36 覚めた夢と、夜明け前
弟はただ旅をしていたわけではなく、仕事も探してきたのだという。
海外に本社があって行き来することになると言っていた。
大輝が帰ってきたことを彼に電話すると、電話先の彼は泣きながら喜んでくれた。
彼にとっても弟のようなものだったから、帰ってきて良かったと。
その後も美雨はアパートに一人で暮らした。
時々訪ねてくる大輝と茜の二人と、彼が時々訪れる毎日だった。
半年に一度ほどのペースで実家に帰る彼は、必ず美雨の家にも泊まった。
美雨と彼は二十二歳になっていた。
彼は職を転々としており、まだ夢を追っていた。
美雨は特に文句を言うでもなく、一緒にがんばっていこうと思っていた。まだ若いのだ。続けていれば叶う可能性だってある。
少し離れてはいるが、お互い忙しいようだし、こうやって半年に一回は会っている。
寂しくないといえば嘘になるが、せっかく就いた仕事を放って彼の元へ走るなんて愚かなことは美雨はしたくなかった。
彼が帰ってこれる場所になりたい。そう思っていたのだ。
それから半年後の六月の金曜の夜に、彼から美雨に連絡があった。
「美雨ちゃん、大事な話があるんだけど……今から行ってもいい?」
いつもと違う態度と時期外れの訪問に美雨は不思議に思ったが、それでも会えるのは久しぶりで嬉しかったから了承した。
アパートに訪れた彼は玄関から上がらなかった。
代わりに、小さな声でぽつぽつと美雨に告げた。
「ごめん。オレ、向こうで彼女ができてて、子どもが……できたんだ」
最初は、意味が分からなかった。
頭の中で反芻して、涙よりも先に疑問が浮かんだ。
「え、待って。私がいたのに、彼女ができたって……私は、いつからタカくんの彼女じゃなくなってた、の?」
答えは無く、ただ彼はごめんと繰り返すだけだった。
それからのことを、美雨はあまり覚えていない。
彼が夢は諦めて仕事をこちらで探すこと。
その人と結婚するので実家に報告に来ていたことを話していたけれど、美雨の頭には入って来なかった。
いつ彼が帰ったのかもあんまり覚えていない。
ただ、男なんてそんなものなのだと。信じた自分が悪い、なんであの時に一緒に暮らすって言わなかったんだろうと、とりとめのない考えが巡るだけだった。
それに、どう考えたってもう元には戻れないし、戻ったとしても幸せになれっこないのも分かっていた。
気が付けば部屋は真っ暗で、少しだけ開いたままのドアからは廊下の明かりが入り込み、玄関で膝を抱えて座り込んでいた美雨を照らした。
折りしも、土曜の昼から茜が遊びに来る予定だった。
前日は必ず予定を確認してくる美雨なのに、連絡がなく、返事のない美雨を心配してアパートまで来ていたのだった。部屋は真っ暗、電話は出ない。
でも駐車場に車はあったので部屋まで上がっていくと鍵どころか、扉が小さく開いている。
重たい扉を恐る恐る開いて……そこで茜は美雨を見つけたのだ。
あまりにひどい状態だった美雨を見て、茜は大輝に連絡を取ってみた。
ちょうど帰ってきていた彼は美雨のアパートに向かっていたので、大輝もすぐに駆けつけてくれたのだった。
結局の所、子どもの話は、都会でできた彼女の虚言だった。
彼女もまた、彼にとって自分は二番目だということを知って悔しかったのだと言う。
気が済んだ彼女は、さっさと一人で飛行機に乗って去っていったそうだ。
一人になった彼は、こともあろうに大輝に連絡を取った。
当時の大輝は、美雨が心配だったので頻繁に帰ってきていたので連絡を取るのは容易かった。
謝罪と、美雨とまたやり直したい旨を大輝に相談するつもりだったらしい。
「オレは、あんたが兄ちゃんになってくれるんだと、ずっと思っていたよ……。もう、二度と、その顔を姉ちゃんに見せるな。連絡も絶対に取るな。次に会ったら、何をするか分からないからな」
何故、やり直せると思ったのか大輝には理解不能だったし、何より彼は美雨と大輝の両方を裏切っていたのだから、その答えは当然だった。
その数か月後、美雨の元恋人はパン屋に現れたそうだ。美雨がバイトを辞めたことはとっくの昔に知っているくせに、何かを探しているような顔をしてパン屋をきょろきょろとしていた。穏やかだった青春でも探していたのかもしれない。
実家に帰った際に、パン屋に行った茜により、怒りの説明を受けていた店長夫人は彼を追い出し、もう二度と顔を見せないでほしいと言ったそうだ。
***
「美雨! 大丈夫!? 美雨ってば!」
茜の声と揺さぶられる体に美雨ははっと目を覚ました。
辺りはほのかに明るいが、起きるには早すぎる時間だ。
「大丈夫? すっごいうなされてたけど」
「うん……大丈夫。ちょっと、なんか変な夢を見てた気がするけど」
夢を見ながら泣いていたのだろうか? 美雨は滲んだ涙を拭う。
「今日、出発だから緊張してるのかもね……」
茜が慰めるように肩をたたいてくれた。
「うん。でも、緊張半分、嬉しさ半分なんだよ」
「分かってる分かってる。あんた、“アルフ”にぞっこんだもんねぇ」
茜のアパートに共に暮らす間にアルフレドのことを美雨はたくさん話した。
ただの惚気であるそれを、茜は嬉しそうに聞いてくれた。
「ちゃんと、幸せになりなよ」
「うん。今度は、手をしっかり握っておくね」
「……私のことも、たまに思い出しなよ」
「忘れるはず、ないよ。茜ちゃん。大好きだもん」
街もまだ眠っている静かな早朝。
茜は小さな声で「私だって大好きだし」と呟いて毛布を頭から被って、二度寝をした。
美雨ももう少し眠ることにして、再び横になった。
次に目を覚ましたら、世界を越えて、大好きな彼に会いに行こう。
きっと、「ミュウ、いらっしゃい、久しぶり」って優しく言ってくれるはずだから。
人によって辛さはそれぞれ異なります。彼もまた、都会でちやほやされていても……孤独だったのでしょうね。
次話は、美雨、異世界へ向かう。




