黒猫の言伝て
レイミヤが出ていき、どれぐらいたっただろうか。天井から黒猫が降ってきた。
正確には、庇のわずかな隙間から黒猫が入って来て、物音ひとつたてずに、優雅に着地した。
黒猫は、床に放り出されたままの婚姻承諾書にちらりと目をやり、軽い鼻息を漏らした。
「妹の方が考えなし、ですわね」
「ミア、か?」
黒猫は、可愛らしく首を傾げる。
「今は違う名前で呼ばれてますけど」
そう言って、アリシアのすぐそばまでやって来る。
「アリシア様。このお話、受けるおつもりはありません、わよね?」
「受けるなら、こんなところで縛られてないだろう?」
確認です、と猫はくすりと笑ったように見えた。
「アリシア様は、私がしゃべっても驚かれませんね」
「迷い猫だと、言っていただろう?」
アリシアが当然のように答えると、猫は嬉しそうに髭を揺らした。
「お助けしたいんですけど、私では無理ですし...。シュバルツ様も、ここを突き止めるのに少しお力を使われたようですが、今はできるだけ人であろうとなさってますし...」
「じゃあ、何しに来たんだ?」
聞きようによっては辛辣な言葉だったが、黒猫はそのままに受け止めた。アリシアが、黒猫もミアと同じように接してくれるので。
「言伝てを」
真摯な瞳で猫は言った。
「お前が呼ぶなら、我は参ず...と」
シュバルツがそう言ったことを、忘れず、心に留めて欲しいのだと猫は重ねて言った。
「では、私は、もう行きます」
軽やかに壁を蹴って、庇へ。そこで振り返った黒猫は、
「くれぐれも、無茶はなさいませんよう」
と釘をさして、姿を消した。
黒猫が十分離れたと思われるくらい待って、アリシアは大声を出した。そうして、小屋の戸を開けて入ってきた男に、
「気が変わりました。縄をほどいてください」
と言った。
男は、警戒を解かず、上役らしい外にいる背の高い男に報告しに行った。
レイミヤが外にいる様子はなかった。男達だけで相談し、一人がアリシアに近づいた。
「サインするんだな?」
アリシアはこくんと殊勝に頷いて見せた。
最初に入ってきた男が縄をほどき、もう一人が板切れにのせた婚姻承諾書とペンを差し出した。
さっと見たところ、外に他に人影はなさそうだった。他の男達はレイミヤに付き従って、一旦城に戻ったようにと思われた。
アリシアが動こうとしないので、背の高い方が、
「どうした、早くしろ」
と、急かす。
「...手が痺れて、すぐには書けそうにないわ」
アリシアは、急かした男を見つめて、弱々し気に言った。男は、アリシアに見つめられ、今更ながらにその美しさに射たれたようで、ごくんと唾を飲み込んだ。
「わ、わかった。少しだけ、待ってやろう」
アリシアは、縛られていた両手をほぐすように、しばらく擦り合わせていたが、言いにくそうにしながら、
「できれば、先に...」
と小声で聞いた。
男達は、言いにくそうなアリシアにお手洗いかと察し、
「逃げても無駄だからな」
と言って、立たせた。
小屋の裏手に簡易のお手洗いがあるので、そこへ案内しようとする。
男達と小屋を出たアリシアは、さっと周囲を見渡した。見張りが両脇の二人だけと確認するや、右側の男に体当たりし、体の反動をつけてもう一人を蹴り上げた。
突然の攻撃に怯んだ隙をつき、アリシアは走った。
何度か来た村である。土地勘はある。目指す方向は、木立を抜けた、その先。
瞬間怯んだ男達も、アリシアに追い縋る。
長い間縛られ、じっとしていたアリシアは、予想していたことではあったが、思うように走れない。
それでも、身体に鞭打って、アリシアは走った。
木立を掻い潜る。突然、茂みが途絶える。
「待て、そっちは!」
すぐ後ろで、男の一人が叫んだ。
木立の向こうは切り立つ断崖になっており、その下には、流々と川が流れていた。
アリシアは、差し出された男の手を払いのけ、身を踊らせた。




