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第二章 共犯者

第二章 共犯者


 弥生の頃、中御門通(なかのみかどどお)りと烏丸通(からすまどお)りが重なる場所にある、権中納言(ごんのちゅうなごん)藤原成親(ふじわらのなりちか)の屋敷は連日、父娘(おやこ)の怒鳴り合う声が響き渡っていた。


「法皇様と結婚なんて絶対に嫌! 誰がなんと言おうと結婚なんかしないわ!」


「三か月かけた根回しも済んで、法皇様ご自身が、うちの屋敷まで御幸(みゆき)しはるまでにこぎつけたちゅうのに、何が不満なんや!?」


「相手に決まっているじゃない! 父様と年齢の変わらない相手と結婚するなんて嫌よ!」


「この我がまま娘!」


「我がままなのは父様でしょう!?」


 どちらも短気なうえ、激してくると周囲をかえりみないため、物は投げるは、几帳(きちょう)は蹴り倒すはのすさまじい騒ぎになる。女房達が被害を最小限に抑えようと調度類を遠ざけている間、若葉の母がおろおろと割って入った。


「あなた、この()はまだ十四歳になったばかりですよ。せめて思し召しの有難さを充分に納得するまで、法皇様の御幸を延期していただくわけにはいきませんの?」


「お前まで何を言うんや!」


 成親はとんでもないと(きた)(かた)を一喝した。


清盛(きよもり)のところの徳子(とくこ)姫は一昨年、十五歳で帝に入内しはって、今は中宮やないか。あっちが帝ならこっちは法皇や。清盛には負けられへん」


 それが父の本音かと、平家嫌いの父の執念深さに、若葉は頭痛を覚えた。


「とにかく七日後には法皇様がうちの屋敷に御幸しはる。若葉はその時に結婚して、そのまま法皇様(がた)の女房として出仕(しゅっし)するんや。嫌とは言わさへん!」


 びしっと指差しつきで宣言すると、成親は女房達に命じた。


「若葉を塗籠(ぬりごめ)に閉じこめるんや。結婚を素直に認めたら出したるわ」

 塗籠(ぬりごめ)とは周囲を厚く壁で塗りこめた納戸(なんど)のことである。閉じこめられると聞いて、若葉は青ざめたが、それでも気丈に言い放った。


「しわしわのお婆さんになるまで閉じこめられたって、絶対に結婚なんてしないからね!」


 つんと顎をそびやかして連れて行かれる我が娘の姿に、成親はがっくりと肩を落とした。


「あの頑固さは誰に似たんやろか……」


 そういう自分は頑固親父そのままに首を振りながら、成親は法皇のご機嫌をうかがうために出仕して行った。


 塗籠には若葉の乳母の娘であり、若葉づきの女房となっている兵衛佐(ひょうえのすけ)だけが食事を運んだり、身の回りの世話をするために通うことが許された。丸顔でぽっちゃりとした兵衛佐は外見そのままの人の良い性格をしており、若葉が不自由しないよう一生懸命に塗籠に通って来た。そのため、狭い場所で退屈なことを除けば、塗籠においてもそれなりに快適な生活が保たれていた。


 退屈しのぎに兵衛佐が持って来た紙に、和歌を落書きしていた若葉は、紙と筆を放り出して、ため息をついた。


「あーあ、お庭も見られないなんてつまらないわ」


「ほんに。せっかくの桜の季節やのに、お花見もできへんうちに散ってしまいますえ」


 相づちを打つ兵衛佐に、若葉はふくれながらも言い張った。


「良いわよ。法皇様がいらしたら、出ろと言われたって、ここから出ないわ」


 さすがに法皇を塗籠には通せまいと、最後の抵抗を試みる若葉に、兵衛佐は感心したようなため息を漏らした。


「姫様はほんまにご結婚がお嫌と見えますなあ」


「だって法皇様には建春門院(けんしゅんもんいん)様がいらっしゃるのよ? 私が割りこむ余地なんてないわ」


 途端に兵衛佐は意味深(いみしん)な表情になった。


「うちにまでそないな建前を言わはらんでもええどすえ。うちはちゃんと分かってます。姫様にはどなたか、ええお人がいはるんどす。でも、大殿(おおとの)には言えへん事情があって、一人で耐えてはるんやわ」


 勝手に「ええお話やわ」と感動している乳姉妹(ちきょうだい)に、若葉はまた兵衛佐の悪い癖が始まったと頭を抱えた。人は良いのだが、思いこみが激しくて、年頃の乙女らしく夢見がちな兵衛佐は、想像でとんちんかんな話を作ってしまうことがままあった。若葉は戒めの意味もこめて、きつい口調を放った。


「私、恋人なんかいないわ」


「でも、お好きな方もいはらへんのやったら、なんで結婚を嫌がりはるんどす? 法皇様は気さくな方とうかがってます。(いん)御所(ごしょ)で女の栄華を極めはるのもええのと違います?」


 若葉はうっと詰まった。日本国の頂点に立つ法皇に望まれたのなら、貴族の姫君としては当然、喜んでお受けすべきなのだ。歳の差だの、正妻でないのと理屈をこねる若葉のほうが変わり者に見られることは院の御所での経験からも熟知している。困り顔の若葉に兵衛佐は我が意を得たりと得意げに微笑んだ。


「安心しておくれやす。うちは姫様のお味方どすえ」


「それは誤解だってば」


 必死の言いわけも無視して、兵衛佐は塗籠を出て行った。完全に勘違いされている。結婚問題だけでも気が重いのに、どうやって乳姉妹の誤解を解こうかと若葉はため息をついた。


 宮仕えしていたとは言え、若いというより、まだ幼かった若葉には恋人を作っている余裕はなかった。いくつか届いていた恋文も、成親が結婚を画策し始めてからは法皇の威光を恐れてか、ぱったりと途絶えている。


「本当に恋人がいたら苦労しないわよ。父様にもその人と結婚させてくださいって頼むのに」


 ひとりごちて、ふと考えこむ。


「今からでも恋人を作ればいいのよね? そうよ。別に本当の恋人でなくてもかまわないんだわ。出仕予定の姫に恋人がいると分かれば、法皇様の御幸は少なくとも延期にはなるもの」


 溺れる者が藁にもすがる思いで、必死に作戦を練る。法皇に直接、意見を言えて、従わせてしまうことのできる唯一の女性、建春門院に文で助けを求めたらどうだろう。若葉はお気に入りの女房だったから、恋人がいるのに、法皇の思し召しを受けて苦しい思いをしていると伝えれば、きっと御幸を止めてくださるに違いない。


 唯一の問題は誰を恋人にするかだった。あまり身分の低い相手では、成親が権力をかさに潰そうとするかもしれない。そうなっては罪のない相手にも迷惑がかかる。成親が簡単にもみ潰せない、つまり無視できない身分の者でなくてはならない。


 いや待てよと若葉は考え直した。逆に相手の身分が高すぎても困る。そんな相手ならば、その人と結婚しなさいと言われるかもしれない。成親が無視できない立場の人間で、若葉と年齢、身分が釣り合い、それでいて成親が絶対に認めない相手。そう思った時、一人の公達(きんだち)の顔が自然と脳裏に浮かび上がった。


 法皇の御幸が明後日に迫った朝、兵衛佐はいつものように朝食を運んで来た。


「大殿が姫はまだ折れへんのかと怒ってはりますえ。大殿のご機嫌がずっとお悪いよって、北の方はんも屋敷の皆はんも困ってはります」


 兵衛佐は頬に片手を当てて、うんざりした顔つきを見せた。成親は若葉に当たれない分、周囲の人間でうさ晴らしをしているらしかった。


「父様ってば、なんて勝手なのかしら」


 己の我がままは棚に上げて、若葉は口をへの字にした。


「せやけど、うちは姫様のお味方どす。うちでお役に立てるなら何でも言うておくれやす」


 若葉は内心、話を切り出すなら今だと身構えた。


「兵衛佐! あなたを見こんで頼みがあるの!」


 しっかと兵衛佐の腕をつかむ。どうも告白よりは脅迫の雰囲気だったが、演技力の問題は勢いでごまかすことにする。


「実は私、恋人がいるの。その方以外の人とは結婚したくないんだけど、父様がとても許してくださらない相手だから、今まで誰にも言えなかったのよ。……実は新年の宴でお会いして、平維盛(たいらのこれもり)様とお互いに一目惚れをしてしまったの」


「平維盛様!? あの桜梅少将おうばいのしょうしょうと評判のお方!」


 兵衛佐は疑いを持つどころか、待ちに待った打ち明け話に瞳をらんらんと輝かせている。


「平家嫌いの父様だから絶対に許してくれないわ。だから、建春門院様にお頼みして、御幸は取り止めにしていただくように、法皇様にお願いしていただきたいの」


 徹夜で推敲(すいこう)した(ふみ)を兵衛佐に手渡す。


「これを大至急、建春門院様に届けてちょうだい。(いん)御所(ごしょ)でお仕えしている、私の女房仲間に預ければ、お渡ししてもらえるはずだから」


 院の御所を退出した後も、文通を続けていた女房仲間の名を挙げる。兵衛佐は「うちに任せておくれやす」とどんと広い胸を叩き、塗籠を出て行った。


 兵衛佐に渡した文には、涙ながらに恋人と仲を引き裂かれるつらさを書き連ねてある。かつての(あるじ)である建春門院を騙すことになるが、自らに仕えていた女房が夫の寵愛を受けると聞けば、建春門院とて面白くはないはず。それを若葉本人が嫌がっていると伝えれば、きっと御幸を止めてくださるに違いないと、若葉は期待していた。


 その晩は季節外れの嵐となった。激しい風雨の音に混じって、屋敷のきしむ音が遠く近く響き、庭の草木のざわめきが波のように聞こえて来る。揺れこそしないが、物語に聞く嵐にあった船に乗っているようだと、脇息(きょうそく)に肘をついたまま若葉はぼんやりと思った。


 時刻は戌の刻に近い。もう休もうと何度も思いながらも、どうしても眠る気になれなかった。気になるのは手紙を渡した後、兵衛佐が一向に現れないことだった。


 おやつも夕食も違う女房が運んで来て、兵衛佐はどうしたのかと尋ねると急用で出かけたと答えが返って来た。おそらく若葉の頼みを実行しに出かけたのだろう。だが、手紙の返事をもらうだけならば、それほど時間もかからないだろうし、とうに屋敷に戻っても良い頃だと思うと心配だった。


 尊敬する建春門院や人の良い兵衛佐を騙そうなどと考えたのが、そもそもの間違いだったのかもしれないと、若葉は自己嫌悪にかられていた。


 突然、物音がして振り返る。見ると、塗籠の出入り口から人が入って来るところだった。兵衛佐かと思い、喜色を浮かべかけた若葉は、灯火(とうか)にゆらゆらと揺れる男の影に凍りついた。身構えて後ずさる。だが、若葉が助けを求めて悲鳴を上げる前に、男は素早く膝を折った。


「ご安心ください。怪しい者ではございません。平維盛様のご命令により、姫君をお迎えに参上いたしました」


 見れば、相手は侍と思しき若い男だった。若葉は相当間の抜けた顔をしたはずだったが、侍は表情も変えず、慇懃(いんぎん)に説明を繰り返した。


「こちらの女房殿が、姫君が望まぬ結婚を強いられて困っておいでと、それがしの主、平維盛様のもとへ知らせに参られました。主は姫君をお救いするように命ぜられ、よってそれがしがお迎えに参上いたしました。維盛様は姫君には悪いようにはしないと仰せです。出立(しゅったつ)のご用意をなさってください」


 自分の話をしていると分かったのか、今度は兵衛佐が塗籠に入って来た。


「姫様、早ようお支度を。誰かに見つかったら、騒ぎになりますえ」


「兵衛佐、一体、何がどうなっているの? あなた、建春門院様の所へ行ったんじゃないの?」


「堪忍しておくれやす。うちが勝手に考えたんどす」


 兵衛佐は大真面目に謝って、爆弾発言をした。


「あのお手紙、建春門院様ではなく、平維盛様のもとへお持ちしたんどす」


「維盛様のところへ持って行った!?」


「御幸までもう時間もありまへんし、まずは恋人の姫様が困ってはることを維盛様にお知らせするのが先やと思ったんどす。そうしたら、すぐに迎えをこうして寄越してくれはって」


 若葉は「維盛様に知られたら終わりなのよ!」と叫びたいのをぐっとこらえた。兵衛佐が独断で知らせに走ったことは分かったが、維盛が狂言と分かり切っている話に乗って、迎えを寄越した理由が()せない。恋人どころか罵り合って別れた相手である。あんなじゃじゃ馬はこちらからお断りだと言われてもおかしくないのに、一体、維盛はどういうつもりなのか。驚きと混乱のあまり、動けないままの若葉を侍が再度せかした。


「お屋敷の外に牛車(ぎっしゃ)を待たせております。人に見とがめられないうちに、姫君を小松殿(こまつどの)へお連れしなければなりません。早くお支度を」


 注意して見れば、侍の顔には覚えがあった。院の御所で維盛に重景(しげかげ)と呼ばれていた侍だ。維盛の使者という点で疑う余地はない。


「あなた、重景と言ったわね。維盛様は確かに私を迎えるようにおっしゃったの? 他には何もおっしゃらなかった?」


 重景ははっきりとうなずいた。


「確かに若君は姫君を小松殿にお連れするように命ぜられました。その他には姫君には悪いようにはしないとだけ仰せでございます」


 塗籠を出るか否か、即決することを迫られ、若葉は考えた。


 維盛が何を考えているかは分からないが、塗籠から出してくれ、法皇との結婚を阻止する手伝いをしてくれるというのは魅力的な申し出だった。もちろん彼がただの親切心で重景を寄越したとは思わない。おそらく裏があるのだろう。それが何かまでは分からないが、若葉が法皇と結婚しないことで、維盛は何らかの利益を受けるのだ。しかし、現実問題として結婚は明日へと迫っている。このまま屋敷に留まれば、どれほど抵抗しようが法皇と結婚させられるのは目に見えていた。


 深呼吸をすると、若葉は告げた。


「分かったわ。ここを出ます。兵衛佐、支度を手伝ってちょうだい」


 平家一門の館は鴨川の東、五条大路の末、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の辺りに設けられた広大な物である。平清盛が本拠とする泉殿(いずみどの)を中心に、清盛の兄弟や子供の館が並んでいる。そして、六波羅の東南、小松谷(こまつだに)には、平重盛(たいらのしげもり)の家族が住まう小松殿と呼ばれる屋敷があった。


 夜闇に浮かび上がる小松殿は持ち主の気風を表して、落ち着いたたたずまいを見せている。しかし、この先、何が起こるのか分からない不安を抱えて、牛車に揺られて来た若葉の目には、ただ見知らぬ恐ろしげな場所と映った。


 屋敷の門を牛車がくぐり、鈍い音を立てて停まる。車の外から重景が到着を告げた。牛車を降りるために立ち上がった時、さすがの気丈な少女も足が震えた。唯一の頼みとして伴って来た兵衛佐は、若葉を恋人のもとに渡して安心したとばかりに浮かれ気味で、いまさら全部嘘でしたとも打ち明けそびれていた。


 すぐにでも維盛と対面すると思い、緊張していた若葉は、重景から邸内の案内を引き継いだ女房に、屋敷の奥の整えられた部屋へ導かれて驚いた。


「しばらくおくつろぎください。ただいま、お手水(ちょうず)などをご用意いたします」


 女房がそう告げて立ち去ると、兵衛佐が嬉しげに辺りを見回した。


「身の回りの品が何でもそろってますえ。ここはきっと姫様の新居どす」


 確かにその部屋は、単なる客室にしては女性向けに整い過ぎていた。女物の生活用品が一通り取り揃えてある。新品ではないが良い品が揃っているのを見て取って、誰が準備したのか、若葉は気になった。


 数人の女房が水などを運びこみ、兵衛佐も手伝って、手をすすいだり、髪をくしけずると、憂鬱だった若葉の気分もかなりさっぱりした。


 若葉の臨戦態勢が整うのを待っていたかのように、十歳くらいの品の良い顔立ちの少年が先触(さきぶ)れとして現れ、維盛の訪れを告げた。まもなく重景を連れた維盛が現れ、人払いを命じた。女房達が去ると、維盛の背後には重景と先触れの少年だけが控え、若葉も兵衛佐のみを傍に置いて、二人は御簾(みす)越しに対面した。


 維盛はくつろいだ狩衣(かりぎぬ)姿であり、公式の場の姿しか知らない若葉の目には新鮮に映った。三か月振りの再会であるが、優しげな顔立ちと涼やかな声は相変わらずで、若葉が院の御所を離れてからも、その美貌の貴公子ぶりに変化はなかったようだった。


「お久しぶりです、従妹殿」


 軽やかな口調で挨拶が切り出され、それから牛車での移動はつらくなかったか、この部屋は若葉のために用意させた物だから好きに使うように、足りない物があれば何でも言って欲しいなどの、客人を迎えた主としての思いやりのこもった言葉が続いた。


 それらに対し、若葉は「ええ、大丈夫です」とか「ご親切にありがとうございます」など、簡単な言葉で答えていた。だが、話題が近頃の気候の具合に及ぶに至って、ついにしびれを切らした。扇をピシリと打って相手の言葉を遮る。


「色々とご親切にありがとうございます。……でも、恋人どころか、むしろ嫌っていらっしゃる私を、わざわざ小松殿へ迎え取ってくださったのは、一体、どういうわけですか?」


 貴族の姫君らしからぬ、さばけた態度と話の内容に兵衛佐が目をむく。維盛の口ぶりに初めて皮肉が混じった。


「結婚が決まって、少しはおとなしくなられたのかと思ったが、勘違いだったらしい。相変わらずですね」


「以前に申し上げた通り、心のこもらない言葉は大嫌いですの」


 言い返した後で、ふと過去の経験からの不安がよぎり、重景の顔色をうかがう。だが、維盛によほどきつく言いつかっているのか、忍の一字といった様子で、若侍(わかざむらい)は無表情のままだった。


「そちらも思っていらっしゃることを、はっきり言っていただきたいわ」


「なるほど。ならば、こちらも遠慮はいらないわけだ」


 危うく舌戦にもつれこむのを止めたのは兵衛佐だった。おろおろと口を挟む。


「うちには何のお話か、全くわけが分かりまへんえ。姫様と維盛様は恋人同士ではあらへんのどすか?」


「ごめんなさい、兵衛佐。私が悪いのよ。どうしても結婚が嫌で嘘をついたの。本当は恋人なんかいないわ。維盛様は父様が結婚を許しそうもないお相手だから、ちょうど良いと思って、お名前を勝手に借りただけなの。誰でも良いから恋人がいることにして、建春門院様に法皇様の御幸を止めていただきたかっただけなのよ」


 若葉に頭を下げられ、初めて事情を理解した兵衛佐は青ざめた顔で呟いた。


「うちはとんでもない勘違いを……」


「いや、女房殿は良く知らせてくれました。従妹殿、あなたに小松殿にお渡り願ったのは、嘘を真実とするためです。……僕の恋人になりませんか?」


 さらりと維盛に言われ、若葉はきょとんとなり、次にからかわれているのかと、頭に血が上った。


「私が誰にでもなびく姫だと思われたのなら大間違いよ。第一、あなたは嫌っている姫でも、恋人にできるの?」


「もちろん、僕にも女性の好みというものがありますよ。ただ、従妹殿はどうしても結婚なさりたくないようだし、駆け落ちする恋人もさしあたってはおられないようだ。だから、僕が恋人になろうと申し上げているんですよ。結婚が中止になるまでの(いつわ)りの恋人にね」


 維盛は若葉が苦し紛れに考えた策略を見抜いた上で、それに乗るつもりのようだった。


「法皇様との縁談が完全に中止になるか、他に結婚したいお相手ができるまで、姫は小松殿で暮らせば良い。できる限りの協力をしましょう。もっとも偽り以上の関係になるのはお断りですが、それは姫も同じ気持ちのようだから問題もないわけだ」


「それで、あなたの何の利があると言うの? 法皇様には建春門院様が嫁いでおられて、しかもお二人の間には帝もいらっしゃる。いまさら私一人が法皇様の寵愛を受けたところで、平家の政権に揺らぎ一つ起きないことくらい、私にも分かるわ」


 維盛の余裕たっぷりの表情に初めて動揺が見えた。扇を顔の前に広げると、ゆっくりと仰ぎながら、維盛は抑えた声で応じた。


「確かに姫のおっしゃる通りです。しかし、僕が案じているのは、あなたの父上のことです。法皇様の側近であり、信頼を得ておられる成親殿が、我ら平家一門といつまでもいがみ合っておいででは、後々まずいことも起こるでしょう。愛娘(まなむすめ)でいらっしゃる姫が僕と恋仲になったと知られたら、成親殿も変わられるのではないでしょうか?」


「父様が態度を変えるなんて考えられないわ。きっとかんかんになって怒るだけよ」


「でも、試してみる価値はある。従妹殿がお嫌だとおっしゃるならば、重景に命じて、お屋敷までもう一度、お送りしましょう。今ならば、抜け出したことが分からないうちに戻れます」


 若葉は黙りこんだ。維盛と組んで成親を騙すというのは、さすがに心苦かった。しかし、塗籠に戻るのは絶対に嫌な上、他に良策も思い当たらない。嫌々、確認を取る。


「法皇様との縁談が中止になったら、すぐに屋敷に帰してくださるわね?」


「それはすぐに。丁重にお送りしますよ」


「本当の恋人にはなりませんからね?」


「それはこちらの台詞(せりふ)だ」


 若葉は一呼吸置いてから、きっぱりと言った。


「分かりました。そのお話に乗らせていただきます」


「それは良かった」


 安堵したように維盛は小さく笑ったが、直ぐに真面目な表情に戻った。


「しかし、ことの全てが露見すれば、僕達は法皇様をたばかった罪で死罪をも免れないでしょう。このことは決して口外なさらないように。僕の家族にも恋人を引き取ったとだけ知らせておきます」


 重景や兵衛佐、先触れの少年にも口止めをすると、維盛はその少年を若葉に紹介した。


「この者は石童丸(いしどうまる)と言って、幼いながらも良く気のつく働き者です。どうぞ姫の傍仕えとしてお使いください。それと何人か女房を寄越しましょう。小松殿を第二の我が家とも思ってお過ごしください。僕もなるべく姫のもとへ顔を出すようにします」


 若葉は心のこもらない言葉は嫌いだと言ったが、小松殿での若葉の居心地を気遣うのは維盛の純粋な親切心のようだった。それに気づいた若葉はさんざん維盛をけなして来たことに、初めて良心の痛みを覚えた。


 無口になった若葉の態度を疲れと判断したのか、維盛は静かに立ち上がった。


「夜もだいぶ()けた。もうお休みになられた方が良い。……また明日、参ります」


 そのまま部屋を出て行こうとして、ふと立ち止まる。


「そうだ。大切なことを忘れていた。従妹殿、お名前を教えてください。恋人の名前も知らないとは、おかしな話ですからね」


 若葉は自分がそれまで一度も名乗っていなかったことに気づき、それから、名前も知らない姫を、平気で恋人にしようとする維盛に苛立ちを覚えた。


「……姫様!? 何をしはるんどす!?」


 兵衛佐が仰天して止めるのを振り払い、扇も持たずに御簾から出る。正面からずかずかと維盛に近づき、まっすぐ顔を向けた。目の端に石童丸が驚いて腰を抜かし、腰までは抜かしていないものの、やはり化け物が現れたかのような形相をしている重景が映ったが、構わず背筋を伸ばし、胸を張って立つ。


「私の名は若葉と申します。恋人の顔も知らないなんて、おかしな話ですもの。良く見ておいてくださいね」


 維盛はさすがにあっけに取られた顔をしていたが、やがて朗らかな笑い声を上げた。


「なるほど。僕はとんでもない姫を恋人にしてしまったらしい」


 笑みを含んだまなざしに見下ろされて、若葉の心臓が跳ね上がった。維盛の柔らかそうな前髪、優しい光を宿した瞳、凛々しい口元、全てがくっきり見える。身内以外の男性の顔をここまで間近で見るのは初めての経験だった。維盛は正面から若葉を見つめ、真剣な声で言った。


「どうして法皇様が、あなたを望まれたのかが分かった気がしますよ。春の若葉の名にふさわしい、輝くように生き生きと美しい姫君だ」


 そのまま「お休みなさい」と挨拶し、維盛は重景を伴って出て行った。


 次の瞬間、若葉はへたへたとその場に座りこんでいた。兵衛佐と石童丸が慌てて近寄る。


「恋人でもないお方にお顔を見せるやなんて、何てことをしはるんどす!」


 兵衛佐が怖い顔で若葉を叱りつけた。


「もうしないわ。……あんな人、大嫌い」


 吐き捨てるように宣言する。さもなければ、胸が痛くなるくらい心臓が波打っている理由を勘違いしてしまいそうだった。


 結局、兵衛佐のお説教は明け方まで続いた。


 翌日、昼も近くなった頃合いに、血相を変えた兵衛佐に揺り起こされ、若葉は寝返りを打った。


「姫様! 起きておくれやす! 大変どすえ!」


「……やだ。もう少し寝かせてよ。明け方まで眠れなかったんだから」


「何を呑気なことを! 大殿がここのお屋敷へ姫様を迎えに来はったんどすえ!」


「父様が……迎えに……。……なんですって!? 父様が私を迎えに来た!?」


 かけていた衣を、がばっと放り出し、飛び起きる。


「どうして父様が小松殿へもう来るわけ!?」


 兵衛佐は急いで若葉の支度を整えながら、傍に控えている石童丸をうながした。石童丸は子どもらしい声ながら、はきはきとした口調で状況を説明した。


「実は維盛様は今朝早く、姫様のお屋敷へ行かれて、姫様のお父上に姫様を北の方に迎えたいと直接、お願いなさったそうです」


 ちょうど成親の屋敷では、若葉が塗籠から消え、兵衛佐の姿も見えないことから大騒ぎになっていたらしい。成親の驚愕と激怒する有様が目に浮かぶようで、若葉は頭痛を覚えた。


「姫様のお父上はものすごく怒って、小松殿にすぐいらっしゃったみたいで、今も維盛様に向かって、姫様に会わせろと怒鳴っておいでです。維盛様がお父上も心配されておられるだろうから、とにかく姫様をお連れしなさいと命じられたので、それをお伝えに来ました」


「……うちは大殿に会わせる顔がありまへん」


 大事な姫を家出させて婚約させ、しかもそれが狂言であるという二重の責任を、兵衛佐は感じているらしかった。若葉は兵衛佐のためにも、自分がしっかりしなくてはと腹をくくった。


「父様に何か言われたら、私がかばってあげる。兵衛佐は何もしなくていいわ。維盛様と私で、昨夜決めた通りにするから」


 兵衛佐は弱々しくうなずいた。そして「お支度が終わりましたえ」と最後の仕上げに、若葉の手に扇を持たせた。


 若葉は石童丸に案内され、兵衛佐を伴って小松殿の回廊を渡った。昨夜のうちに嵐は去り、小松殿は陽光で満ちており、遣水(やりみず)の流れる音が耳に心地良い。すると、雰囲気を台無しにするような聞き慣れた怒声が向かいの対屋(たいのや)から響いて来た。怒声に途切れがないことから察するに、維盛は言いわけもせずに、じっと耐えているらしい。


 あまりの音量に几帳きちょうが小刻みに振動している部屋の外では、気難しい顔の重景が控えており、若葉達が通りやすいように、無言で出入り口から少し離れた。石童丸は成親の怒声に怯えた様子で、部屋の中まで入ろうとはしなかった。


 部屋の上座かみざには成親がおり、下座しもざに維盛が向かい合って座っていた。若葉と兵衛佐の姿を見た成親は少し安心した様子で、一旦、怒鳴るのを止めた。若葉は無言で維盛の隣へ足を進めたが、改めて成親の顔色をうかがうと、このままでは血管が残らずぶち切れるか、呼吸困難を起こしてひっくり返りそうな形相ぎょうそうをしていた。


「……父様、親不孝な娘をお許しください。でも、私と維盛様は恋人同士なんです。他の方のもとへは嫁げません。どうぞ法皇様方へ出仕のお話はなかったことにしてください。お願いします」


 精一杯しおらしく言って、深々と頭を下げる。その瞬間、成親の堪忍袋の緒が切れたようだった。


「この不良娘! 法皇様の思し召しがあるちゅうのに、よりにもよって、平家の若造わかぞうなんぞと一緒になりたいやと!?」


 成親の瞳にじんわりと悔し涙がにじんだ。男泣きに泣きながら言いつのる。


「親の言いつけもよう聞かん、頑固な娘やとは思うとったが、ここまで物の道理をわきまえへん、ど阿呆やったとは……。兵衛佐、お前がついていながら何をしでかしてくれたんや!」


「うちが悪いんどす。ほんまに申しわけございまへん」


 ひれ伏して詫びる兵衛佐を遮って、若葉は父に言い返した。


「兵衛佐は悪くないわ! 私は最初から法皇様との結婚は嫌だって、あれほど言ったのに、無理に結婚話を進めたのは父様でしょう!? 私が頑固なのは父様譲りよ! 私の話をちっとも聞いてくれなかった父様だってひどいわ!」


 他人の屋敷であることもそっちのけで、凄絶な父娘喧嘩が始まった。


「何やと!? わしはこんな娘に育てた覚えはあらへんぞ! わしの娘なら藤原の姫らしく、ちょっとは親の言うことを聞かんかい!」


「父様の出世の道具になって、好きでもない人と結婚して、政権争いに巻きこまれて、結局、飽きて捨てられるのが、藤原の姫の義務だって言うの!?」


「娘の幸せを願う親心が分からんのか!? 法皇様のお傍に上がる以上の幸福はあらへん!」


「勝手に私の幸せを決めないでよ! そんなに法皇様が好きなら、いっそ父様が法皇様と結婚すれば良いんだわ!」


 熱して来た二人は次第に立ち上がって怒鳴り合う。頭上で飛び交う言い争いを、維盛は半ば呆然と見送っていた。


「もう勘弁ならへん! わしと一緒に屋敷へ帰るんや! 母上がどれだけ心配しとると思うとるんや!?」


「嫌よ! 父様が法皇様との結婚を諦めるまで、私は帰りません!」


 成親は一歩踏み出し、強引に若葉の腕をつかもうとした。すかさず維盛が二人の間に割って入る。


「若葉姫をお渡しするわけには参りません。僕達は成親殿さえお許しくだされば、()き日を選び、小松殿にて所顕(ところあら)わしをするつもりです」


「良くも抜け抜けと! わしは侍崩れの成り上がり者を、婿にする気はあらへん!」


「……無礼な!」


 押し殺した声を上げ、さっと入り口の几帳を払いのけて入って来たのは、重景だった。


「維盛様はいずれ平家一門の棟梁(とうりょう)となられるお方。そのお方を(さげす)んで、生きて小松殿を出られると思うな!」


 太刀が引き抜かれる。重景の憎しみに溢れた瞳には明らかな殺意が宿っていた。鈍く輝く(やいば)に成親も顔色を変え、言葉を失った。このままでは父が殺されてしまうと、若葉は夢中で維盛の衣の裾を握り締めた。維盛は若葉を安心させるように一瞬、その手に触れた後、若葉と成親を重景からかばう形に体勢を変えた。


「その太刀を納めて、今すぐ下がれ、重景! ここは戦場ではない!」


「しかし、若君!」


「姫の目の前でお父上を手にかけるつもりか? そんなことは僕が許さない」


 維盛の強い口調に重景は悔しげに刀をさやに戻した。そのまま無言で一礼し、部屋を出て行く。その後ろ姿を複雑な表情で見送ると、維盛は改めて成親と向かい合った。


「重景のご無礼をお許しください。代わってどのようなそしりでもお受けします。……しかし、姫をお渡しするわけには参りません。その代わり、成親殿が二人の仲を認めてくださるまでは正式に結婚するつもりもありません。僕達は何年でもお怒りが解けるまで待ちます」


 維盛の冷静な態度に安堵すると共に、若葉はその策略に密かに感心した。男女の結婚とは、男性が女性のもとに佳き日を選んで三日間通い、三日目に所顕わしという披露宴を開いて、初めて正式に結婚したと認められる。だが、二人はもともと結婚の意志はないのだから所顕わしをするつもりもない。それを成親が許してくれないからとしておけば、言いわけも立つだろう。しかし、その言葉はますます火に油を注いだようだった。


「わしの娘を隠し妻扱いするつもりか!? 大事な姫を何やと思うとるのや!?」


「そう思われるのでしたら、どうぞ二人の結婚をお認めください」


 二人の間で火花が散った。双方共に一歩も引かず、にらみ合う。


 その時、回廊から衣ずれの音がした。維盛と成親は同時に振り返り、部屋に入って来た人物に声を上げた。


「母上?」


経子(つねこ)!?」


 それは重盛の現在の北の方であり、成親の妹でもある、若葉にとっては叔母に当たる女性、藤原経子(ふじわらのつねこ)だった。


「怒鳴り声が隣の対屋まで響いていましたわよ。……お久しぶりですわね、兄上」


 たしなめるように言って、経子は優雅に微笑んだ。重景がその後ろに控えている。どうやら重景は維盛に命ぜられて部屋から出た後、経子を呼びに行ったらしい。維盛が重景をにらんだ。


「母上のお手をわずらわせるなと命じておいたはずだ」


「あら、重景を叱ることはないわ。知らせを受けて喜んで参ったのよ。こちらから兄上に申し上げたいこともありますからね」


 経子の一点も曇りのない、堂々とした態度に、さすがの成親も居心地悪げにしている。経子は成親に向き合うと、ゆったりと頭を下げた。


「姫を維盛殿にくださってありがとうございます。なさぬ仲とは言え、維盛殿はわたくしにとっても大事な息子。良き姫をめとって欲しいと常々、願っておりましたの。兄上の姫ならば、これ以上にない良縁ですわ」


「な、何を言うんや! わしは結婚なんぞ認めてへんぞ!」


 経子に対しては成親の怒鳴り声もかなり衰えた物となる。経子は扇を口元に当て、大げさに驚いてみせた。


「あらまあ。夫の重盛もこの結婚をたいそう喜んで、法皇様、建春門院様にもご報告をしなければと出かけたところですのよ」


「なんやて!? 法皇様にご報告やと!?」


 成親は文字通り飛び上がった。


「あかん! そないなことをされたら、三か月の苦労が水の泡や!」


「……あら、兄上、どちらへ?」


「どこでもええやろ! ええか、若葉! わしはこんな結婚は絶対に認めへんからな!」


 捨て台詞を残して成親は部屋を出て行き、回廊を慌ただしく駆ける足音と、「院の御所へ向かうんや! 急げ!」と供の者に命じている声が聞こえ、やがてそれも静かになった。


 成親がいなくなると、途端に屋敷が静まり返ったような錯覚に、若葉は襲われた。気が抜けた状態になっている若葉に向かって、経子はにっこり笑った。


「もう大丈夫よ。兄上のことですもの、法皇様に言いわけするのが忙しくて、しばらくは小松殿にもいらっしゃれないでしょう」


「でも、父は短気ですし、院の御所で重盛様にお会いしたら、喧嘩になるかもしれません」


 心配する若葉に、経子と維盛は顔を見合わせて笑った。


「あれは嘘よ。夫は昨夜から内裏だいりの宿直(とのい)で、徳子姫(とくこひめ)のもとへいるわ。あなたが小松殿へいらしたことも知らないの。だから、院の御所で兄上と会うこともありません」


 若葉はホッとして肩の力を抜いた。同時に、何のことかさっぱり分からない法皇相手にしどろもどろの言いわけをしている父の姿が目に浮かんで苦笑する。法皇も成親の様子から若葉との結婚話が上手くいっていないことを理解されるだろうし、結婚が中止になるのも時間の問題と思われた。


「それにしても、突然、維盛殿から恋人を迎え取りたいと言われて、しかもお相手があなただなんて、本当に驚いたわ。お部屋の住み心地はいかが? 急いであなたの部屋を用意したので、至らないところもあるでしょうけれど、ごめんなさいね」


「では、あのお部屋は叔母様が用意してくださったんですか?」


 問いかけるように維盛を見ると、困ったような声音で答えが返って来た。


「女性をお迎えするなんて僕も初めてだから、何を用意したら良いかも分からなくて。だから、母上にお願いして部屋を整えていただいたんだ」


 恋多き光源氏に例えられる維盛のうぶな一面が見えた気がして、若葉は頬が自然とゆるむのを感じた。経子も優しく微笑んでいる。楽しげに笑い合っている叔母と姪の間で、維盛は何となく憮然としていた。


 経子は若葉を小松殿に迎え入れたことを、内裏の重盛に使いを送って知らせねばと言って、部屋を出て行った。


 経子が去ると、触れ合うほど近くに並んでいた若葉と維盛は、お互いにさりげなく距離を置いた。維盛は、成親とのやり取りが相当、こたえたようで、ぐったりと脇息(きょうそく)にもたれている。さすがに申しわけない気持ちに襲われ、若葉は口ごもるように謝った。


「父様が失礼なことばかり言ってごめんなさい。頑固だけれど、私にとっては優しい父なの」


「分かりますよ。姫は良い父上をお持ちだ」


 皮肉を投げつけられると覚悟していた若葉は、維盛の素直な口ぶりに面食らった。


「成親殿が姫を大切にしておられるのが良く分かりました。そして、姫もお父上が本当にお好きなのですね。本気で喧嘩ができるのは仲の良い証拠だ。僕は姫が羨ましい」


「でも、維盛様にも立派なお父様がいらっしゃるでしょう? 重盛様のことは誰もがほめたたえておられるわ」


 維盛の表情が曇った。悲しげな瞳はどこか遠くを見つめているようでもあった。


「父上は常に正しくあろうとなさる方だ。僕も父上のようでありたいと思う。でも、父上にとって大切なのは正しいことであって、そのためなら愛情も……家族すらもきっと切り捨ててしまわれる。それが分かるから、僕は時々……つらくなる」


 穏やかな重盛と、それにつき従っていた維盛の院の御所での姿を思い起こし、若葉は二人の間に他人は気づかない(みぞ)があったことに驚いた。


「余計なことを言って、ごめんなさい」


 沈んだ調子で謝ると、維盛は驚いた様子で瞳を見開いた。その表情にいたずらっぽさが戻って来る。


「姫がそんなに素直では、こちらの調子も狂ってしまう。いつもの悪口はどうしました?」


「失礼ね! 悪口を言って欲しいなら、そうおっしゃってください!」


 腹を立てて言い返すと、維盛は先ほどとは打って変わった朗らかな笑い声を上げた。若葉は一瞬でも彼に同情した自分を恨めしく思った。


 内裏から戻った重盛は真っ先に、維盛と若葉を呼び出した。そして、問題としたのは、所顕わしをいつにするかということだった。


「しかし、成親殿はまだ僕達の仲を認めておられません。舅殿(しゅうとどの)が許してくださらない限り、所顕わしをすることはできません」


 維盛の主張に重盛は難色を示した。


「近々、泉殿で内輪の花見の宴が行われることは分かっているだろう。一門全てが集う宴席で、北の方の紹介もできないようでは、維盛、そなたがいらぬ恥をかく」


 二人は絶句した。一門の者に紹介するということは、維盛と若葉の結婚を正式に披露するのも同じである。それでは、あくまで偽りの恋人同士であり、若葉の結婚話が中止になり次第、別れるつもりの二人にとっては都合が悪い。かと言って法皇方への出仕を蹴ってまで引き取った恋人を、維盛が一門に紹介しないというのも妙な話だった。


 無言のままの二人に、何を思ったのか、重盛は額に深いしわを寄せた。


「私はそなた達の結婚自体をとやかく言うつもりはない。しかし、維盛はいずれ平家一門の棟梁となるべき身、姫には北の方として維盛を支えていってもらわなければならない。その責任だけは二人共、忘れないでもらいたい」


 重盛の言葉は二人に重くのしかかった。清盛の嫡孫(ちゃくそん)としての立場が維盛にはある。しかし、若葉にも都合という物があった。


 重盛のもとを辞去した後、維盛はいかにも困った様子でため息をついた。


「花見の宴のことを忘れていた。姫のことは一門にもすぐに知れ渡るだろうから、下手に隠しだてするわけにもいかない。……いっそ急な病にかかっていただこうか」


「仮病なら慣れているけれど、かえって変に思われないかしら?」


「下手に姫を紹介した方が後で困る。引き取って披露までした女性に、あっさり振られた男と後々、親戚中に後ろ指を指されるのは勘弁して欲しいな」


 遥か先を見越している維盛に、若葉は自分はどうするべきかを考えこんだ。


「宴までずっと伏せっていましょうか?」


「いや、宴には出る振りをしないと、父上が不審がる。伏せるのは直前にしていただこう。言いわけは僕が何とかしますよ。……お元気な姫には気の毒だが、よろしくお願いします」


「分かったわ」


 二人は共犯者の表情でうなずき合った。

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