第五章 明らかになった真実
第五章 明らかになった真実
居眠りを誘うような穏やかな昼下がり、御簾の奥で若葉は琴をかき鳴らしていた。だが、松風を思わせる洗練された音色も今ひとつ冴えず、時には同じ旋律を幾度も繰り返す。曲の中盤にさしかかったところで、ふいに音が途切れた。おとなしく聴き入っていた兵衛佐と石童丸がハッと顔を上げる。
「……もう我慢できないわ」
「姫様? どないしはったんどす?」
きょとんとする兵衛佐に命じる。
「支度をして。維盛様のお部屋に参ります」
「若君は謹慎中で、どなたともお会いになりません」
部屋の隅から低い声がかかる。若葉は御簾越しに、仏頂面の重景をにらみつけた。このところ機嫌の悪い彼は、常にも増して三白眼だった。
「その言葉はもう聞き飽きたわ。邪魔をしてはいけないと言われるから、お文を差し上げているのに、維盛様はちっともお返事をくださらないし」
「ご自分から返事を要求されるとは、貴族の姫君にあるまじきお振る舞いですな」
「お文の返事を出さないのも、無礼に変わりはないでしょう?」
互いに一歩も譲らず、二人は厳しい表情でにらみ合った。
そもそもの始まりは維盛が謹慎中であることを理由に、自分の名代として、重景を若葉の傍仕えに加えたことだった。だが、実際の重景の役割は仕えるというより、監視役だった。若葉の引き起こす突飛な行動によほど懲りたのだろう。維盛は切り札の重景を出したのである。
そして、維盛自身は全く姿を見せなくなってしまった。石童丸が聞いて来た話によると、参内する時以外、維盛は自室へ閉じこもりきりで、屋敷の者も心配しているらしい。重景の不機嫌には、維盛の様子が気になるのに、お転婆姫の傍につききりでいなければいけないという、日頃の鬱憤もこもっているらしかった。
若葉にしてみれば、維盛、資盛が顔を出さなくなり、文覚も行方をくらまして、他人の屋敷で一人、取り残された気持ちになっているところに、天敵のような重景が常に仏頂面で、傍に控えているのでは面白いはずもない。数日は何とか耐えたが、ついに耐えかねたというわけだった。兵衛佐がおろおろと割って入る。
「喧嘩は止めておくれやす。姫様、うちらは小松殿の居候どすえ? 重景はんはうちらが不自由せえへんように、色々と気を遣うてくれてはります。あんまり姫様が好き勝手を言わはったら、重景はんかて困らはりますえ」
「だから、今まで我慢していたわよ。でも、四六時中、見張られて、お庭を見るのも重景の許可がいるなんて、もう嫌! これでは塗籠に入れられていた時と変わらないわ!」
「普通の姫君は庭などのぞかず、滅多にお部屋からも動かれない物です。名目上とは言え、若君の恋人でいらっしゃる姫が、あまり非常識な行動を取られては、屋敷の者にも示しがつきません」
周囲に他の女房がいないのを良いことに、重景も言いたい放題である。泉殿への宴乱入事件以来、若葉に対しては遠慮はいらないという認識を新たにしたようだった。しかし、重景が険しい表情で毎日見張っている上に、若葉の機嫌まで日増しに悪くなっているため、小松殿の女房達が若葉の部屋を敬遠しているとまでは、双方とも気づいていなかった。
「とにかく維盛様に一言、申し上げなければ気が済まないわ」
「姫君のご様子は、それがしがご報告することになっております。全てそれがしにお申しつけください」
「では、今すぐうかがって来てちょうだい。重景をいつまで私の傍仕えにさせておくつもりかとね。そして、毎日、不機嫌な顔で私の監視をさせるくらいなら、本来のお役目に戻して欲しいと伝えて」
「それがしの顔は生まれつきですので、どなたのご命令であろうと変えることはできません。また、若君が姫君の傍仕えをせよと命じられた以上、それに従うことがそれがしの役目。姫君にはご辛抱を願います」
ふてぶてしい重景の顔を、両側からつねりあげて、形を変えてやったら、どんなにせいせいするだろうと考えながら、若葉は扇をピシリと鳴らした。
「謹慎中とはいえ、側近のあなたまで手放して、一人で閉じこもっておられるなんて、一体、維盛様はどうなさったのか、本当は重景だって心配しているのでしょう? 現に私の前ではいつもつらそうな我慢した顔ばかり。嫌われている相手に、嫌々、傍にいられても迷惑なだけだわ」
若葉の『嫌われている』という言葉に、重景の瞳がギラリと刃物のような鋭さを帯びた。
「確かにそれがしは姫君を嫌っております。それがご不満ならば、さっさと小松殿を出て行かれればよろしいのではありませんか? 姫君のご結婚は既に中止も同然。もはや偽りの関係を続けておられる必要はないはずですぞ」
仏頂面の下から現れた明らかな憎悪に、若葉は来るべき物が来たように感じ、声の調子を少し落とした。
「……嫌われる覚えがないとは言えないわね。思い当たることが多過ぎるもの」
「ひとつだけ、姫君はご存じない理由がございます」
若葉だけでなく、兵衛佐や石童丸も驚いて重景を見る。
「まだ幼い時で顔もろくに覚えてはおりませんが、それがしの父は平治の時の戦で重盛様の身代わりとなって討たれました。重盛様が兄君として遇しておられる以上、仇を討つつもりもございませんが、成親殿に対する憎しみを忘れたわけではございません」
平治の乱の時、若葉の父の成親は清盛率いる平家一門と対立する側に立って戦っている。成親にとって平家一門が憎い存在であると同時に、平家一門にとっても成親はかつて刀を交えた敵であることに若葉は思い至った。
「平家一門では成親殿とそのご一族を快く思わぬ者も多くございます」
恨みを抱いているのは自分一人ではないと、成親の血をひく若葉は所詮、平家一門には歓迎されない存在だという、それは重景からの警告のようだった。そして、本音を出したことを恥じるように、重景は表情を消して黙りこみ、そのまま若葉も御簾の奥に引きこもってしまった。
ふて腐れて臥し所に横になっている若葉に兵衛佐が近寄り、心配そうにささやいた。
「重景はんがなんやしょんぼりしてはりますえ。ええ加減に機嫌を直しておくれやす」
「……兵衛佐、資盛様にお借りした童直衣は、もうお返しした?」
「いいえ? 資盛様は謹慎中でお会いできまへんし、人づてにお返しするわけにもいきまへんよって、まだうちがお預かりしてますけど」
つい正直に答えた兵衛佐は「あっ!?」と声を上げた。
「あきまへん! もう男装は二度と姫様にはさせまへん!」
兵衛佐の口を若葉は慌てて押さえた。
「しっ、声が大きいわ」
御簾の外をうかがうが、部屋の隅にいる重景が若葉達の会話に気づいた様子はなかった。抗議の文句が喉元いっぱいまでこみ上げている様子の兵衛佐に若葉は説明した。
「だって、重景がこの部屋からいなくなるのは夜だけだし、女の姿で小松殿を夜歩きしたら目立ってしまうわ。私はどうしても維盛様に会いたいの」
声こそ小さくしたが、迫力は変えずに兵衛佐が言い返す。
「絶対にあきまへん! 未婚の姫様が公達のお部屋に男装で忍びこむやなんて、お仕えする、うちの面目が立ちまへん」
「だって、維盛様は私の夫ではないのよ? 正式な結婚相手だったら、私だって新しい夫候補を探すとか、身の振り方を考えるわ。でも、恋人でもない人の屋敷で、飽きられた妻扱いで、このまま暮らすわけにはいかないと思うの」
兵衛佐はしばらくうつむいていたが、やがて思い切ったように顔を上げた。
「姫様、そろそろ大殿のお屋敷に戻らはったらどうどす? 重景はんが言わはったように、大殿も法皇様とのご結婚はええ加減に諦めはったと思いますえ。小松殿でご厄介になるのも、ここらが潮時かもしれまへん。維盛様が最近、引きこもり気味でいはるのも、そういう意味があるのやないかと、うちは思います」
兵衛佐の言葉に若葉は驚かなかった。重盛の問いを受けてから、若葉自身もそれはずっと考えていたことだったのだ。
「……分かっているわ。私も同じことを考えていたのよ。でも、どうせ父様のお屋敷に帰るのなら、もう一度だけ維盛様に会って、きちんとお別れを言いたいの。父様のお屋敷に帰ったら、きっともう二度とお会いできないから」
兵衛佐は驚いたような、困ったような、複雑な表情をした。
「もしかして姫様、維盛様のことをほんまにお好きに……」
それ以上は言わせまいと、若葉は目顔で制した。
「関係ないわ。私達は最初から最後まで偽りの恋人でしかないのだから」
突然、回廊の辺りが騒がしくなったかと思うと、小松殿に仕える家人の一人が、かなり慌てた様子で、部屋の外から重景を呼んだ。
「重景殿、維盛様が至急のお呼びです!」
重景は驚いた顔になったが、素早く立ち上がった。それでも、兵衛佐と石童丸にしっかりと釘を刺すのを忘れない。
「じきに戻って参りますゆえ、姫君のことをお頼み申します」
兵衛佐と石童丸は顔を見合わせた。
「謹慎中の維盛様が、重景はんをわざわざ呼びはるなんて、どうしはったんやろう?」
「さあ。……でも、お屋敷もなんだか騒がしい様子ですね」
若葉にあてがわれた部屋は小松殿でも奥まっているのだが、表のほうを中心に屋敷全体の落ち着かない雰囲気がざわざわと伝わって来る。
若葉も、さすがに伏せっているどころではなくなり、起き出して来た。
「……馬のいななきが聞こえたわ。何か騒動でも起きたのかしら?」
「ちょっと行って聞いて来ます」
そう言って石童丸は部屋を出て行ったが、すぐに戻って来た。
「大変です! 何でも宴の最中の院の御所で騒ぎが起こったとか……」
「院の御所ですって!?」
若葉の声が高くなった。
「どういうこと? 法皇様は、建春門院様はご無事なの? 父様は……成親父様は宴に参列していた?」
石童丸は若葉の続けざまの質問に驚きながら、あいまいに頭を振った。
「管弦の宴に僧が乱入したとか言っていましたが、それ以上、詳しいことは分かりません。重盛様は参内されていてお留守ですが、話を聞かれた維盛様が重景さんを連れて、院の御所へ事情を確かめに、先ほど出かけられたそうです」
「僧ですって? 叡山か、南都の僧兵が暴れているの? ……とんでもない騒ぎだわ。兵衛佐、石童丸、支度を手伝って。私も院の御所に参るわ」
「「はあ?」」
異口同音に間の抜けた声が上がったが、若葉は有無を言わせなかった。
大急ぎで走らせている牛車の中、兵衛佐はこれで幾度目かの同じ台詞を繰り返した。
「姫様、今やったら間に合います。早う引き返しておくれやす。僧兵なんぞが暴れている危ない場所へ行きはったら、うちらも無事では済みまへんえ」
童直衣を着て、髪を角髪に結った、少年姿の若葉は頑として言った。
「危なそうだったら、すぐに引き返すわよ。とにかく父様の無事だけでも確かめなければ帰れないわ」
「でも、黙って小松殿を抜け出しはって、維盛様の牛車まで勝手に使うて……。維盛様には何と説明しはるおつもりどす? きっとえらい怒らはりますえ」
「どうせ、父様の屋敷に帰るつもりだもの。維盛様がいくら怒ったって怖くないわ」
「せやかて……何でまたわざわざ男装までしはったんどす?」
「いくら私が院の御所の女房だったと言っても、もう退出した身だし、女の身では、大騒ぎになっている御所には入れてもらえないかもしれないでしょう? その点、この牛車には平家の家紋がついているから、維盛様にお仕えする童で、緊急の用事があるんですと言えば、きっと入れてくれるわ」
「何でこないなことばかり、気が回りはるんやろう」
自信満々の若葉に兵衛佐はうなだれるだけだった。だが、若葉の読みは甘かった。院の御所の周辺の大路は検非違使や野次馬等でごった返しており、出入りどころか門に近づくことも不可能だった。
「……罪人は既に捕まった! 騒ぎは収まった! 皆、この場から立ち去れ!」
検非違使が大声で野次馬を怒鳴りつけており、若葉は犯人が既に捕縛されたことを知った。だが、同時に罪人がまもなく院の御所の外へ護送されるとの噂も広がっており、物見高い野次馬の数は一向に減らなかった。
「駄目です。これ以上は進めません」
牛車を操る武里の言葉を石童丸が伝えて来る。ここぞとばかりに兵衛佐が引き返すように訴えた。だが、既に戻る道も人が溢れている状態だった。物見の窓から、若葉は人混みをにらんだ。その時、同じように人波に押された一台の牛車が、若葉達の牛車の隣で停まった。
「何でこないな所で停まるんや!?」
怒鳴りながら、御簾を上げた車の主と一瞬、まともに目が合う。すっとんきょうな声が若葉と相手の口からほとばしり出た。
「……とっ、父様!?」
「……まさか……若葉!?」
ぽとりと手に持っていた笏を取り落とし、成親はよろりと宙を泳いだ。そして、次の瞬間、割れんばかりの怒声が通りに響き渡った。
「お前はそないな格好で何をやっとるんや!?」
成親の家人にうながされ、若葉は一人、成親の牛車に乗り移った。顔色が青くなったり、赤くなったりを繰り返している父の前で、ただ小さくなる。少年の姿をした我が娘に、成親はうわ言のように呟いた。
「……お前を法皇様に差し上げへんで、ほんまに良かった。こないな失敗した白拍子みたいな姫を差し上げとったら、わしの首が飛んどるところや。……ほんまに危ないところやったわ」
異形の者を見るような成親の顔つきに、若葉はむきになって言い返した。
「誰のためにこんな格好をしてまで、小松殿を抜け出して来たと思っているのよ!? 院の御所の宴で僧が暴れていると聞いたから、てっきり父様が危ないと思ったからでしょう!? どうして管弦の宴に出ないで、こんな所にいるの!?」
途端に成親は恨みがましい目つきに変わった。
「お前との結婚があかんようになって、法皇様からお叱りをもろたんや。抜け駆けしよったちゅうて、側近仲間の目も冷とうなっとるし、今日の管弦の宴は日が悪いとか言うて、ずる休みしたるつもりやったんや」
ところが騒ぎを聞いて、慌てて駆けつけたというわけらしい。示し合わせたわけでもないのに、そろって同じ行動をとるところは似た者親子と言うしかなかった。とりあえず、父が争い事に巻きこまれていなかったと分かり、若葉は胸を撫で下ろした。
「父様が何もなくて良かったわ。罪人は捕まったと言っていたけれど、建春門院様はご無事かしら」
娘の呟きに、ようやく我に返った成親は慌てて笏を拾い上げ、乱れた身支度を整えた。
「そうや。お前の詮議は後回しや。法皇様はどないしはったんや!? 暴れとったのはどこの僧兵や!? わしは院の御所へ行かなあかん。早よ牛車を出さんかいな」
成親の命令に、牛車の陰に控えていた家人が「無理です」と答えた。
「これ以上は進めません。捕まった罪人がたった今、院の御所から引き出された所で、誰もが一目見ようと集まっております」
「阿呆かいな! 罪人の穢れなんぞに遭うたら、当分、院の御所には参られへんやないか! 何でもええ! 院の御所へ入ってしまうんや!」
しかし、成親の命令は間に合わなかった。ちょうどその時、大勢の検非違使に連れられ、縄をかけられた罪人が牛車の傍を通り過ぎる所だったのである。院の御所で暴れるなど、どんなに恐ろしい荒法師の軍勢かと、恐る恐る御簾越しに見やった若葉は、思わず息を呑んだ。検非違使に引き立てられているのは、ボロボロの僧服に身を包んだたった一人、それも若葉の見知った僧だったのである。
「……文覚様?」
思わずその名を口走ってから、慌てて口をつぐむ。罪人として引かれて行くというより、大勢の検非違使を連れて、あたかも凱旋するように、堂々と胸を張って通り過ぎて行くのは、文覚以外にありえなかった。
「若葉っ!」
ふいに怒鳴りつけられ、振り返った若葉は、父の顔つきに心底、恐れを抱いた。顔を紅潮させ、瞳を奇妙に輝かせた成親は、なりふり構わず娘の両肩をつかんで揺さぶった。
「お前、あの僧を知っとるのか!? どこで見た!? 小松殿か!? 法皇様に盾つく反逆者を、平重盛は飼うとるんか!?」
「違うわ!」
とっさに若葉は強く否定していた。
「いつか母様と法会を聞きに行った時のお坊様に、お顔が似ていると思ったの。でも良く見たら、全然違ったわ。ただの勘違いよ」
「嘘をつくんやないっ! ほんまは小松殿であの坊主を見たんやろ!?」
成親の目は血走り、若葉を見ながら、まるで違う物を見ているようだった。
「あの坊主が平家の子飼いやちゅう証拠がつかめたら、平家一門を追い落とせる! 若葉、正直に言うんや! あの僧を小松殿で見たんやな!?」
若葉には歪んだ成親の顔に、重景の憎悪に満ちた表情が重なって見えた。そして、自分はその父の娘なのだと冷え冷えとした気持ちを抱く。
わずかなためらいも許されなかった。若葉は父の瞳を真っ直ぐに見返し、きっぱりと言い切った。
「私の勘違いでした。ごめんなさい。あんなお坊様、今まで見たことも会ったこともありません」
成親はさらに追及しようとしたが、若葉の表情に強い意志を読み取ったのか、渋々、その手を肩から放した。
「まあ、ええ。お前から聞き出さんでも、裏から手を回すなり、他に方法はいくらでもあるさかい。穢れに遭うてしもうたし、今日は帰るしかあらへん」
僧の顔を見た野次馬達は徐々に散って、大路は先ほどまでの喧騒が嘘のように、普段の穏やかさを取り戻しつつあった。牛車を屋敷に戻すように命じようとする成親を、若葉は急いで止めた。
「待って。うちへ帰るなら、兵衛佐も連れて行くわ」
さすがに成親とは顔を合わせづらそうだったので、兵衛佐は残して、若葉が一人で成親の牛車に乗り移っていたのだった。成親はうんざりした口調で言い捨てた。
「兵衛佐は首や。お前を駆け落ちさせるは、男の格好で外出させるは、あんな女房に支払う給料はあらへん」
「ひどいことを言わないで。兵衛佐は私の言いつけに従っただけよ。兵衛佐が一緒でないなら、私だって帰らないわ。あっちの牛車に戻ります」
今にも牛車を降りかねない娘に、成親は狼狽した。
「……わ、分かった。兵衛佐も連れて帰るさかい」
成親が家人に命じて、隣の牛車の中の兵衛佐を呼ばせた。
「そちらにおられる女房殿も、こちらの牛車にお移り願いたい」
兵衛佐の応えがあり、家人達が女房の牛車の乗り移りを、道行く者の好奇の視線から遮る形で動く。これで兵衛佐を置き去りにせずに済むと、若葉はホッとした。
誰もが小松殿の牛車に注目した瞬間、成親の牛車に異変が起こった。急に牛が興奮したかと思うと、止めようとする牛飼い童を蹴散らし、大路を暴走し始めたのである。
「きゃっ!?」
「うわあっ!?」
急発進に、中腰になっていた若葉は宙に投げ出された。牛車の天井に叩きつけられるのを覚悟して、とっさに目を閉じる。だが、若葉がぶつかったのは天井ではなく、成親だった。娘の直撃を受けた成親は蛙が潰れたような声を発し、白目をむいた。
数秒ごとに宙に跳ね上がる牛車の中では、舌を噛まないように口をつぐんだまま、気絶した父の体にしがみついているのがやっとだった。今、自分が叩きつけられているのが壁なのか天井なのかの判別もできず、五臓がでんぐり返る感触に吐き気がこみ上げる。
「……若葉!」
大きく波打っている御簾の間から、馬に乗った維盛が追い駆けて来るのが見えた。めまぐるしい視界の中で、その姿だけはくっきりと捕えられた。
少し遅れてやはり重景が馬で駆けて来る。維盛は抜き身の太刀を片手に持ち、振り返って叫んだ。
「くびきを切り離す! 援護しろ! ……若葉、何かにつかまって、こらえるんだ!」
牛車と牛をつなぐ、くびきを切るつもりだと分かり、若葉は片手で成親の腕をつかみ、もう片方の手で半開きの物見の窓にとりついた。
数度、上下した後、鈍い音と共に、これまでと比べ物にならない衝撃が襲いかかった。耐えきれず両手を離し、成親と共に牛車の中を転がる。御簾の外に転がり落ちる寸前で止まった若葉は、もう牛車が走っていないことに気がついた。
御簾を蹴立てて、維盛が中に飛びこんで来る。維盛は倒れている若葉を抱き起こした。
「若葉、無事か!?」
「……維盛様」
弱々しいが、確かな若葉の返答に、維盛はホッと息をついた。
「無事で良かった」
「……心配してくださったの?」
「当たり前だろう!? 若葉にもしものことがあったら、僕は……」
若葉は無意識のうちに微笑んだ。
「……良かった。……嫌われてしまったかと思った……」
涙が一粒、頬を滑り落ち、そのまま若葉は意識を失った。
耳元でしきりに聞き慣れた声がすすり泣いている。
「姫様、しっかりしとおくれやす。目を覚ましておくれやす」
「大丈夫ですよ。薬師は、姫様は気を失っているだけで、大したことはないとおっしゃいましたし」
兵衛佐を慰めているのは石童丸の声だった。
そして、彼らの背後で言い争う声が聞こえて来る。
「お前がやったんだな、重景!? 何故だ!? 何故、牛を暴れさせた!?」
「姫君はあの僧の顔を見知っておりました。成親殿にあの僧が若君の客分であったことを知られれば、御身の破滅となりましょう」
「それで姫をお父上もろとも殺そうとしたのか!?」
頬を打つ高い音が響き、重景の感情を押し殺したくぐもり声は、懇願のそれに変わった。
「若君はお忘れですか!? もともと姫君を小松殿にお連れしたのは、帝への入内を阻止するためではございませんか! 建春門院様お気に入りの女房が、法皇様方への出仕を拒んでいるのは、帝の思し召しがあり、女御としての入内を望んでいるのだという話を壊すために!」
「らちもない、ただの噂だった」
吐き捨てるように維盛が言い放つ。
「ですが、いまだ東宮となられるべき皇子のご誕生のない、帝と徳子姫との間には、いかなる噂も入りこませるわけには参りません。だからこそ、若君はご自分を侮辱するような無礼な姫を、偽りの恋人となってまで小松殿に迎えられたのではございませんか」
「……言うな」
「利用するはずの姫が、謀反人の僧侶を小松殿に連れこむような姫であったとは! もはや姫は何の利用価値もない、若君の障害になるのみ。若君と平家一門の邪魔になる者は、全て始末するべきです!」
「言うなっ!」
血を吐くような維盛の叫び。
「……姫様、お気がつかれ……」
二人の会話のあまりの展開に、若葉に泣きすがるのも忘れていた兵衛佐が、ようやく声を上げた時には、若葉は御簾の外の言い争う男達の前に滑り出ていた。
男装を着替えさせる余裕がなかったため、半ば崩れた角髪に隠れて、若葉の表情は良く見えなかった。ただ宝玉のように煌めく瞳が、食い入るように維盛を見据えている。
「最初から、私を利用するおつもりだったのね?」
淡々とした若葉の問いかけを、開き直った表情で維盛は受け止めた。
「そうだ。あなたの名を落としめて、帝のもとへ入内できないようにするために、小松殿に迎え入れた。全ては我が一門の栄華を揺るがさないためだった」
若葉は重盛の『あなたはご自分の価値を正しく理解しておいでですか?』という質問の意味を初めて悟った。やはり重盛は、維盛が若葉を引き取った本当の理由に気づいていたのだ。
自分に女御入内の噂話があったとは初耳だった。だが、維盛が若葉を小松殿へ迎え入れた理由を、若葉は不思議な程、冷静に受け止めていた。何の裏もなく、維盛が自分を引き取るはずがないと、最初から見当がついていた。逆に騙し返すつもりで小松殿へ来た。
予想外だったのは、自分の気持ちだった。利用し合う関係でしかないという事実を、再確認しただけなのに、こんなに胸が痛むとは、初めて小松殿に来た時は思わなかった。
「私は帝に入内するつもりはありません。文覚様のことだって誰にも言いません」
何故、視界がぼやけるのだろう、頬を伝わるこの冷たい雫は何だろう? ぼんやりと考えて、若葉はようやく自分が泣いていることに気がついた。
「私が法皇様の思し召しをお断りした本当の理由は、建春門院様の御為です。……周囲には伏せておられるけれど、建春門院様は最近、病がちでいらして、そんな時に建春門院様の御心を少しでも乱すようなことはどうしてもできなかったの」
このままでは、あと数年のお命だと典薬頭がふと漏らした言葉が、後白河法皇の思し召しを受けるべきか否か、迷っていた若葉の心を決めたのだった。
いつも法皇と平清盛の間に立って、心を砕いておられる建春門院の心の支えは、法皇の寵愛だと知っているからこそ、そして、お気に入りの女房として若葉を可愛がってくださる建春門院を敬愛しているからこそ、法皇の寵愛を争って、その心労を増やすことなど、若葉はしたくなかった。
建春門院が病と聞いて、維盛と重景は目を見張った。維盛が呆然と呟く。
「馬鹿な。今の状態で、万が一、建春門院様がお亡くなりになられたら、東宮位を欲しがる皇族や、東宮の外戚の座を狙う貴族達が、一斉に騒ぎ出す。院の御所も内裏も政乱に巻きこまれるぞ」
後白河法皇と平清盛を結ぶ、唯一の接点である建春門院の存在は、平家の安泰には不可欠。法皇と建春門院が深い愛情で結ばれているからこそ、平家一門は今の勢力を政治の中枢部に保っていられるのだ。
後白河法皇の周辺には、平家一門の繁栄ぶりに不満を唱える成親のような者もいる。帝と徳子姫の間に一人の皇子も生まれないまま、建春門院にもしものことがあれば、平家一門の政権は根本から揺らぎかねなかった。
重景が刀の鯉口を切る音が、静まり返った部屋に異様な程、響き渡った。
「とにかく、このまま姫君を父君のもとにお返しするわけには参りません。姫君はあまりにも多くを知り過ぎました」
「堪忍しておくれやす!」
兵衛佐が転がるように御簾から出て、若葉にしがみついた。
「姫様もうちも大殿に何も話しまへん!」
「お願いします。姫様達を助けてあげてください」
石童丸も深々と頭を下げる。二人の必死の嘆願に重景はためらいを見せた。その頬が片側だけ赤いのは、維盛に打たれたためだ。
重景は彼なりに精一杯、主である維盛を思い、その盾になろうとしている。そして、維盛のためにどんな罪も一人で引き受け、維盛を守ろうとしている。不器用な重景はそういう男だと、若葉はもう分かっていた。
「もう止せ、重景。平家の者は無抵抗の女子どもを斬ったりなどしない」
目顔で刀をさやに収めさせ、維盛は重景の頬に触れた。
「怒りに任せて叩いて済まなかった。……重景はいつも僕のことを第一に考えてくれていると分かっているのにな」
そして、維盛が自分に向き直った時、若葉は別れの時が来たことを悟った。
「姫、女性の姿にお戻りください。別室で休んでおられる成親殿も幸い、大したお怪我はないご様子ですし、まもなく気がつかれるでしょう。もうあなたが小松殿におられる意味は何もない。お父上と共にご自分のお屋敷へお帰りなさい」
「このまま黙って帰されるおつもりですか!?」
憤りの声を上げる重景に、維盛は静かに言った。
「姫は誰にも話さないと約束された。それに例え、姫が成親殿に話されたところで問題はない。検非違使に手をまわし、文覚殿には獄中にて変死を遂げていただくまでだ。捕縛された謀反僧の処遇など、我ら一門の力をもってすれば、どうにでもなる」
袖で涙をぬぐい、若葉は懸命に言いつのった。
「絶対に誰にも話しません! だから文覚様を殺させないで!」
「殺しませんよ。姫が誰にも話さずにいてくださるなら」
その言葉をどこまで信じて良いかは分からなかった。だが、今の若葉にはただ、うなずくことしかできなかった。
「分かりました。支度ができて、父様が目を覚ましたら、一緒に帰ります。短い間でしたが、お世話になりました。兵衛佐、帰り支度を手伝ってちょうだい」
「お見送りはしません。成親殿は僕の顔を見たくもないでしょうから。……お別れです。若葉姫、どうかお元気で」
若葉は乱れた髪を払い、微笑もうとした。維盛の最後の記憶となる自分の表情を、みじめな泣き顔などには意地でもしたくなかった。
「維盛様もお元気でいらしてください」
挑むような瞳で花咲くように笑う若葉の姿に、維盛は一瞬、瞳を眩しそうに細めた。そして優雅に一礼して、そのまま身を翻した。重景が黙ってその後に続く。そして最後に、石童丸が小さく頭を下げて、部屋から出て行った。
意地で作った笑顔は石童丸の姿が消えた途端、もろくも崩れ去った。声も出さずに、うつむいて大粒の涙をこぼす若葉を、兵衛佐は母親のように抱き締めた。
「……姫様、よう我慢しはりました」
優しい乳姉妹の胸元に顔を埋め、若葉は子どものように泣きじゃくった。だが、どれだけ涙を流しても、若葉の胸に空いた空洞と、激しい心の痛みを消すことはできなかった。