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第三章 芽生えるもの

第三章 芽生えるもの


 それから数日が過ぎた。連日届けられる若葉の母からの文では、成親(なりちか)御幸(みゆき)が取り止めになった法皇へのお詫びと言いわけに忙しく、小松殿(こまつどの)に来るどころではないようだった。母は家出した娘の身を心から案じており、法皇より維盛(これもり)を選んだことをとがめる言葉は手紙に一言もなく、若葉は母の親心に感謝するばかりだった。


 維盛との仲を疑っていない経子(つねこ)も、あれこれと優しく世話を焼いてくれて、じきに若葉は小松殿に住まう、維盛とは腹違いに当たる弟達とも親しくなった。


 特に仲が良くなったのは、若葉の年下の従弟に当たる資盛(すけもり)だった。元服(げんぷく)を過ぎてもやんちゃなままの少年と、活発な若葉は妙に気が合った。資盛は未来の兄嫁が小松殿に迎え取られたのが物珍しく、また嬉しくて仕方ないらしく、毎日のように若葉のもとへ遊びに来るようになった。


 維盛は「あまり姫をわずらわせないように」と兄らしく注意はするものの、内心は弟の人懐こさを愛でている様子が若葉にも伝わった。資盛が「兄上、兄上」と呼びかけ、維盛が優しい笑顔で答える。異腹(いふく)であることを感じさせない、二人の仲の良い兄弟には、若葉も心をなごまされた。

 

 その日も資盛は元気良く「若葉、双六(すごろく)して遊ぼう!」と言って現れた。資盛のあけ放しの笑顔に、若葉もつられて笑顔になる。


「さっき回廊で兄上とすれ違ったんだけど、今日は宴の打ち合わせがあるので、ここへ来るのが遅くなりますって言っていたよ。明後日、泉殿(いずみどの)でお祖父様主催の花見の宴があるんだ」


 資盛は宴が楽しみで仕方ないようだった。


「兄上と僕で青海波(せいがいは)を舞うんだ。毎日練習してるんだよ。頑張って舞うから、若葉も見てね! ……そうだ、若葉も何か演奏しない? 僕、若葉の琴が聞きたいな」


 若葉は良心の呵責(かしゃく)に耐えながら、やんわりと断った。


「ううん、私は見せてもらうだけにしておくわ。……ひょっとすると、何かの都合で宴に出られなくなるかもしれないし」


「えー!? そんなの駄目だ! 絶対に出なくちゃいけないよ!」


 資盛は握り拳を作って猛反対した。


「母上は若葉と宴に行くのを楽しみにしているんだ。若葉が宴に出なかったらがっかりするよ。僕だって若葉に見てもらうつもりで、一所懸命に練習しているのに」


 若葉は返事ができず、黙りこんだ。それを何と受け取ったのか、資盛はますます声を張り上げた。


「兄上の舞はすごく綺麗なんだ。見ないと絶対に後悔するよ。……えーと、それに確か、若葉のお兄さんも宴に来るって母上が言っていたし、それに、それに……」


 子犬のような資盛の瞳が訴えかけるように、じんわりと潤んでいる。


「僕、この人が僕の姉上ですって、皆に若葉を紹介したかったのに!」


 無邪気に「姉上」と呼ばれて、若葉はよろめいた。とにかく資盛にだけは、はっきり言い聞かせておこうと決意する。


「あのね、資盛様には悪いけど、私と維盛様は正式に結婚したわけではないの。だから、姉上とは呼ばないでください」


「どうして正式に結婚しないのさ?」


 資盛は不思議そうに瞳をパチクリさせた。


「私の父が二人の結婚を認めていないから。父様が認めるまで正式に結婚しないと決めているの。だから、まだ他の人には恋人のままで通したいし、父様の気持ちを逆撫でしないように、私が小松殿にいることも目立たないようにしたいの」


 そもそも法皇との結婚を止めるために、有名人の維盛を選んだ時点で、目立ちたくないと願うほうが無茶な話である。我ながら言っていることと、やっていることが矛盾していると若葉は思った。


「……良く分からないけど、とにかく目立ちたくないから、若葉は宴に行きたくないんだね?」


 わけが分からない顔をしていた資盛は、やがてうなずいた。


「だったら、若葉を皆に紹介するのは諦める。だから、僕達の舞を見に来てよ。目立たなかったら、別に宴に来てもかまわないんでしょう?」


 論点がずれていると思いながらも、つい「宴に出られるの?」と口が滑る。若葉も本心は栄華を極める平家一門主催の宴が見たいのだ。資盛はとびきりのいたずらを思いついた様子で、身を乗り出した。声をひそめてささやく。


「僕の衣を貸してあげる。男の恰好をして行けば、誰も若葉だなんて気づかないよ。誰かに聞かれたら、僕の友達だって言ってあげるからさ」


 傍に控えていた兵衛佐(ひょうえのすけ)が仰天して声を上げた。


「あきまへん! 姫様が男装して宴に出はるなんて、とんでもありまへん!」


「内輪の宴だけど、親戚がいっぱい集まるから、紛れちゃえば誰にも分からない。きっと兄上だって気づかないよ」


 資盛は自分の案に夢中になっており、さっきまで潤んでいた瞳もキラキラ輝いている。その瞳を見ているうちに、若葉は話に乗ろうという気になった。


「良いわ。私も宴に出てみたい」


「姫様!? 人前にお顔をさらすなんて、お嫁にいけまへんえ! 止めておくれやす!」


「大丈夫よ。おとなしくしていれば、きっとばれないわ」


「……姫様!」


 絶望的な悲鳴を上げる兵衛佐に、若葉は無情にも一言で片をつけた。


「もう決めたから」


 大喜びの資盛が、若葉のために男物の衣服を準備すると言って、部屋を去った後、重景(しげかげ)を伴った維盛が現れた。その顔色がすぐれないのを見て取った若葉は、兵衛佐に命じて温かい飲み物を用意させた。


「ありがとう。少し疲れただけだから、大丈夫です」


 礼を言って飲み物を受け取る頬の線が、心なしか鋭くなっている。若葉を引き取ったためのごたごたと宴の準備の忙しさが重なり、肉体的疲労と共に精神的重圧が大きいようだった。しかし、今の繊盛の頭の中はいかに宴を切り抜けるかでいっぱいらしく、早速、事務的な口調で切り出した。


「明後日は宴ですから、明日はなるべくおとなしく願いします。僕も資盛も明日は忙しくて、姫のもとへはうかがえそうもないから、むしろちょうど良いかもしれない。それから明後日の早朝にでも、欠席の断りを入れていただいたら、僕が父上達に知らせます」


 資盛の計画を言いつけそうな兵衛佐を軽くにらむと、若葉はおとなしく返事をした。


「分かったわ。明後日は早朝にお詫びの和歌を届けます。明日は一日、その和歌を考えて過ごしますので、おとなしくしています。それで良いでしょう?」


 優等生な返答に、維盛が見るからに安堵する。


「若葉姫は和歌の才がおありだと、母上から聞いています。安心して任せられそうだ」


「経子叔母様はお優しいからほめてくださるのよ。私はまだまだ未熟です」


「いや、機会があったら、姫に教えを乞おうと思っていたんだ。今度、和歌の作り方を教えてもらえますか? お恥ずかしい話だけれど、僕は和歌が本当に苦手だから」


 優れた歌人でもない若葉に頼むくらいだから、よほど苦手なのだろう。若葉は思わずクスクスと笑ってしまった。


「舞や笛は得意なんだけれど……」


 笑われて、維盛が恥ずかしげな顔をする。若葉は珍しいその表情に免じて、和歌の指南を引き受けることにした。


「私で良ければお教えしますわ。その代わり、いつか笛を吹いていただけますか?」


「喜んで。姫さえ良ければ、姫の琴と合奏しましょう」


「それは楽しみですわ」


 会話が途切れると「……そろそろ行かなければ」と維盛は立ち上がった。


「もう行ってしまうの? もう少し休んでいかれたら良いのに」


 言った後から、まるで本当の恋人のような言い草だと後悔する。維盛が若葉のもとを訪ねるのはあくまで義務感からであり、くつろげる場所ではないことを失念していた。だが、若葉が謝罪して、今の言葉を取り消そうとするとする前に、維盛はふわりと微笑んだ。


「姫がそうおっしゃるなら、もう少し居させていただこうか」


 円座(わろうだ)に再び身軽に腰を下ろす。若葉はそれを信じられない思いで見つめていた。


「無理をされることはないわ。維盛様の訪れを待っていらっしゃる女性はたくさんおられるのでしょう? そういう方達のところへ行かなくても良いの?」


「おやおや、休んで行けとおっしゃったのは口だけですか? 嫌がられているとなると、ますます残りたくなるな」


 脇息(きょうそく)に肘をつきながら、維盛は意地悪く笑っている。若葉はむきになって言い返した。


「違います! 私のところなどで時間を潰して、恋人に嫌われたらお気の毒だと思って、忠告してさしあげたのよ。もっともあなたのその性格を知っても、慕ってくれる女性がどれだけいるかは分からないけれど!」


「幸いに慕ってくれる女性はたくさんいますよ。……でも、正面から喧嘩を吹っかけて来る女性は一人しかいなくてね。貴重な存在なんですよ」


 枕でも投げつけてやりたい言葉だったが、『貴重』と言った維盛の口調が、いつもの嫌味と違って優しく響いたことに驚いて、若葉は怒れなかった。またつい口が滑る。


「ありがとう」


 若葉の言葉に維盛が目を丸くする。若葉は自分の顔が真っ赤で、心臓が波打っていることに気づいた。動揺する心のまま、慌ててつけ加える。


「い、今のは嫌味ですからね!」


 同時に、維盛の表情も硬くなる。気まずくなった雰囲気の中、重景が呼びかけた。


「若君、明日も早うございます。そろそろお休みください」


「ああ、そうだな」


 渡りに船といった様子で、維盛は再び立ち上がった。今度は若葉も引き止めなかった。


「宴では青海波を舞われるんですよね? 頑張ってください」


「ありがとう。お休みなさい」


 扇の陰から若葉がこっそり舌を出していたのも知らず、維盛は優雅に一礼して、部屋を出て行った。


 回廊を自室へと速足で戻る維盛を、いつにも増して厳しい表情の重景が従っていた。重景は少しためらった後、静かな声で言った。


「若君は姫にお優し過ぎます」


「自分のしていることくらい分かっている。口を出すな、重景」


 維盛の声音にはかすかな震えがあった。


「いいえ、分かってはおられません。姫君に情を移してはなりません。お二人が親しくなればなるほど、いずれ若君が姫を引き取られた、本当の理由が明らかになれば、おつらい思いをされるのは若君です」


「言うな! それは僕とお前しか知らないことだ!」


 維盛は指の関節が白くなるほどきつく、扇を握り締めた。


「我ら一門の将来のためとは言え、若葉姫をこんな形で利用するのは間違っていた。真実を知れば、姫は僕を許さないだろう。……だが、一度始めたことはもう取り返しがつかない。姫の縁談は必ず壊れていただく。それが僕の意志だ」


御意(ぎょい)のままに」


 振り向かずに回廊を行く主従は少し離れた回廊で、通りかかった重盛(しげもり)が自分達を見つめていたことには気づかなかった。


 宴の当日、急な病のため、欠席することを、打ち合わせ通り和歌にしてしたため、維盛のもとへ届けさせると、寝こんでいるから静かにして欲しいと人払いして、若葉は小松殿の人々が宴へと出かけるのを待った。


 和歌を届けに行っていた石童丸(いしどうまる)は、若葉に維盛の出立を見送るように命じられていたため、かなり時間が経ってから戻って来た。石童丸は姫の命令を自分が一緒にいけないために、代わりに見送りを命じられたのだと善意に解釈し、素直に実行した。


 維盛の返歌を早く若葉に届けようと、石童丸が息せき切って戻ると、出かける前は兵衛佐しかいなかった部屋に、資盛と見知らぬ少年が座っていた。


 宴に行く前に若葉のもとへ立ち寄った様子の資盛は直衣(のうし)姿で、普段より大人びて見えた。資盛の連れと思しき少年は、髪を角髪(みずら)に結い、元服前の少年が着る、品の良い童直衣(わらわのうし)をまとっていた。身分の高い若様のようだが、どなただろうと考えながら、石童丸は二人にお辞儀した。そして、兵衛佐に桜の枝に文が結びつけられた物を差し出す。


「すみません。遅くなりました。姫様に維盛様からご返歌です」


 兵衛佐が返事をする前に、資盛の連れの少年が横から手を出し、文の結び目を解いた。


「あっ! それは姫様へのお文です! お返しください!」


 驚いて取り返そうとする石童丸に、資盛が吹き出す。


「石童丸も分からないんだから、完璧だよな!」


「私よ、石童丸。……分からない?」


 愛らしい少女の声で尋ねられ、まじまじと少年を見つめた石童丸は突然、肝を潰してへたりこんだ。


「姫様!? どうして、そんなお姿に!?」


「ちょっと泉殿(いずみどの)の宴を覗いて来るわ」


 体の線を隠す直衣のお陰で、若葉は黙っていれば、充分、美貌の少年で通用した。しかし、その成果を喜んでいるのは資盛だけで、支度を手伝わされた兵衛佐は憤死寸前だった。やたらと張り切っている若葉に、恨めしげな声がかぶさる。


「……姫様、どうしても行かはるんどすか?」


「いまさら何を言っているの? 大丈夫。ちょっとのぞいて、すぐ帰って来るから」


「維盛様は姫様がおとなしくしてはると信じてはるんどすえ。維盛様の信頼を裏切りはるおつもりどすか?」


 若葉は一瞬、返答に詰まったが、それでも頑固に首を振った。


「もう決めたの。留守居をお願いね」


 腰を抜かしている石童丸と、絶望的な表情の兵衛佐をしり目に、資盛が若葉をうながして、そろって部屋を出て行った。残された二人は無言で顔を見合わせた。それには、若葉姫を自由にさせておいては、何が起こるか分からないという悲愴な決意が刻みこまれていた。


「石童丸はん、気の毒やけど、急いで泉殿へ行って維盛様に事情を知らせておくれやす。あのお二人を放っておいたら、宴がめちゃくちゃになるかもしれんえ」


 石童丸は「はい!」と起き上がり、部屋を出て行った。残された兵衛佐は深いため息をついた。


「……うち、もっとおとなしい姫さんのところに転職したいわ」


 当代一の権力者、平清盛(たいらのきよもり)主催の宴だけあって、内輪の物であっても、その豪華さは宮中の宴席ともひけを取らなかった。


 宮中でも高位を占めている一族が集っているため、客の装いも華やかである。宴席は珍しい異国の品物で飾られ、洗練された美しい女房達が次々に運んで来る食事はどれも最高級品だった。部屋の中央では、白拍子(しらびょうし)達が見事な舞を披露して、人々の目を楽しませている。


 資盛のつてで潜りこんだ若葉は、目立たない物影で宴を見守っていた。当の資盛は帰りの待ち合わせ場所だけ指定すると、さっさと舞の支度をしに行ってしまった。口を開けば、少女と見抜かれるかもしれないので、若葉はなるべく他人と顔を合わせないように、おとなしくしていた。


 何気なく辺りを見回していると、離れた場所に重盛の姿があり、傍に兄の成経(なりつね)の顔を見つけて、ぎくりとした。成経は楽しげに浮かれた周囲と違って、深刻な表情で重盛に話しかけている。離れている上、人々の話し声がやかましくて、その内容は聞き取れない。だが、その顔つきから父や妹の自分勝手な行動を詫びているのだろうと察しはついた。短気な父と違い、おっとりとした成経は若葉にとっても優しい兄だった。そんな兄にまで心配をかけているのだと思うと、さすがに若葉の胸は痛んだ。心の中でそっと手を合わせる。


 その時、白拍子達が舞を止め、端近に引っこんだ。宴席が静まり返る。


 楽人(がくじん)が曲を奏で始めると、舞姿の維盛と資盛が現れる。異腹だが、どこか似通っている二人は、同じ衣装で立ち並ぶと、さながら一対の絵のようだった。


 両者とも鳥甲(とりかぶと)に青海波と霞の模様が刺繍された下襲(したがさね)をまとい、千鳥(ちどり)の模様が刺繍された(ほう)の右肩を()ぎ、螺鈿(らでん)の太刀を()いている。


 袖の動きで波の様を表した名曲、青海波は源氏物語で、光源氏と親友の頭中将(とうのちゅうじょう)が舞ったとされる美しい舞であり、光源氏に例えられる維盛とその弟の資盛が舞うというのならば、人々が注目するのも当然と言えた。


 舞い手の足が一歩踏み出され、袖が翻る。そして若葉は宴に参列できたことを心から感謝した。維盛が光源氏と呼ばれるのは外見だけではなかった。源氏物語を目の前に再現したような見事な舞に並みいる者達の目は完全に釘づけだった。舞の名手たる白拍子達までが維盛の舞にうっとりと見惚れている。


 維盛の整った美貌とすらりとした身のこなし、翻る袖、全てがこの世の物とも思われず、艶やかで神々しくすらあった。その華やかさの前には、資盛の優雅な舞も霞んでしまっていた。若葉は穏やかな青い海が、波の音が、磯の香りが、宴席に広がった気すらした。


 舞が終わると、人々は一斉にどよめき、口々に舞い手を褒め称えた。ふと重盛のほうを見やった若葉は、重盛の瞳が潤んでいることに気がついた。さりげなく拭われたため、周囲の者は誰も気づかなかったようだが、重盛の息子達を見る表情には、心の底から誇らしげな色が宿っていた。『父にとっては家族よりも正義が大切なのだ』と寂しげに語っていた維盛を思い出し、若葉は今の重盛の表情を維盛に見せてあげたいと心から願った。


 しばらくは宴席の興奮が冷めなかったが、やがて維盛と資盛が立ち去り、若葉もそろそろ帰る時間だと判断して、宴を抜けだした。ひと気のない回廊を抜けて、待ち合わせに資盛が指定した部屋に滑りこむ。


「誰だ!?」


 突然の怒声(どせい)に、若葉は身をすくませた。そして、相手の顔を見た瞬間、全身の血の気が引いた。舞の時は確かに上座(かみざ)にいたのに、いつの間に宴席を立ったのか、一人、別室でくつろいでいたのは、他でもないこの屋敷の主、平清盛だったのである。


 清盛の手には大ぶりの太刀が握られ、いつでも引き抜ける状態だった。逃げ出しでもしようものなら、背後から切られるのは明らかだった。恐怖に凍りついている若葉をねめつけた後、清盛は顎をさすって低くうなった。


「見慣れぬ顔だな。何者だ? ここで何をしている?」


 幾多の戦いをくぐり抜けて来た老武者(おいむしゃ)らしく、鍛え上げられた体と見る者を居すくませる鋭い目つき、そして現政権を一手に握る者としての迫力と威厳に、若葉は動けなかった。質問に答えようにも清盛の気迫に飲みこまれてしまい、一言も発することができない。


「何を怯えている? 答えろ!」


 清盛をさやに収めた太刀を持ったまま立ち上がり、大股で若葉に近づくと、片手で肩をつかんだ。大して力をこめた様子もないのに、あまりの痛さに若葉は小さく悲鳴を上げた。清盛の険しい表情が驚きに代わり、力がゆるむ。


「そちは女か? 白拍子とも思えんが、何故そんな姿をしている?」


 じんじんと響く肩の痛みが、すくみきっていた若葉の意識を少し引き戻した。


「……白拍子ではありません。私は藤原成親(ふじわらのなりちか)の娘、若葉です」


 清盛は一瞬、ひどく驚いた顔をし、それから豪快な笑い声を上げた。


「そちが維盛が引き取ったという恋人か。急な病に伏せっていると聞いたが、充分に元気そうに見えるぞ?」


 清盛は若葉の肩から手を離し、さっきまで座っていた円座(わろうだ)に戻った。そして、自分の向かいの円座を指し示す。


「まあ座れ。そのような姿で泉殿に参った理由を聞かせてもらおうか」


 座るどころか、今すぐでもこの場を立ち去りたかったが、先ほどまでの厳しさはなくなったものの、清盛のまなざしはいまだに鋭くて、とても逃げられそうになかった。仕方なく清盛の向かいに腰を下ろす。何が起こるのかと怯えている若葉を、清盛は無遠慮に見回した。


「そちがあの腰抜けの娘か。こうして見ると少年そのものだな。年頃の姫とはとても思えぬわ。一体、維盛はそちのどこが気に入ったのだ? 男装の白拍子が良いなら、もっと他に選びようもあるだろうが」


 言いたい放題に言われて、若葉は怯えてうつむいていた顔をキッと上げた。


「父は腰抜けではありません! 自慢の父です! それに私だっていつもこんな姿をしているわけではありません!」


 もっと言い返したかったが、何と言って良いのかが分からず、言葉の代わりに清盛の瞳を真っ直ぐににらみつける。清盛は手の内の小鳥が急に暴れ出したとでもいうように目を見張ったが、どこまでできるかを見てやろうと考えた様子で、若葉の視線をがっちり受け止めた。


 無言のにらめっこはしばらく続いた。清盛の瞳は歳を経た龍の目はこんなではないかと思われるほど深く、得体が知れなかった。若葉はその瞳の持つ気迫に懸命に耐えた。しかし、ついに耐え切れなくなり、深くうなだれて突っ伏した。


 敗北感に打ちひしがれる若葉に対し、意外なほど優しい言葉が清盛から降って来た。


「先ほどの言葉は取り消してやろう。成親は良い姫を持った。維盛もなかなか見る目がある。わしをにらみつけるとは鼻柱(はなっぱしら)の強い小娘だ。気に入った」


 素直に褒められたと受け取って良いのかと考えながら、若葉はゆっくりと身を起こした。


「孫の妻でなければ、わしがもらってやっても良いほどだ」


 いたずらな子どものような笑顔でさらりと言われ、度肝を抜かれる。


 その時、回廊を二人の人物が慌ただしくやって来る気配がした。一方が哀調を帯びた声で謝っており、もう一方の声が厳しく叱りつけている。


「ごめんなさい、兄上。全部、僕が悪いんだ。お願いだから若葉を叱らないで」


「謝って済む問題じゃない! 一つ間違えば、皆の前で姫が大恥をかいているところだ! そうなれば宴もめちゃくちゃだ! お前の話に乗る姫も姫だが、そんなことを持ちかけるお前も悪い!」


 資盛と維盛はなおも言い争いながら、若葉達のいる部屋へ入って来て、同時に怒鳴った。


「若葉、ごめん! 兄上にばれちゃった!」


「姫! 今すぐ小松殿に帰ってもらいます!」


 資盛は直衣を着崩して、いかにも着替えの途中で引きずり出された風体である。一方、弟を無理やり引っ張って来た維盛はさすがにきちんと着替えているが、貴族のたしなみである扇や(しゃく)の類を持っていないことから内心の動揺がうかがわれた。


「二人共、落ち着け! なんだ、その格好は!」


 一喝され、二人は初めて部屋にいるのが、若葉だけでないと気がついた。資盛がぽかんと立ちすくみ、維盛は若葉の身を案じるように、慌ててその傍に近づいた。


「お祖父様!? どうしてこちらに? 宴はいかがされたのですか?」


「いささか飲み過ぎてな。ひと気のない所で一休みしていたら、この姫が現れたのだ。……まあ良い。詳しい事情は聞かずとも大体分かった。資盛、これはそちのいたずらだな? 毎度のことながら、そちにはいつも振り回される」


 言葉は荒いが、孫達を見る清盛の表情は優しかった。


「ごめんなさい、お祖父様。若葉にどうしても僕達の舞を見て欲しかったんだ」


「お祖父様、二人を止められなかったのは僕の責任です。責めは僕にあります」


「違います、相国(しょうこく)様。私が舞を見たがったのです。お二人に責任はありません」


 清盛はそれぞれ謝る三人をじろりと見ると、低い声で言った。


「わしは姫が気に入った。よって此度(こたび)だけは大目に見よう。だが、泉殿の行事を混乱させるような真似は二度と許さん。宴へ参る時は正式な客として堂々と表から参れ」


 あからさまにホッとして資盛が「もうしません」と謝罪し、若葉も「申しわけございませんでした」と詫びた。維盛は責任を痛感している様子で深く頭を垂れた。だが、急に明るい口調に変わった清盛に維盛は目を白黒させた。


「維盛、そちはなかなか女子(おなご)を見る目がある。めったにない姫だ。大切にせよ」


「は? はあ。……お祖父様、このことはどうか父上には内密にお願いいたします」


「分かっておる。わしの胸ひとつに収めておこう。安心せよ」


 言いたいだけ言うと、清盛は酔いや年齢を感じさせない身軽さで立ち上がった。


「さて、わしはそろそろ宴へ戻る。そち達も見咎められぬうちに姫を連れて帰れ」


 清盛の命令に三人はおとなしくうなずくばかりだった。


 車宿(くるまやど)りでは、物騒な表情の重景と怯えている石童丸が、武里(たけさと)という名の若い舎人(とねり)と共に牛車(ぎっしゃ)を用意して待っていた。資盛は宴に戻り、維盛の途中退席を詫びることになったため、維盛と若葉だけが牛車に乗りこんで、急いで泉殿を離れた。


 狭い牛車に向かい合わせに座ると、疲れ切っている若葉と、怒りが解けず無表情のままの維盛が、顔を突き合わせることになった。沈黙が広がり、牛が歩み、車輪の回る音だけが響いていた。若葉は内心、口喧嘩をしているほうが、無言の維盛ににらまれるよりましだと思わずにはいられなかった。


 疲れた体を起こし、維盛に向かって口を開く。


「言いたいことがおありなら、はっきりとおっしゃったらどうですか? お望みなら、このまま父様の屋敷へ牛車を向けさせれば良いんだわ」


 維盛が懸命にこらえていた物が、その一言でぶち切れたようだった。挑戦的な顔つきの若葉に、真冬のつららのような視線を返す。


「言いたいことなら、とうにお分かりだと思いますが? 欠席すると満場に知らせた宴に男装で侵入した上、お祖父様と対面するなど、僕にどれだけ恥をかかせたら気が済むんです? それとも一門の前で、僕に恥をかかせるのが目的だったんですか?」


「違うわ。維盛様に恥をかかせようなんて思っていません。舞だけ見て、気づかれないうちに帰るはずだったの。それに、あの部屋は資盛様との待ち合わせ場所で、先に相国様が休んでおられるなんて全く知らなかったわ」


「その割にはずいぶん仲良くなられたようでしたが? 一体、お祖父様と何をお話しされたんです?」


 勘ぐるような言い回しに若葉はむきになった。


「何も話していません! 相国様は私がにらめっこで負けたから、面白がっておられただけだわ」


「……にらめっこ?」


 維盛はめまいを起こしたように、ぐらりと後退した。


「どうしてそんな無茶な真似ができるんです!?」


「私だって怖かったわよ! 全然かなわなかったし! でも、私が忍びこんだせいで、維盛様や父様が相国様に悪く言われるのは嫌だったんだもの!」


 感情の高ぶりのまま、若葉は涙をこぼし、幾度もしゃくり上げた。


「すごく、怖かったんだから…!」


 幼い子どものように、袖で顔を覆って泣きじゃくる若葉に、維盛は怒りも忘れ、おろおろとなった。


「姫、……その、……どうか泣かないでください」


 やがてためらいつつも手を伸ばし、少女の頭を何度も撫でた。


「もう大丈夫ですから。怖くないですから、泣き止んでください」


 優しい手に若葉の涙が次第に落ち着いて来る。


「……維盛様って成経兄様みたい」


「姫みたいなお転婆な妹はいません。手のかかる兄弟は資盛一人で充分です」


 皮肉で答えながらも、維盛は安堵の色を浮かべていた。


「泣き止んでくださって良かった」


 温かい笑みを向けられて、若葉の胸が一瞬、ときめいたのもつかの間、維盛は再び厳しい表情を作った。


「とにかく、こんなことは二度と困ります。どこかにお出かけになりたい時は、資盛ではなく僕に言ってください。男装で出歩かれるくらいならお連れしたほうがましです。良いですね?」


「はい。申しわけありませんでした」


 若葉が深々と頭を下げたところに、突然、牛車が急停止した。体勢を崩した若葉が思わず維盛の腕の中に飛びこんでしまったほど、乱暴な停まり方だった。維盛の衣に焚きこめられた薫りと、腕の温もりに若葉は真っ赤になった。一方の維盛も恥ずかしそうな顔をしている。若葉をそっと離し、自らの体から遠ざけると、照れ隠しのように維盛は物見(ものみ)の窓を開けた。


「おかしいな。まだ小松殿には着かないはずだが……」


 物見の窓からは、ここが往来の真ん中であることが見て取れた。武里が何者かを叱りつけている声が聞こえて来る。


「とっとと行ってしまえ! 平維盛様のお車を止めるとは無礼な奴だ!」


「うわぁーん、放してくださいー!」


 泣いているのは石童丸のようだった。維盛が鋭く外に声をかける。


「重景、何事だ?」


 物見の窓の下にすかさず控えた重景は、苦々しげな口調で答えた。


「つまらぬ乞食坊主です。牛車の通り道に寝転がっておりまして、叱りつけたのですが、動こうといたしません」


「石童丸はどうしたんだ?」


「近づいた拍子に、その坊主に手をつかまれまして、こちらも放そうといたしません。今しばらくお待ちください。とっとと追い払いますので」


 石童丸の泣き声がさらに響き、怪我でもしていないかと若葉は気になって、牛車の(すだれ)を少しめくった。


 道のちょうど真ん中に野次馬に囲まれて、ボロボロの衣を着た僧侶が寝転がっていた。簾から覗く若葉と無精ひげの僧の視線が一瞬、交わった。


「お、可愛い子だな。車を降りて、こっちへ来い。そうしたら、この子を放してやっても良いぞ」


 あからさまな挑発だった。


「姫? どちらへ行かれるのです!? 牛車から降りてはいけない!」


 維盛の引き止める声をしり目に、若葉は身軽に牛車を降りた。男装であることが気を大きくした上、好奇心が先に立ったのだった。


 僧侶は一目で武士階級出身と分かる、たくましい体つきをしていた。天下の往来で、まるで温かい寝床にでもいるかのように、のんびり寝そべり、左手を腕枕にして、右手では石童丸の片腕をつかんでいた。石童丸は泣きながらもがいているが、一向に逃げられそうにない。


「ちょっと石童丸を放しなさい! 嫌がっているでしょう!?」


 若葉は石童丸の傍に駆け寄り、僧をにらんだ。若葉は石童丸のつかまれていない側の腕をつかみ、ぐいぐいと引っ張った。


「……痛! 痛いですー!」


 飛び入り参加の若葉を完全に面白がっている僧と、若葉の間で綱引き状態になった石童丸はたまらず悲鳴を上げた。若葉を追って牛車を降りた維盛も、さすがに気の毒に思ったのか、若葉の肩にそっと触れた。


「石童丸を放してあげてください。かえって痛がっている」


「……あ、ごめんなさい」


 若葉が素直に手を放すと、石童丸は疲れ果てた様子で地面に座りこんだ。重景が武里に合図し、すっかりお留守になっている牛車の世話に戻らせると、代わりに僧の前に立ちはだかった。


「今すぐその手を放し、そこをどけ。そうすれば命ばかりは助けてやる」


 そう言って、重景は太刀の(つか)に手をかけた。今にも刃傷沙汰が起きそうな緊迫感の中、僧は一向に怯える様子もなく、堂々と重景に言い返した。


「俺は腹が減って動けないんだ。ここを動けと言うのならば、布施(ふせ)をいただこうか」


「貴様、金目当てのゆすりか」


 蔑んだ様子で重景は懐から自らの銭袋を出し、僧侶の足元に投げ落とした。


「これで充分だろう? さっさとここから立ち退()け。高貴なお方の牛車を、破戒僧の穢れた血で汚したくないからな」


 ところが、僧はにやにや笑うだけで、袋には目を向けようともしなかった。


「あんたの小遣い程度では足りんな」


「やはり腕を切り落とされたいか?」


 だが、重景の脅しを無視して、僧は若葉に笑いかけた。


「あんた、女子のような可愛らしい顔をしているな。俺の弟子になる気はないか?」


 若葉が眉をつり上げて「お断りします!」と言い返すと、僧は今度は維盛を見た。


「あんたも顔が良いなあ。俺の弟子にならんか?」


「貴様! 若君を愚弄する気か!?」


 ついに太刀を引き抜いた重景の袖を、若葉は慌ててつかんだ。


「待って、重景! 太刀を使ったら、石童丸も怪我をするわ!」


「いいえ! こんな無礼な乞食坊主など、お二人が気に留められる価値はございません! お二人とも何故、このような場所で牛車を降りられたのです!? ここは私に任せて、牛車にお戻りください!」


「まあ、待て、重景」


 維盛が憤る重景を制して、一歩前に出た。


御坊(ごぼう)が何のつもりで、狼藉(ろうぜき)をするかは知らないが、むやみに人を傷つけたくないし、このまま牛車が動かねば、人々の往来の邪魔にもなる。石童丸を放して、望むところをはっきりと述べて欲しい。僕にできることなら助けもしよう。……僕は平維盛という者だ」


 僧は一瞬、維盛の顔を真正面から見た。周囲の者がぞくりとなるほど、冷徹で鋭い、獲物の力量を計る猛獣のような目つきだった。そして、その一瞬で用は足りたとでもいうように、視線を和らげた。いたって真面目な口調で名乗りを上げる。


「俺の名は文覚(もんがく)高雄(たかお)神護寺(じんごじ)を再建する誓願(せいがん)を立てて、勧進(かんじん)をいたしている。腹が減って横になっていたところを、あんたの牛車に邪魔されたんだ。……なに、贅沢は申さん。いくらかの布施と宿(やど)、そして食事をいただきたい。そうすれば神護寺再興(さいこう)の暁には功徳は間違いなし。あんたの極楽往生は約束されたも同然だ」


「それを約束したら、石童丸を放してくれるのか?」


「ああ。俺は顔と頭の良い子どもを弟子にするのが夢なんだ。この子も可愛かったから、つい手が出た。どうだ、ついでに俺の弟子にこの子をくれんか? あっちの子でも良いし、あんた自身でも全然、かまわんぞ」


 文覚は『あっちの子』と言いながら、若葉を見てにやりと笑った。


「「絶対に嫌です!」」


若葉と石童丸が同時にかぶりを振った。維盛は落ち着いた口調で断った。


「二人共嫌がっているし、僕も当面は出家の意志はない。弟子を探すなら他を当たってくれ」


「維盛様、このお坊様を小松殿へ連れて帰ってはいけませんか? このままでは石童丸も可哀想ですし、勧進聖(かんじんひじり)にお怪我をさせるのも良くないと思います」


 若葉の訴えに維盛は困った顔をしたが、次第に増える野次馬の数についに根負けした。


「……分かった。御坊を僕の客人として、小松殿へ迎え入れると約束しよう。だから、石童丸を放してやってくれ」


「うむ」


 名残惜しげに文覚が手を放すと、石童丸はそそくさと若葉のもとに駆け寄った。


「石童丸、大丈夫?」


「大丈夫です。それより、早く牛車に戻ってください。往来で牛車を降りたなんて知ったら、兵衛佐さんに怒られますよ」


 兵衛佐の名を出されて、思わずたじろく若葉の背中を石童丸が押す。そんな二人の背後では、重景が維盛に食ってかかっていた。


「こんな無礼な坊主を小松殿に連れ帰るわけには参りません!」


「僕の名において客人とすると約束したんだ。お前の馬に乗せて連れて行ってくれ」


「こやつを愛馬に乗せるくらいなら、この場で首をはねられたほうがましです!」


「……仕方ないな。それなら牛車に乗せよう」


「こんな汚い坊主を、若君と同じ車に乗せるわけには参りません!」


 堂々巡りの言い合いを、当の文覚は笑いながら見物している。


 結局、もうすぐ小松殿だからと、文覚は徒歩で牛車の後を歩くことになった。その時の石童丸の情けない顔と、重景の憤まんやるかたない様子に、若葉は我ながら、とんでもないことを維盛に頼んでしまったのかもしれないと、こっそり思った。


 石童丸と共に部屋に戻った若葉を、兵衛佐は抱きつかんばかりの勢いで出迎えた。


「姫様、ようご無事で……!」


「ただいま、兵衛佐。心配かけてごめんね」


 早速、若葉の着替えを手伝い始めた兵衛佐だったが、やけに殊勝な主と元気のない石童丸に不審を覚えたようだった。真剣な表情で告げる。


「姫様、維盛様に言いつけるよう、石童丸はんに頼んだのは、うちどす。お叱りなら、うちがいくらでも受けます。せやから、もうこないなことは勘弁しておくれやす」


「悪いのは私なんだから、叱ったりするわけないじゃない。もうこんなことはしないから安心して」


 若葉の腰紐(こしひも)を結ぶ手を止め、兵衛佐は眉をひそめた。後は無言で着替えの手伝いを終える。女の姿に戻った若葉は、ようやく休めるとばかりに脇息(きょうそく)(おもて)を伏せた。


 突然、「姫様!」と怖い顔をした兵衛佐がにじり寄り、若葉はたじたじとなった。


「ど、どうしたの、兵衛佐?」


「情けないどすえ。うちは女童(めのわらわ)の頃から、姫様にお仕えしとります。姫様のご様子がおかしいことくらい、すぐに分かりますえ。それなのに、うちには何も言うてくれはらんのどすか? 一体、うちには言えへん、何をやらかしはったんどす!?」


 兵衛佐の思いこみはいつになく冴えていた。


「ほんまのことを言うておくれやす! うちは姫様にもしものことがあったら、責任を取って尼になる覚悟どすえ!」


 傍に控えていた石童丸が「うっ」とうめき、情けない声で頼んだ。


「……お願いですから、今は『出家』とか『僧』とか言わないでください」


 わけが分からない顔になった兵衛佐は、事情を聞くまでは断固として動かない構えを取った。兵衛佐の迫力に気おされ、若葉は渋々ながら口を開いた。


 兵衛佐は一言も口をはさまず、全てを聞き終わると、その場で卒倒した。


「兵衛佐! しっかりして!」


 若葉は慌てて兵衛佐に近寄ったが、どうすればいいのか分からない。


「姫、どうしました?」


 ふいに声をかけられて振り向くと、様子をうかがいに来た維盛の姿があった。


「維盛様、兵衛佐が急に倒れたの!」


 若葉はポロポロと涙をこぼした。


「私のせいだわ。このまま兵衛佐が死んでしまったら、私……」


 維盛は兵衛佐の顔色を見て、口元に手を当てた。


「大丈夫です。顔色が悪くて呼吸も浅いが、まだ生きている。……誰かある!? すぐに兵衛佐を(つぼね)に運び、薬師(くすし)に命じて薬湯(やくとう)を作らせよ!」


 繊盛の命令で、倒れた兵衛佐を数人がかりで普段、彼女が使っている局まで運びこむ。折悪しく、小松殿の女房の大半は泉殿の宴に出払っており、人手が()けない状況だった。繊盛が先に立って指示し、若葉や石童丸も慣れない看護の手伝いをすることになり、大わらわとなった。


 水や薬湯を準備しているところに、局の前でのんびりと取り次ぎを求める声がした。対応に出た石童丸が恐れおののいた表情で戻って来る。


「維盛様! 姫様! 文覚様が来ています!」


 自分まで今にも失神しそうな石童丸に、維盛と若葉は顔を見合わせた。兵衛佐の額を水で濡らした布で拭くのが忙しい若葉に代わり、維盛が諭した。


「落ち着きなさい。怖がる必要はない。文覚殿に言って、僕に用があるのなら、後で出直すようにと断ってくれ」


「それが、維盛様ではなくて、兵衛佐さんに用事なんです」


「何だって?」


「急病人が出たそうだから祈祷したいと言っているんです」


 若葉が口を挟んだ。


「治癒の祈祷をしてくれるの?」


 一瞬、心が揺れたが、兵衛佐が卒倒した理由を思い出し、若葉は頭を横に振った。


「駄目よ。誰が祈祷したか知ったら、兵衛佐はそれこそ憤死しちゃうわ」


「……まあ、そう言わず、試してみろ。俺の祈祷は霊験あらたかだぞ」


 いきなり野太い声が傍で響き、三人は驚いた。許可もなしに室内へずかずかと入って来た文覚は、兵衛佐と枕元の三人を無遠慮にのぞきこんでいた。


 汚れを落として、さっぱりした着物に着替えた文覚は、きちんとした僧侶らしく見えた。だが、その大きな体の内側から、本来持つ(さが)か、荒修行で鍛えた物かは分からないが、(けもの)じみた気配を発することまでは隠せていなかった。


「何だ、急病人は女か。つまらん」


 勝手なことを言いつつ、今度は若葉の顔をまじまじと見つめる。そして驚いた様子で口を開いた。


「何だ。あんたも女か。弟子にはできんな。残念だ」


 ムッとした若葉が何か言い返す前に、維盛が厳しい声で言った。


「ここは小松殿の女房に与えられる局だ。勝手に出入りしないでいただきたい」


「そんなことは気にするな。俺も気にせん。それより病人の手当てが先決だろうが?」


 ひらひらと片手を振ると、文覚はあからさまに怯えている石童丸をひょいと押しのけて、兵衛佐の枕元に膝をついた。顔色を確かめ、熱を測り、脈を取る。その態度は軽薄な口ぶりに反して、真面目でてきぱきとしていたので、維盛は家人(けにん)を呼んで、助けてもらおうとする石童丸を制した。


「どうせ祈祷の僧の手配にはまだ時間がかかる。文覚殿に任せてみよう」


 最後にまぶたをひっくり返して、瞳孔を確認すると、文覚はからからと笑った。


「気を失っているだけだ。祈祷なんぞ要らん。喝を入れてやれば、すぐに目を覚ます」


 そう言いながら、兵衛佐を背後から抱き起こす。気合い一閃、「喝!」と腹部に回した両手に力をこめた。


 途端に兵衛佐はぱっちりと目を開いた。のぞきこむ若葉の顔をきょとんと見やる。


「……姫様? うちは一体……」


「兵衛佐、良かった。気がついたのね」


 まだふらついている兵衛佐を、若葉は再び寝かしつけた。


「突然、倒れたのよ。疲れているみたいだから、休んだほうが良いわ」


 若葉の言葉を首肯(しゅこう)すると、文覚はしかつめらしく言い放った。


「あんた、気がかなり乱れているぞ。きちんと飯を食って、夜はしっかり眠るんだな。さもないと、また倒れるはめになる」


 乱暴な言われ方だったが、兵衛佐は素直にうなずいた。


「お言葉に甘えて、うち、少し休ませてもらいます」


 兵衛佐が目を閉じると、たちまち胸が上下を始め、安らかな寝息がこぼれ出す。若葉は安定した呼吸に安堵しながらも、兵衛佐を倒れるまで弱らせた責任を感じずにはいられなかった。


 兵衛佐が目を覚ました時のために、石童丸を残し、維盛と若葉は文覚と共に、静かに局を出た。


「じゃあな」


 言い捨てて、さっさと二人とは反対方向に、回廊を歩き出す文覚に対し、若葉は心をこめて告げた。


「兵衛佐を助けてくださってありがとう」


 文覚の瞳が、若葉を値踏みするかのように細められ、やがてからからと笑った。


「礼なんぞ、女に言われても嬉しくないんだが、あんたは可愛かったから、別にしておいてやろう。本当に女にしておくのが、つくづくもったいないな。あんたに息子が生まれたら、俺の弟子にくれ。立派な僧侶に育ててやる。それで礼は帳消しにしてやるよ」


 どこまで本気なのか、複雑な心境で若葉は首をひねった。女性は極楽往生を妨げる者として僧侶に忌まれると知っているが、文覚の女性への接し方は僧であることを考えに入れても、かなり変わっているように思われた。


「女性が嫌いなのに、平気で女性に触れて治療できるのね?」


 思わず口をついた質問に、文覚はあっさり言った。


「別に俺は女嫌いじゃないぞ。興味がないだけだ。俺の女は一人で充分だからな」


「一人? どなたか恋人でもいらっしゃったの?」


 その瞬間、文覚の顔に猛獣そのもののすさまじい形相が浮かび、若葉は背筋が寒くなった。


「恋人じゃなかった。人妻だったからな。俺が出家する前、侍だった頃の話だ」


「その女性は今はどうしておられる?」


 今度は維盛が尋ねた。文覚は唇を歪ませて笑い、口の端に異様に尖った犬歯がのぞいた。


「死んだ。……俺がこの手で殺したんだ」


 その言葉に維盛と若葉は絶句するしかなかった。

 

 若葉が気落ちしていることは傍目にも明らかで、それを案じたのか、維盛は若葉の部屋まで送って来てくれた。与えられた部屋に戻ると、若葉の気分も少し落ち着いた。


「姫、大丈夫ですか? あなたまで倒れてしまいそうなご様子だ。それに兵衛佐殿がいなくてはご不便でしょう。代わりに気の利く女房をつけましょう」


「心配してくださってありがとうございます。少し疲れただけですから平気です。兵衛佐の代わりの女房もいりません。それより、少しお話があります」


 女房を呼ぼうとする維盛を若葉は引き止めた。そして、深々と頭を下げた。


「今日は本当に申しわけありませんでした。でも、私、維盛様の舞が見られたことには感謝しているんです」


「言ってくだされば、資盛との練習の時にいつでもお見せしましたよ」


「でも、練習では見られない物が見られました」


 意味が分からず、首をかしげる維盛に、ようやく維盛に一番伝えたかったことを口に出す。


「重盛様です。維盛様と資盛様の舞を見て、重盛様は涙ぐんでおいででした。お二人を心から誇りに思っておられるご様子でした」


「父上が!? まさか……」


 繊盛は「信じられない」と言いたげだった。


「口には出されないだけで、重盛様は維盛様や資盛様のことを本当に大切に思っておいでです。だから、維盛様ももう、お父様にとって大切なのは、家族ではなくて正しいことだなんて、寂しいことはおっしゃらないでください」


 若葉は自分の言葉が、見た情景が、そのまま維盛に伝わるようにと強く祈りながら、驚きのためか、喜びのためか、かすかに震えている維盛の手を、そっと自分の両手で包みこんだ。純粋な思いやりに満ちた若葉の瞳を、孤独な子どものような瞳で維盛は見つめ返した。


 その時、若葉は維盛の本質に初めて触れた気がした。早くに実母を亡くし、父のもとで、いずれは平家一門の棟梁(とうりょう)となるべき身として育てられた維盛は、何不自由ない暮らしに見えても、本当の愛情というものを、ずっと知らなかったのかもしれない。


 維盛の寂しさを少しでも拭い去りたくて、若葉は懸命に言葉を続けた。


「光源氏みたいな理想の貴公子でなくても、維盛様が大好きな人はたくさんいるわ。重盛様も資盛様も重景も石童丸も皆、維盛様のことが本当に好きなのよ。だから、もう、そんな寂しい顔をなさらないで」


 若葉の手を維盛の手が握り返した。その強さに若葉の胸がざわめいた。


「……ありがとう、若葉姫」


 素直に微笑む維盛とその手の温もりが愛しかった。そして、若葉はずっとこうしていたいと望んでいる自分に気づかされた。


――……私、維盛様のことが好きなんだわ。


 いつのまにか若葉の内に芽生えていた恋心。しかし、偽りの恋人同士であるがゆえに、決して告げられない想い。それでも今は、こうして維盛の傍にいられる。そう思うのが若葉の精一杯だった。

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