33 一人きりのアパートと茶色の鎖
ギャルに対して差別的かもしれない表現があります。気を付けてください。
また、退職するときは早めにお知らせして円満退社されることを推奨します。
「じゃ、姉ちゃん。また一か月後に実家でなー」
「ミュウ、待っている。寒くなってきたから、体には気を付けて」
「うん。二人ともありがとう。またね」
手を振る大輝と、優しく微笑み片手を上げるアルフレド。
大輝はアルフレドの背中を引っ張り、どこかへ引き込むような動きをした。その刹那、二人の姿はふっと掻き消える。
先程までは三人もいて狭く感じていた部屋は急に広くなり、静かになった。
下の道路を走る車の音がはっきりと聞こえてくる。
美雨は胸の前で右手をぎゅっと握りしめた。
これは、次へ進む為のお別れなのだから。
すべきことはたくさんある。涙は次に会える時までとっておこうと思った。
それでも情けなく滲む視界の端には、白いテーブルから下がるプラスチック製の茶色の鎖が揺れていた。
***
美雨は次の日の月曜日、金曜日に休んだことのお詫びと、退職願いを持って上司に相談した。
上司はとても驚いていたが、美雨が結婚することと、彼が海外に居るので引っ越さないといけないこと等を説明すると喜び、そしてとても心配してくれた。
準備があって大変だろうという配慮もしてくれて、引き継ぎが終わったら辞めれるよう上の方にも取り合ってくれたので、美雨はあと半月だけ勤めればよいこととなった。
短大を卒業して、初めて入った会社だった。お人好しすぎてちょっと心配な独身四十五歳の上司、高卒で入ってきた礼儀正しいけどギャルの後輩に、キャンプが大好きな同僚。いろいろな人がいる会社だった。
半月の間、片づけや身の回りの整理整頓、そして異世界へ行ったときに困らないように料理の作り方も勉強した。
料理上手になれるホットケーキミックスや、綺麗な比率でミックスしてあるタレや調味料なんて無いだろう。料理はある程度できるが、それはこの世界での話なのだから。
半月が過ぎて、最後の残業を終えた美雨の所に、後輩が目を真っ赤にして花束を持ってきた。くるりとカールしたつけまつげが取れそうな程に目を擦ったようで、なんだか可笑しい。いつもは完璧メイクなのに。
「平野さん、お花ありがとう。綺麗な花束だね」
「高島さん、今までありがとうございました……うわああーん!やっぱり辞めるのやめましょうよぉぉ!」
大きな声で泣きじゃくる後輩を優しく抱きしめ、背中をとんとんと叩いてやる。
入った頃は、お茶の入れ方どころか、お湯の沸かし方さえ知らないとんでもギャルだったが、今はおいしいお茶を入れられるようになった。美雨が初めて受け持った新入社員だ。美雨の目にもうっすら涙が光っていた。
***
帰宅し、駐車場からアパートへの道を歩く美雨。
その手には先ほど渡された大きな花束と、キラキラのラメとラインストーンでごてごてに飾られたメッセージカードが添えられている。このメッセージカードはレンタル倉庫の中に大事にしまっておこうと思う。
空には、少し太めの三日月が浮かんでいる。
アルフレドが帰ってからもう三週間が過ぎた。
小さな彼がこの世界へやってきた新月が過ぎ、そして元の姿に戻った満月が過ぎ、彼か帰った後も何事もなく新月が来た。そしてまた月はゆっくりと満月へ向かって満ちていっている。
二人で歩いた道を一人で歩いていると、時々夢だったんじゃないかと思う時がある。
でも、実際に美雨の身に起きたことで。この草むらで夜行性じゃないはずのカラスを見つけて走り出した時から、美雨の運命も走り出したのだろう。
アパートの階段を上り、バッグから鍵を取り出す。付けた小さな鈴がチリンと鳴る。
この繰り返した日常も、今日で終わりだ。これから半月の間にすべてを終えなくては。
家に入ると当然電気は付いていないし、『おかえり、ミュウ、お疲れ様』という声も当然聞こえてはこない。
小人が生活できるようにと施した茶色のプラスチックの鎖はまだあちこちに下がっている。夢ではなかったことの大切な証明だからだ。
美雨はそのまま靴を脱いで上がり、スーツのままだったが、ベッドにあおむけに転がり大きく伸びをして脱力し、呟いた。
「アルフ、終わったよ。お仕事。あとはもう楽しいことだけ考えて、いいんだよね……」
もちろん答えは無かったが、お疲れ様と聞こえたような気がした。
玄関にだけ電気がついているので、部屋の天井は薄暗い。こうやって考え事をするのが美雨は好きだった。
静かな室内に、スマホの振動する音がする。美雨が画面を開くとメッセージが一件。十年来の親友からだった。忙しい彼女だが、美雨の為に時間を空けることができたらしい。
「現在十三連続勤務中だぜ☆」とメッセージに書いてあり眩暈がした。彼女こそ、職を変えるなりなんなりした方がいい気がする。
彼女が来れるのは明後日ということだった。明日は車を処分する相談が入っていたので丁度良かった。
この小さな古い軽自動車には値が付かなかった。むしろ処分にお金がかかることになってしまった。中古で購入した上に、ずっと乗り続けていたのだから仕方ないと諦めもつく。
晴れた天気のいい日に、美雨は長年の相棒であった軽自動車の姿を写真に収めた。美雨の一番辛い時も、幸せな時も、ずっと共にあった大切な存在だ。
スマホにもたくさん画像があるから、それをきちんと印刷してレンタル倉庫に入れておこうと思う。
明後日、親友に会える。正直に伝えるべきか、会社の人たちに説明した時のようにスマホに入っているアルフレドの写真を見せて外国人と伝えるか。未だに彼女は考えあぐねていた。
考えても考えても答えは出なかったので、とりあえずお風呂に入ろうと彼女は身を起こしたのだった。
落ち込んでいても始まらない。一日一回お風呂、一日三食必ず食べる。
これが、彼女が長い一人暮らしで欠かさずやっている日課であり、生きる術だ。
平野さん、私は好きです。
次話、彼女は友に何を語るのか。友はどうするのか。




