35 空っぽのアパートと悪夢
長めで重いです。早朝に投稿するには憚られたので、いつもより時間を早めて、夜中にこっそり二話連続投稿しておきます。
「わー、この部屋って、こんなに広かったんだ」
何も置くものがなくなった部屋は随分と広く、ここで生活していたのが夢のようだった。
窓も床も壁も磨き上げた。あとは、管理会社さんがチェックに来て終了だ。
結局、あのまま茜のアパートへ身を寄せた。昼間にこちらへ出かけてアパートの片づけや、車の処分、駐車場の解約等の諸々をこの一週間で順調に進めていった。
随分と伸びてしまった髪は地毛の部分に合わせて黒く染めてカットだけをした。あちらに行ったら染めることはできるか分からないし、伸びて汚い状態になるのは嫌だったからだ。
残っている電気代等の引き落としの金額も問題なく口座に入っているし、万が一アパートの管理会社から連絡があっても茜が受けてくれることになった。
茶色のプラスチックの鎖はレンタル倉庫に入れておくことにした。もう必要のないものだけれど、この部屋を暮らしやすく工夫した大切な思い出の品だ。
夜は茜のアパートへ電車で戻り、夕ご飯の支度をする。食費は美雨が持つと申し出た。
夜は帰ってきた茜と一緒に、異世界へ持っていく物をキャリーバッグに詰めた。
とりあえず、あちらの季節を聞くのを忘れてしまったので、半袖と暖かなコートも入れておく。
茜が座標がズレた時のことを考えたことも良いと言って、栄養補助食品と飲み水のペットボトルを一本詰め込み、鰹節と干しシイタケと小さな醤油と、更には少量の米まで詰め込まれてお母さんかなと美雨は思った。
もう、何もすることはない。あとはアパートの管理会社の人を待つのみだ。
「明日、大輝が来るんだね」
広い部屋、風通しがすっかり良くなった自室の中で呟いた美雨の言葉は誰にも届かず、ゆっくりと空気に溶けていった。
***
茜はその夜、十一時半に帰宅した。明日の美雨の帰還に備えて、きちんとお休みを奪い取ってきたので帰りが遅くなったのだろう。
とりあえずご飯を食べて、少し昔話をして。深夜番組を見てからいつも通り眠りについた。
明日は異世界へ行くという期待と不安からか、寝入りが悪く何度も寝返りを打っていたが、いつの間にか美雨は眠っていた。
***
彼は、近くの集落に住んでいた。
美雨の地域において同い年の子どもはかなり貴重だったから、幼い頃からよく一緒に遊んでいた。
母親しかいない美雨は、よくほかの男子にいじめられた。そんな時でも、彼だけは美雨に優しかった。
「美雨ちゃん、泣かないで。一緒に帰ろ」
「うん。お母さんがまた心配する……」
小学校に上がって少しすると彼の両親は離婚し、彼は母親に引き取られていってしまった。
美雨は悲しかったが、私が同じように、今度は大輝を守らないとと決意を新たにしたものだった。
中学に上がり、美雨は受験対策で冬の間だけ塾に通うことになる。その時に彼と再会したのだった。
「美雨ちゃん? 久しぶり」
最初は誰だろうと思った。話しているうちに思い出し、なんだかくすぐったい気持ちになった。
その後、図書館でまた再会し、お互いの志望校が同じだと知り、合格発表の後に付き合うことになった。
告白したのは彼からで、美雨はとても驚いたけれど嬉しかったのを覚えている。
茜とは高校が別だったが、それでも三人で一緒に遊んだり、美雨のバイト先に彼はお迎えに来てくれたりもした。
店長や奥さん、他のバイトの子に冷やかされながらも美雨は幸せだった。
高校生になった周囲の友人たちは三か月でくっついたり、別れたりしていたのだから、一年以上付き合っている美雨たちは長い方だ。『夫婦』と冗談交じりに言われるようになっていた。
そんな二人に変化はゆっくりと訪れた。
高校二年の夏に、彼は友人に誘われてバンドを始めたのだ。担当はベースで、頑張り屋で明るい彼はめきめきと腕を上げる。
学園祭に、時々はライブハウスにも出入りするようになったのだが……美雨はパン屋でバイトをしていたのでライブを見に行けるはずもなく、彼がどんなことをしているのかはよく分かっていなかった。
「ミュウちゃん、今日もメロンパンがお昼ご飯なんだ」
「うん。あとは食パンもあるよ」
「え、それって半斤あんじゃん。あはは、それ全部食べるの?」
「タカくんも食べる?」
「いや、僕は食パン丸かじりはちょっと……」
「あ、そういうと思って、ちゃんと小さいジャムも持ってきたんだよ」
「……美雨ちゃん……」
彼がどんなに女の子にもてようとも、見ているのは美雨だけだった。
そんな彼は男子にも友人が多く、そんな彼の彼女である美雨に手を出そうとする者もいない。
二人の高校生活は特に波風なく過ぎ、美雨は地元の短大へ。彼はバンド仲間と共に東京の専門学校へと進学した。
「オレさ、バンドが成功したらこっちに家を建てて美雨と暮らす。こっちを拠点にして仕事の時だけ上京する」
彼は夢に浮かされたようによく美雨に話してくれた。
現実はそんなに甘くないだろうとは思っていたが、彼らのバンドは東京でもある程度人気があるらしく、もしかしたらそうなるかも。
でも、失敗したって私が彼を支えられるよう頑張って就職しなきゃなと、美雨はいつも考えていた。
美雨が短大へ入った夏休み。バイトをしている美雨の元へ母が倒れたと連絡が入った。
長年の無理がたたって、母の体はもはやボロボロだったそうだ。
母の左手の薬指にいつも輝いていた指輪がブカブカになり、転がり落ちるようになったので、美雨はチェーンを買ってきてそれに通して母の首に掛けてやった。
初めて触れた指輪の内側には、小さな深い青色の宝石が埋め込まれていたのをその時に初めて知った。
手首もやせ細り、美雨の手を引いてくれた柔らかく温かい大好きな手は、骨ばって常に冷えた手になってしまった。
毎日、大輝と美雨が交代でお見舞いに行き、母と話をした。
もう声も小さく、聞き取りづらい。そんな母がある日、大輝の手を取って嬉しそうに微笑んだのだ。
「ねえ、ハルト。もうすぐ生まれるわね。私と貴方の大切な、宝物……」
美雨は正直、ぞっとした。
母は何を言っているのだろう。何を見ているのだろう。
二人の子どもがすぐ近くにいるのに、そこから彼女はおかしくなってしまった。
大輝のことをハルトを呼び続け……幸せそうに、息を引き取ったのだった。
パン屋の店長夫妻が手伝い、美雨と大輝は小さな葬式を上げた。喪主は十九歳の美雨が務めた。
夏の台風と重なって、すごい嵐が吹き荒れていた。
パン屋の奥さんが「世界が泣いているみたいだね」と言っていたのが印象深くて覚えている。
美雨の恋人は、この嵐で飛行機が飛べず、帰ってくることはできなかった。
母の指輪は、悩んだ挙句……美雨が預かることにした。
何か文字が刻んであったが、擦れており読み取ることはできない。
全然見知らぬ上に、母に会いに来ることもなかった父が残したものなのだと考えると、母の形見であってもなんだか嫌で。美雨はそれをオルゴールの中にしまいこんだのだった。
母の死は悲しかったが、美雨には大輝がいたし、支えてくれる友達もいた。
それに、いつまでも悲しみに暮れていても仕方がない。
やっとそう思えるようになってきた、正月が明けた頃。
今度は大輝が行方不明になった。
美雨は狂ったようにあちこちを探した。
でも、どんなに探しても大輝は見つからない。
やがて一年が経過し、警察も事件性が見当たらないから、家出かもと申し訳なさそうに言って捜査も打ち切られてしまった。
「オレが、美雨の家族になるから。美雨も東京に来ればいいよ。一緒に暮らそう」
彼はそう言ってくれたが、美雨は大輝のことがどうしても諦めきれなかった。
だいたい短大にだって、まだ在籍しているのだから。そんな無責任なことはできないと思った。
そのことで、彼と彼女は初めて喧嘩をした。
1年が経ち、美雨は大学の近くへと、とうとう故郷を離れて一人暮らしを始めた。
そしてさらに1年が経ち、就職をした美雨のアパートに、大輝はひょっこりと現れた。
今思えば、アパートに直接現れたこの時からおかしかったのだが、混乱と喜びに湧き立つ美雨には気付けなかった。
最初は自分の目が信じられなかったが、それは確かに大輝だった。
失踪した当時の高校の制服を着ていた。
ふわふわの髪の毛、男性にしては低い身長、愛嬌のある笑顔。
「ただいま、みゅーちゃん」
もう二十歳になっていた大輝は、母の死が辛くて旅に出ていたのだと言った。
泣きじゃくる美雨に、少し大きくなった弟は優しく、ごめんねと繰り返したのだった。
離れている間も時間はそれぞれ、進むものですね。
次話で、美雨の過去話は終わりです。




