、白銀の中に、それすらも霞んでしまいそうなくらい白く、美しい生き物が体を横たえていた。
「…綺麗…」
大きさはロゼリオと比べ物にならないくらい大きい。立ち上がったら、二階建てのこじんまりとした自身の家の窓から目が覗きそうなくらい大きな生き物だった。
「竜に見えるけど…話しかけても大丈夫、かな?」
この二か月で、あらかたこちらの世界の勉強をした。雪に埋もれるようになってからはそれくらいしかすることがなかったからだ。もちろん先生はアルフレドだ。
『竜は人の言葉を解すし、しゃべることもできる。魔獣や人間とは全く違う次元の生き物だ。正直、その生態はよく知られてはいないが、怒りを買えば災厄を引き起こす』
そうだ。確か、プライドが高いんだった。アルフレドの言葉を思い出して美雨は身を引き締める。
『人と竜の姿を持ち、必要に応じて姿を変える。竜の里から出る様なやつは早々いないから、滅多に出会うことはない。人里に現れるような奴は、よほどの変わり者か。人間好きのやっぱり変わり者だな』
アルフの言葉を思い出し、変り者の竜なのだろうかと思いながら観察する。真っ白な体躯。頭からは短い角が一対生えている。その角も真っ白で美しかった。同じく真っ白な翼の付け根に槍のようなものが刺さったままで、赤く染まっているのに気付いて美雨は身震いした。
まるで背中から刺されたような…でも、空を飛ぶ竜にどうやって刺せるのだろうか。
「ねえ、怪我をしてるの? 生きてる? 」
美雨の呼びかけに返事は無い。ただ、息はあるようで、その大きな背はゆっくりと上下している。
「良かったら、怪我の手当をさせてもらいたいのだけど…聞こえないかな」
どうしよう。美雨が思い悩んでいると…。
「どうした、人間の娘…私のウロコが欲しいのか。それともヒゲか? 牙か? 角が欲しいのか…?」
何もかも疲れた、そんな調子の低い声が聞こえて美雨は慌てて頭を上げた。
竜は瞳を開けてこちらを見ていた。緑色の、春の大地を思わせる自然の力に満ちた色だ。
「ううん、あなたの言ったものは全部いらないよ。かわいそうに…翼、痛いでしょう…」
「これくらい、大したことはないが、返しが出ているので抜くことができぬ」
彼の長い首をもってしても届かない箇所に刺さった槍は、先端に返しが付いており、それが肉に食い込んでいて取れないのだという。
無理に抜こうとしてあちこちにこすり付けたりしていたら傷はひどくなり、ますます深く刺さってしまった。
他の竜に抜いてもらおうにも、こんなみっともない姿は見られたくないし。近くに住まう、息子にコッソリ抜いてもらおうとこんな北方まで飛んできたらしいが、槍には麻痺毒でも塗ってあったようで体に力が入らなくなったのだという。
自分で抜こうとしてもダメだったのだ。確実に竜より力の弱い美雨がこのまま抜こうとしてもますます竜を傷つけてしまうだけだろう。
「夕方になったら、私の夫が帰ってくるの。彼は騎士をしているからきっと抜く方法が分かるはず」
「騎士、か。お前は騎士の妻なのだな」
竜は、不思議そうに首を傾げた。
「なぜ、このような辺鄙な場所に暮らしておるのだ? もっと町中に暮らせば便利だろうに。ヒトは賑やかに暮らしたいのではないか?」
特にお前のような年若い娘ならば特に、と言われて美雨は苦笑いを浮かべた。
「私はそんなに若くないの。それに、自然の中でのんびり暮らすほうが性に合ってるんだ」
その返事に、竜は不思議そうだったがとりあえずは納得したらしい。
「これ、良かったら食べて。貴方にはとても少ないかもしれないけれど」
そう言ってすっかり冷たくなったパンとベーコンを取り出すと、竜は大きな口を開けて笑った。並んだ鋭い牙が白く光った。こんな所まで真っ白なんだなと美雨は感心する。
「ははは! お前は変わっているな。私に人間の食い物を進めたヤツはお前で二人目…いや、三人目だな」
何が笑いのツボに入ったのかはよく分からないが、美雨は彼のお気に召したらしい。
ひとしきり笑ったあと、竜は頭を垂れた。
「礼を言う。だが、オレは肉は食わないのでパンだけ頂こうか」
「あ、肉食じゃないんだ。ごめんね」
ロゼリオにしろ、ジークにしろ、この世界の肉食獣に見える生き物は美雨の予想をことごとく裏切ってくれる。
「本来は木の実や草、花の蜜を食べて生活している」
ほら、また予想外だった。花の蜜とかかわいいと美雨は心の中で呟く。この立派な竜にかわいいと言っては失礼だと思ったからだ。
「私は大丈夫だ。だが、この槍は翼を動かすたびに激痛が走るので、抜いては欲しい。その痛みのせいで人の姿を取る集中が阻害されてな…そなたの夫が戻ったら申し訳ないが、抜いてもらえるよう伝えてくれないだろうか」
「うん。アルフならきっと良いようにしてくれると思う」
「ありがとう、人間の娘。これからまた吹雪となる。急いで自分の棲家に戻るのだ」
美雨は少し悩んだが、小さな自分がここに居てもこれ以上何もできないと判断した。竜はとても強い生き物だと聞いているし、きっと大丈夫だろう。
「パンだけでも食べる?」
「ああ。頂こう。感謝する」
パンをどうしようか悩んで、鋭い牙が覗く口元に差し出すと、竜は少し驚いたように緑の瞳をパチパチと動かし、次いで嬉しそうに細めて大きく口を開けた。美雨はその口にパンを放り込むと美味しそうに咀嚼する。
「ほら、早く行け。私ならば大丈夫だ。もう吹雪がやってくるぞ」
その言葉に美雨は頷き、自分の家を目指して元来た道を戻り始めたのだった。
お肉は食べませんが、バターはへっちゃらみたいです。
次話、アルフレドの帰宅です。




