31 金木犀と彼の誓い
「美雨は外海の近くで育ったのだな。水平線が美しい……久しぶりに見たな」
「そうだよ。内海は穏やかで好きだけど、荒い波も見てる分には好きだよ」
狭い車内で、二人そろって海を見ながらパンを食べる。
長年食べていた、懐かしい味がして美雨の頬が緩んだ。
「美味しいな。あの奥さんが作ったと納得するような味がする」
「ね。新しいパン屋さんには無い懐かしい感じだよね」
パリパリで噛み応えのあるバゲットも好きだけど。美雨は時々、あのパン屋さんの少し柔らかいバゲットが無性に食べたくなる。これも一つのおふくろの味と言うやつなのだろうか。
たくさんオマケをしてもらったから美雨は食べきれなかったが、アルフレドがその分を食べてくれたので袋の中は空っぽになった。奥さんも本望だろう。
パンを食べながらたくさんの話をした。
アルフレドの魔獣が『ロゼリオ』という名前なのだと初めて聞いて美雨は少し安心した。
初日のうわごとや、大輝との会話の端々から『ロゼ』を大切に思っている様子だったので、アルフレドに限りそんなことはないはずと思いながらも、誰だろうと少し不安に思っていたからだ。当初はローゼとか、そんな名前の女の子なのかと思っていた。
大丈夫。この人を選んだ自分をもう少し信じてあげよう。
パン屋の奥さんが言っていた美雨の元恋人の話が気になるだろうに、アルフレドは触れなかった。
生真面目な彼らしく、美雨はほっとした。アルフレドを信じることはできるようになった。でも、心に負った傷は、まだ話すには生々しいままだ。過去は過去としてこのまま消化できたらいいと思う。
「はあ、お腹いっぱい。アルフ、だいたい案内したけど……どこか行きたい所あるかな?」
「良かったら……ミュウの実家へ行きたい」
「え、でもあそこ何にもないけど」
「でも、あそこはミュウの住んでいた土地だろう? この世界にはもう来れないだろうから、最後に見ておきたくてな」
アルフレドの言葉に美雨は頷き、車を発進させた。
秋の海は穏やかで、深い青色の空を映していた。
***
窓を少し開いて田舎道を抜けていると、どこからか金木犀の甘やかな香りが漂ってきた。
学校から帰る時に、母と大輝と美雨の三人で散歩したときによく嗅いだ香りだ。
母が亡くなって六年が経つ。段々とおぼろげになっていく記憶の中の母の顔だが、この香りを嗅ぐと夕暮れ時に母を真ん中に美雨と大輝の三人で手をつなぎ歩いたことを鮮やかに思い出す。
夕焼けこやけを、母はよく歌っていた。
金木犀の香りを抜け、再び山道へ入る。
ガタガタと揺れる車だが、前回のように小人のアルフレドを気遣う必要もないので気楽なものだ。
「アルフ、道が悪いから舌を噛まないでね」
「大丈夫だ。小人の時ほど振動はないからな」
前に来たときには金木犀の匂いもしなかった。時間は確実に経過しているのだと思い、ちらりと時計に目を走らせると午後の2時となっていた。
最後に訪れてから二週間が経過し、コスモスの花はだいぶ少なくなってしまっていた。
代わりに、ベンチの近くに残してあった小さな金木犀からは濃い甘い香りがした。ここは山の上にあるから寒い。コスモスが減り、金木犀が盛りを迎えたのだろう。
「だいぶ寂しい風景になっちゃったね」
「ああ。だがやはりここは美しい。空気も澄んでいてこの身が浄化されているような気がするな」
「うん。下の集落より1キロ近く離れた山の中だもん。学校に通うのも一苦労だったんだよ」
バスなんてもちろん通っていなかったから、ひたすら徒歩だ。小学生の頃は登校時だけ出勤する母の車に乗せてもらい、近くの集落で下してもらってそこから大輝と二人で歩いていったものだ。
中学になってからは自転車通学になったが、帰りが少し遅くなると真っ暗で、自転車のライトにキラリと反射する空き缶にびくびくしたものだった。
「何にもない田舎なんだけどね、子どもが少ないから、みんなかわいがってくれたんだよ」
「美雨はともかく、ダイキはかなりのいたずら坊主だったんじゃないか?」
アルフレドは小生意気な男の子を思い浮かべる。口も達者で腕っぷしもある。そして要領はいい子どもだったに違いないと思ったが、美雨は苦笑いを浮かべて首を左右に振った。
「ううん。大輝は小さい頃はあんなじゃなかったんだよ。姉ちゃん、姉ちゃんて私の後ろばっかりついて回ってね。低学年だから授業も早く終わるのに、私の授業が終わるまで教室で宿題をして待っているような子だったの」
なのに、中学に上がった頃から何故か姉のことをみゅーちゃんと呼びはじめ、段々とあんなしゃべり方になってしまったのだという。美雨は最初は戸惑ったが、これも大輝だ。悪いことをしているわけではないからと受け入れた。
美雨のまったく預かり知らない所だが、当時の好きな女の子に「姉ちゃん姉ちゃんうるさいんだけど……」と言われた大輝は「みゅーちゃん」と呼ぶことにしたのだ。根本的に解決していなかったわけだから、無論玉砕したことは言うまでもない。
「ふ、ダイキが内気で姉の後ろをついて回っていた、か。陛下にぜひとも教えて差し上げねばな」
アルフレドは人の悪い顔をし、その長い指で自身の顎を撫でた。
「大輝、すっごい怒りそうだよね」
「ああ。ダイキは陛下の前で恰好つけたがりだからな」
「そうなの? でも常に恰好つけたがりのような気もするけど……」
ベンチに座って他愛のない話を続ける。
ただそれだけなのだけれど本当に楽しかった。
「ミュウが来たら、母は特に喜ぶだろうな。女児に恵まれなかったから」
「女の子いないんだ。アルフは何人兄弟なの?」
「五人兄弟の三男だな」
「五人! それは多いね……あ、そっちの世界では普通なのかな」
美雨の言葉にアルフレドは首を横に振った。ネスレディアでも少し多い。だいたいは三人か四人が普通らしい。
女の子がどうしても欲しかったが、五人目の弟が生まれた時点でやっと諦めたそうだ。
「一番上の兄が二十九歳、下が二十五歳、そしてオレが二十三歳、四男が二十一歳、一番下の弟はまだ十四歳だ」
「あ、四男で一回諦めてる……」
「よく言われる」
苦笑いを浮かべるアルフレド。
まだ見ぬアルフレドの家族。うまくやっていけるかは心配な部分もあるが、彼の家族なのだからきっと好きになれるはずだと思う。
アルフレドがふと立ち上がり、ベンチに座る美雨の前に立ち、跪いた。驚いた美雨も立ち上がろうとしたがアルフレドが手を伸ばし膝に手を置いて押える。
「そのままで、聞いてくれ」
深い菫色の瞳を見下ろすのは久しぶりで。なんだか少し緊張した。
ポケットから小さいままの剣を取り出し、美雨の手のひらに乗せる。そしてその手のひらに大きな自身の手を重ね、そっと包み込んだ。
「ミュウ……いや、美雨。オレは、貴女を愛している。異界だろうが、どこだろうがこの気持ちは決して変わらない。指輪は、その……美雨がこちらに来るまでに必ず手配しよう。今はこの小さな剣と、アルフレド・フリクセルの名前に誓う。生涯、貴女だけを見つめ、愛し、寄り添うことを」
「ふふ、指輪なんて要らないのに。その言葉だけで十分。私も誓うよ、私の全部をかけて。アルフ、愛してる。少しだけ待たせてしまうけれど、必ずアルフの所へ行くから」
迫る夕闇が辺りをつつみ、金木犀の甘い香りが鼻をくすぐる。
最後の日曜日が、ゆっくりと終わりに近づいていた。
アルフレドは大家族の真ん中っ子でした。彼にもいろいろあったんでしょう。
二人の時間はおしまいです。
次話、彼がお迎えにやってきます。