30 パン屋さんと迫る時間
どこに行くのかは、昨夜二人で話し合って決めた。
今はガタガタと揺れる古い軽自動車に二人で乗っている。
「ミュウの生まれ育った町が見たい」
それが、アルフレドの希望だった。
美雨にとっては楽しかったこともたくさんあったが、それ以上に辛い記憶もたくさんある町でもある。
でも、今の美雨を作った大切な故郷だ。愛する人に願われたら案内したくもなるというものだ。
「でも、うちよりももっと田舎の町だよ? 田んぼと、川と……あとはホームセンターとパチンコ屋しかないんだけど。それで本当に良かったの?」
「ああ。構わない」
夜には大輝が迎えに来ると言っていたから、夕方にはアパートに戻ろうと美雨は言った。しかし、「あいつはどこにでも渡れるのだから構いやしない」とアルフレドは苦々しく言った。
「コンビニは本当に機能的だな。無駄がない。飲み物を取りに歩けば雑誌が目に入るし、飲み物を取って戻ってくる途中に菓子や食べ物が嫌でも目に入ってしまう。恐ろしい店だな」
「アルフは、騎士さんなんだよね? そういうお店とか、治水工事とかそういうの大好きだよね」
美雨は苦笑いを浮かべる。治水工事の歴史を見たいとスマホで検索させられ、結局江戸時代までさかのぼって夢中になっていた先週のアルフレドを思い出したのだ。
ダム発電や、ついでに火山の溶岩ダムを見て、感心しきりで頷いていた。この世界の住民である美雨ですら知らないことを話すアルフレドに面食らったものだ。
「こちらの世界の優れている知識は、なるべく吸収して戻りたい。騎士を引退したら、二人で小さな雑貨屋とかをやるのも楽しそうだな」
「えーと、その頃は私もおばあちゃんだろうから……たばこ屋のおばあちゃん的な感じになるのかあ」
それはそれで楽しそうだと思う。アルフレドといると物の見方が変わって世界も変わる。
「あ、ほら。ここのパン屋さんで学生の頃にバイトしてたの」
「ほう。美味しいのか?」
「もう一緒にバイトしてた子たちも居ないだろうけど……ちょっと寄ってみる?」
このお店のメロンパンが大好きだった。小さい頃に母親がたまに連れて行ってくれて、高校生になった美雨がバイト先に選んだのがこのパン屋さんだった。
「あんらー、美雨ちゃんじゃないの」
パン屋さんに入ると思いのほか、すぐに声がかかった。
店長の奥さんだ。いつもは店の奥に居てレジに出ていることなんて無かったから油断した。
「あ。古谷さん! ご無沙汰してます」
「本当、久しぶりねぇ。大輝くんは元気にしているのかい?」
「はい。相変わらずとても元気そうです」
元気すぎるくらい元気ですと内心で付け足しておく。
「お母さんのこともあった直後だったし、あの時は本当に心配したねぇ」
人の好い奥さんの目は潤んでいた。
美雨のことを小さい時から知り、決して裕福ではない美雨の家族に時々パンをおまけだと言って包んでくれた、とても気前のいい人だ。
「そちらのイケメン君は、美雨ちゃんの……彼氏なの?」
「……かっ、彼というか、その……」
「こんにちは、奥さん。オレは彼女の婚約者です」
「あらあらまぁまあ」
「こっ……! こっ……!?」
婚約者という単語とアルフレドの洗練された物腰に、奥さんはぽっと頬を染め、美雨は激しく混乱した。
確かに、一緒にずっと生きていくのだから今の状態は婚約状態であり、間違ってはいないのだが。
頬を染めてぽっとしていた奥さんだったが、ふと我に返りアルフレドをじろじろと検分する。
「彼氏くん、随分と男前だけど……美雨ちゃんを泣かせたら承知しないからね!」
「あああ……古谷さん、大丈夫だから、アルフは彼とは違うから」
「そうかい? ならいいんだけど。あのロクデナシはお店に出入り禁止にしてやったんだよ」
「そ、そうなんですか。一体いつの間に……」
「美雨ちゃんが、もうここをやめて、働いてる頃にね。ふらりとやってきて探してる風だったから頭に来てね」
奥さんが段々ヒートアップしてきたので美雨は慌てて彼女の手を取る。その手はパンのように柔らかで温かい。
「古谷さん、私はもう大丈夫だから。いろいろと心配をかけちゃったけどもう大丈夫だよ」
「そうかい。なら良かった。彼氏くんも、婚約者だというのなら指輪の一つでもプレゼントしてやんなよ」
「指輪?」
「ふ、ふふふ古谷さん!」
奥さんの余計なおせっかいに美雨は慌てる。
何故指輪を贈るのかと不思議そうな表情のアルフレドを見て、奥さんはあきれたような表情をする。
「彼氏くんの国にはエンゲージリングとかは無いのかい?」
「エンゲージリング……それは何に使うものなのですか」
「結婚を申し込む時に、彼女に渡すものだよ。あんた、えらい整ってるけど、どこの国から来たんだい?」
なんだか話が怪しい雲行きになってきたので美雨が口を挟む。
「奥さん、店長はお元気なんですか? 今日はいらっしゃらないみたいですけど」
「ああ。元気だよ。移動販売を始めてね。旦那はそっちにかかりっきりさ」
奥さんが景気が悪いと愚痴をこぼし、美雨とアルフレドはそれに相槌を打ちながらパンを選んで買い、別れを惜しむ奥さんに手を振り店を後にした。
「元気な奥さんだな。ネスレディアを思い出す」
「似てる人でもいるの?」
「ああ、騎士団宿舎の食堂の女性にそっくりだ。……なんというか、その、元気いっぱいな所がな」
「そうなんだ。私も会ってみたい。楽しみだな」
どこの世界でもおばちゃんのパワーは健在なのだ。
「たくさんオマケしてもらっちゃったね。お昼ご飯はこのパンにしよっか。どこか眺めの良いところに行こう」
「美雨は、あの奥さんに大切にされていたのだな」
「小さい頃から通ってたもの。それに、あのおうちには子どもがいないの」
「そうか。ならば美雨は、あの方にとって娘のようなものなのだろうな」
「ふふ、そうだといいな」
アルフレドが車に乗り込み、シートベルトをしっかり締めたのを確認してエンジンをかける。
どこに行こうか少し悩んだが、海の近くまで車を走らせることに決める。
ブレーキを解除し、そっとアクセルを踏む。
ちらりと時計を見ると、間もなく正午になる所だった。
もう、アルフレドと過ごせる時間が半日も残っていないことに気が付かないふりをして、美雨はハンドルを切った。
美雨と元彼は8年の付き合いなので、おばさんとも知り合いです。その話はまた今度。
次は最後の日曜日後半です。