第六章 しのぶれど色に出でにけり
第六章 しのぶれど色に出でにけり
権中納言、藤原成親の屋敷はここ連日、不穏な気配を漂わせていた。
主である成親自身も、まさか自分が屋敷の塗籠の前で、おろおろと懇願する日が来るとは思いもしていなかっただろう。
「ええ加減に出て来るんや! ろくに食事も取らへんと、暗い部屋に一日中閉じこもっとったら、病気になってしまう! 母上も心配しているんやぞ!」
ようやく家出先から連れ戻した愛娘が、言いわけひとつせずに塗籠に引きこもり、お転婆も返上して、毎日泣き暮らしているのだから、親としては気が気でないのは当たり前と言えた。
「平維盛のことは忘れるんや! わしがもっとええ婿はんを探したるさかい!」
叱り飛ばそうが、なだめすかそうが、若葉姫は一向に塗籠から出る気配を見せなかった。散々、怒鳴った後、しょんぼりと肩を落として、成親が塗籠の前を離れると、心配顔の兵衛佐が入れ違いに現れた。
「大殿も北の方はんも、ほんまに姫様のことを心配してはりますえ。そろそろお外へ出はったらどうどす?」
「良いのよ。父様のことだから、ここから出たら、またうるさく、そろそろ結婚しろとか、藤原の姫らしくしろとか、うるさく言い出すわ。お説教なんて当分、聞きたくないもの」
元気に言い返す若葉の瞳は、口調に反して悲しげに曇っている。本当は今は誰とも顔を会わせたくない程、落ちこんでいるのだと、兵衛佐は分かっていた。
若葉の気持ちを少しでも引き立てようと、兵衛佐は懐から一通の文を差し出した。
「姫様宛てのお文が、文覚様から届きましたえ」
「お文が?」
表情をいくらか明るくして、若葉は兵衛佐から受け取った。
「お屋敷の門番が、検非違使の知り合いから、うち宛ての文を預かったとか言うて届けてくれたんどす。うち宛てやと言われましたけど、中身は姫様宛てどすえ」
開いてみると、達筆な男文字が連ねてある。一読して若葉は呆れ返った。
『あんたのおかげで、平家の棟梁達の顔が見られた。法皇の顔も拝んだし、後は伊豆の流人、源頼朝の顔を見に行くだけだ。旅費がもったいないので、流罪にしてもらう。機会があれば、いずれまた会おう。あんたの息子の弟子入りの話は気長に待ってやる。必ず男の子を生めよ。さらばだ』
「……何なの、このお文は?」
「それが、文覚はんは法皇様に神護寺再興の強訴をした罪で、伊豆に流罪が決まったそうどす」
それでは、文覚は全てを自分の目論見通りに行ったことになる。なんと破天荒な僧なのだろうと、若葉は物も言えなかった。再び会う機会があるのだろうかと考えながら、若葉は文を文箱にしまいこんだ。
翌日は心配した兄の成経が、若葉の様子をのぞきに来た。
若葉は内心、泉殿の宴で見た少年の話題を出されたらどうしようと、冷や冷やしていた。だが、成経は傷心の妹を気遣ってか、平家一門に関わる話は一切、出さず、宮中の話題など、他愛のない話を繰り返した。
だが、どうしてもこれだけは言っておかねばならないと、成経は若葉に言い聞かせた。
「父上や母上を心配させてはいけないよ。父上はお前が心配で、お仕事にも身が入らないご様子なんだ。お前を案じるあまり、大切なお役目で失態をされては、父上がお可哀想だよ」
優しい兄の叱責に若葉はうなだれた。成経は言いにくそうに尋ねた。
「……お前も維盛殿も一体、何があったんだ? 二人は納得してお別れしたのではないのか? あの桜梅少将が、このところは笛の音色も冴えず、舞の所作は間違えるなど、一体、どうしたことかと、内裏でも噂になっているよ」
「維盛様が!?」
思わず真剣な表情で問い返す若葉に、成経は困り顔になった。
「しのぶれど色に出でにけり、か。維盛殿は苦しい片恋をなさっているのではないかと思うのだけどね。そしてお前も……。もっと自分の気持ちに素直になりなさい」
「でも、兄様、駄目なんです。……私は平家嫌いの父様の娘なんですもの」
成親の平家一門に対する憎悪を、若葉は身をもって知ってしまった。いずれ、成親と平家一門が徹底的に対立する時が来る。それはもはや避けられない運命なのだという予感を、若葉は抱いていた。そんな成親の娘が、平家の棟梁となるべき立場の維盛と結ばれることなどありえない。
悲しげな若葉に、成経はため息をついた。
「法皇様との縁談も破談になったことだし、父上もお前が本当に幸せになれるのであれば、お前の選んだ相手に文句はつけないと思うけれどね。少なくとも今のまま、お前が一人閉じこもって泣き暮らしているくらいならば、父上は清盛殿にだって頭を下げて、婿に来ていただくだろう」
成経は「早く元気におなり」と優しく言って、塗籠を出て行った。
その晩は寝苦しい夜となった。横になる気も起きず、若葉は脇息にもたれて、ぼんやりと成経の言ったことを考えていた。
維盛が自分に苦しい片恋をしていると思うと、皮肉な笑いがこみ上げた。
光源氏と並び称され、通い所には不自由しない維盛が、自分のようなお転婆な姫に、いつまでも想いを残すはずもない。そう思った途端、維盛の優しい笑顔が、時に皮肉交じりに、時に素直に話す、涼やかな声音が、偶然抱きしめられた時の薫りと温もりが蘇った。
思い出に押し潰されそうになって、若葉は脇息にうつ伏した。瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。胸が締めつけられるように苦しかった。
「……維盛様……」
「姫、どうか泣かないでください。若葉姫」
困惑と懇願の入り混じった懐かしい声が耳に入り、若葉はゆっくりと顔を上げた。
灯火にぼんやりと映し出されたのは、狩衣姿の維盛だった。記憶にあるより、少し痩せたようだ。
自分は夢か幻でも見ているのかと、若葉はぼんやり思った。だが、もうどうでも良かった。維盛の姿を目にして、初めて気づく。こんなにも逢いたかったのだと。
「維盛様……!」
脇息から身を起こし、若葉は思い切って維盛の腕の中に飛びこんだ。突然の行動に維盛は驚いたようだったが、そのまま若葉を抱きしめた。柔らかな声が耳元でささやく。
「若葉姫、恥を忍んで、お迎えに上がりました。一緒に小松殿へ戻ってくれますか?」
夢のくせに、すぐ傍に感じる姿形は、まるで生きた維盛そのものだと思いながら、若葉はうなずいた。
「……行くわ。維盛様の傍にいられるのなら、どこへでも行きます。あなたの正体が鬼でも、もののけでもかまわない。いっそとり殺してください」
沈黙が二人の間に落ちた。
「姫、少し落ち着きなさい。僕が鬼やもののけだと、本気で思っておられるのですか?」
若葉は不思議そうに顔を上げた。軽く若葉の頬に触れる仕草も、呆れた口調も、あまりにも現実的だった。
「……だって、もののけでもなければ、どうしてうちの屋敷に……」
言い返しかけて、若葉は思わず声を裏返した。
「維盛様!? 本当に、本物の維盛様なの!?」
にっこりと維盛は微笑んだ。
「お迎えに上がりました、若葉姫」
この場にいるのが本物の維盛だと、初めて気づいた若葉は、思わずその腕の中から逃れようとした。
「……迎えって、私はもう法皇様との結婚話もないし、入内の話だって出ていません。それなのに、どうして……?」
逃がすまいとするように、維盛は若葉を抱きしめる腕の力を強めた。
「姫をお返ししてからずっと苦しかった。何をしても手につかなくて、あなたのことばかり考えていました」
若葉の心臓が跳ね上がった。だが、それを隠そうとすると、かえってきつい言葉が出た。
「……信じられません! 騙していたくせに!」
「姫だって、勝手に僕の名前を使って、結婚を逃れようとしたではありませんか」
即座に答えが返って来る。たじろぐ若葉の手を引いて、維盛は塗籠を出ようとした。
「喧嘩をしている暇はありません。表に牛車を待たせてあります。人に見つからないうちに、姫をお連れしないと、大騒ぎになってしまう」
今にも連れ出されかねない様子に、慌てた若葉はつい本音を口にした。
「だって私は父様の娘です。平家一門と刃を交えたことのある、藤原成親の娘。……きっと父様と清盛様は、いつか再びぶつかります。その時、私がお傍にいたら、維盛様にご迷惑がかかってしまうわ」
「でも、僕は姫に、僕の北の方になって欲しいんです」
きっぱりと言い切ってから、維盛は少しためらってからつけたした。
「……若葉姫が僕を選んでくださるのなら」
若葉は泣きそうな顔で呟いた。
「ずけずけと物を言う姫は大嫌いだっておっしゃったくせに」
「姫こそ。僕のことを最低の性格だと言ったでしょう?」
微笑みながら、維盛は若葉のてのひらに口づけた。
「以前、僕が理想の貴公子でなくても、僕を好いている者はたくさんいると言ってくださった。あの時、本当は尋ねたかった。姫もその中に入っているのかと」
維盛に真剣な瞳を向けられ、ついに若葉は折れた。
「……ええ、私も維盛様が好きです。この先、何があっても、この気持ちは変わりません」
二人は互いの瞳にあるのが同じ気持ちであることを読み取った。自然に手と手が重なり、そっと口づけを交わす。
手を取り合ったまま、二人は塗籠を出た。そこには嬉し泣きをしている兵衛佐と、苦虫を噛み潰した表情の重景が待っていた。若葉の姿を認めると、重景は素早く膝を折った。
「勘違い召されるな。それがしは今でも姫君が嫌いです。……ですが、我が主の北の方となられる方を、いつまでも認めないわけには参りますまい」
「平気よ。時間はたくさんあるんだもの。きっと仲良くなれるわ」
重景はひどく嫌そうな顔つきになったが、それ以上は何も言わなかった。
「さあ、共にいきましょう」
優しい笑顔で維盛がうながす。若葉は幸福な思いで、心の底からうなずいた。
翌日、娘の姿が屋敷内に見えないことを知った成親は、ただちに状況を悟った。至急の使者が書状をもって、成親の屋敷から小松殿へと放たれる。
それはすなわち、平維盛と若葉姫の結婚を、父親として正式に認めるという内容の書状だった。




