第一章 殿上の淵酔の宴(てんじょうのえんすいのうたげ)
第一章 殿上の淵酔の宴
みぞれまじりの風に乗って、にぎやかな宴の音楽が届けられる。正月恒例の殿上の淵酔の宴は、後白河法皇始めとし、その妃の建春門院である平滋子、また多くの殿上人も参列して、華やかに行われ、院の御所内でこの宴に参列しない者など一人もないように思われた。
建春門院に仕える女房の一人、権中納言である藤原成親の娘、若葉は静まりかえった局でため息をついた。わざと休んだ宴だったが、女房の全てが出払ってしまうと、さすがに退屈である。だが、女房仲間に体調が優れないと嘘をついてしまった以上、いまさら宴席に加わることもできない。若葉は活発な気性の上、賑やかなことが大好きであり、宴の最中に臥し所に 一人、横になっているのは、この上もない苦痛だった。
もともと院の御所の女房では美人で通っている少女である。臥し所に広がる烏の濡れ羽色の髪はさらさらと長く、肌は透き通るような白さ、大きい瞳は温かで真っ直ぐな光を宿し、桜色の唇からは愛らしく澄んだ声がこぼれる。若葉の欠席を聞いて、無念がる公達も少なくはないはずだった。
しかし、休むだけの理由はあった。宴に出席すれば、建春門院のお気に入りの女房である若葉は当然、主の傍にはべることになる。そして建春門院の隣には夫たる後白河法皇がお座りになる。若葉が宴を休んででも会いたくないのは、恐れおおくも法皇その人だった。
若葉が後白河法皇の側近、藤原成親の娘であるためか、はたまた母親譲りの美少女であるためか、どういうわけか、法皇は若葉を気に入っており、傍近くに寄せたがるのである。冗談めかしてではあるが、法皇づきの女房にならないかと仰せつかったこともある。その時は若葉も冗談にかこつけて断った。しかし、仮にもお仕えする女主人の夫であり、法皇として日本国の頂点に立つ人物を、御所の女房に気軽に声をかける、そこらの公達と一緒に扱うわけにもいかず、若葉は法皇と会う機会を減らすように心がけていた。
女房仲間には法皇の愛人になれば、安楽に暮らせる上に一族の栄達も間違いなしなのにと、法皇を避ける若葉の行為を不思議がる者もいた。父親の成親も法皇の愛を一身に受ける建春門院の存在や、娘の年齢が若すぎることをはばかって、若葉が法皇の思し召しを拒むことに目をつぶっていた。だが、この正月で若葉も十四歳である。そろそろ結婚を考えても良い年齢となると、父も若葉の法皇方への出仕を本格的に計画しないとも限らなかった。
若葉はお仕えしている建春門院が大好きで、心から尊敬していた。もともと宮仕えの女房であった建春門院は、自分に仕える女房達に人生の先輩として、時に優しく時に厳しく、愛情を持って接してくれた。そんな女性と法皇を挟んで寵愛を競うなど若葉は考えたくもなかった。また後白河法皇と建春門院が深い夫婦愛と信頼関係で結ばれているのを、傍仕えの女房として熟知している身で、一時の気まぐれと分かり切っている法皇の寵愛にすがる気にもなれなかった。
そもそも法皇は今年で四十七歳。建春門院との間に誕生した皇子は、今は即位して帝となられているが、若葉と同い年であらせられる。若葉は結婚するなら、若くて素敵な公達の正妻になると心に決めているのだ。
しかし、建春門院に仕えながら、その夫たる法皇を避けるにも限界があり、あまり誘いを断れば、不敬罪として一族にまで累が及ぶ危険もあった。建春門院や女房仲間と別れるのはつらいが、誘いが法皇の冗談で済んでいるうちに、御所を退出して実家に帰らねばと若葉は考えていた。
今日の宴には父の成親や兄の成経も出席している。仮病で宴を休んだと知れたら大目玉だと首をすくめた時、誰かが回廊を急いで来る気配がした。仲の良い女房が慌てた様子で若葉を呼ぶ。少女は寝ていた風を装い、ゆっくりと問いかけた。
「そんなに慌ててどうしたの?」
女房はしとやかさも失って、おろおろと告げた。
「大変どす! 権中納言はんが平相国はんと大喧嘩しはって、倒れはりました!」
平相国(へいしょうこく)とは、時の権勢を誇る平家一門の棟梁、平清盛のことである。現在は出家して、僧籍にある太政大臣として入道相国と呼ばれていた。清盛の正妻、時子は建春門院の姉に当たるため、建春門院のご機嫌うかがいに参上する清盛の姿を若葉も見ている。年齢的には清盛は若葉の祖父と同年代だが、豪胆さが御所でも噂されている老武者と、出陣の経験もあるとはいえ、根っからの貴族育ちの成親では、喧嘩の勝敗は見え透いている。数珠を繰るより太刀を握っているほうが、よほどふさわしい清盛のごつい拳と、張り飛ばされる父の姿を想像して、一気に若葉の血の気が引いた。
「父様はどこ!? すぐ行くわ!」
立ち上がった若葉の脳裏からは、仮病を使っていることは消え失せていた。
宴の席から少し離れた部屋に寝かせられていた成親は、腰を押さえてうなっている以外は、元気そうに見えた。
「まったく人騒がせなんだから。倒れたと聞いた時はすごく心配したのに、ぎっくり腰ですって? 宴席で口喧嘩なんかするから罰が当たったのよ」
薬師の調合した薬湯を差し出しながら、若葉は文句を言った。取る物もとりあえず駆けつけて、くわしい事情を聞いてみれば、口論に夢中になって立ち上がった途端、ぎっくり腰でひっくり返ったと言われたのだ。心配しただけに腹が立って来る。また薬師が大したことはなく、しばらく寝ていれば治ると断言した安心感もあった。穏やかな性格の兄の成経が一緒にいれば、若葉の歯に衣着せぬ言い様を止めただろうが、あいにく動けない成親の代わりに、宴の主催者である法皇のもとへ、宴を騒がせたお詫びを言いに行っているところだった。薄情な娘の言葉に、成親は恨めしげな顔をした。
「お前には侍ふぜいの下座につく気持ちは分からんのや。清盛め、年長ぶって威張りおって。侍崩れの成り上がり者の分際で……」
「父様より年上なのは本当のことでしょう。そんな言い方は止めてよ」
若葉は際限なく続きそうな父の愚痴を止めた。
「父様の妹の経子叔母様は、清盛様の長男の重盛様に嫁いでいるじゃないの。昔は父様と重盛様はとても仲が良かったと母様も言っていたわよ」
「わしは重盛が一等、嫌いや。さっきも『和をもって貴しとなす』なんぞと抜かしながら仲裁に入りおった。聖人ぶって嫌味な奴や」
かつて重盛が宮中に出仕したばかりの時、先輩格の成親はなにかと面倒を見て、親しい間柄だったと若葉は聞いていた。だが成親は先の平治の世の戦で、藤原信頼に加担して平家側と戦い、敗れた。捕えられて殺されるところを、重盛の嘆願により救われたのだと聞く。その時から、成親の胸の内には平家に対する深い遺恨の念が巣食うようになったのである。
なおもぶつぶつ言う父に、薬椀を押しつけて黙らせると、若葉は「やれやれ」と肩をすくめた。
その時、先触れの声がして、平重盛が成親の見舞いにやって来たことを告げた。成親の機嫌がさらに下降する。しかし見舞いに来たという相手を邪険に扱うこともできず、若葉に部屋の奥に下がるよう、ぶっきらぼうに命じた。若葉は素直にうなずき、几帳の奥に滑りこんだ。
重盛は衣ずれの静かな音と共に現れ、成親の枕元に座った。いたわりの声で尋ねる。
「成親殿、お体の調子はいかがですか?」
思慮深いと評判の彼の顔立ちには穏やかさが表れ、それでいて立ち居振る舞いには隙がなく、清盛の嫡男として次代の平家一門を背負うにふさわしい人物と思われた。対する成親とて法皇の側近にふさわしい典雅さを持っているのだが、重盛の堂々とした有様には、今ひとつかなわないと、娘の若葉も認めざるを得なかった。
成親がいつ喧嘩を吹きかけるかと冷や冷やしながら几帳の奥から覗いていた若葉は、重盛の後から姿を見せた人物に息を飲んだ。重盛の長男である維盛が現れたのである。
重盛は維盛に「見舞いの品を差し上げるように」とうながした。維盛は涼やかな声で口上を述べ、傍に控える成親の家の家司に、見事な衣を手渡した。
重盛の長男と言っても、成親の妹が生んだ子ではないので、維盛と若葉に実質上、血のつながりはない。だが、維盛は院の御所でも知らない者はない貴公子だった。輝くような美貌、そして舞、笛の才は物語の光源氏そっくりだと言われ、「桜梅少将(おうばいのしょうしょう)」とあだ名されて、女房達の憧れの的となっていた。若葉自身は平家一門を快く思っていない父への遠慮もあって、平家を名乗る者とは距離を置くようにしていたが、改めて間近くで見ると、維盛の美しさがさらに華やいで見えることには、つい心を動かされた。得てして、整いすぎた美貌は冷たさも漂わせる物だが、穏やかさの中に鋭さを持つ重盛とは対照的に、維盛は凛とした美しさの中にも、優しさがこぼれるようだった。
若葉の衣に焚きこめられた薫りに気づいたのか、維盛の視線がふと几帳の奥に向けられた。慌てた若葉はいつのまにか自分が身を乗り出して、のぞき見にふけっていたことに気づいた。かあっと頬が熱くなり、袖で顔を隠す。女性らしいたしなみを重んじる建春門院のお傍なら、叱責されているところだ。だが、再び重盛の声が聞こえ、心配な気持ちと好奇心から、もう一度、成親達の様子をうかがった。今度は維盛の目は成親と重盛に向けられており、のぞき見に気づいた気配もない。安心した若葉は心おきなく成親と重盛のやり取りを見物することにした。
「先ほどは父がたいへん失礼をいたしました。代わって深くお詫び申し上げます」
重盛が頭を下げると、成親は拗ねた調子でむっつりと答えた。
「重盛はんに謝ってもらう必要はあらへん。相国はんはわしがお嫌いなんや。先の平治の戦でわしが敵方に立ったことを、いまだに根に持ってはるんやわ」
「そのようなことはございません。妹姫をめとって以来、私は成親殿を実の兄上とも思っております。そのように縁あるお方を平家の者がどうしてうとんじましょう。どうぞお怒りをお静めください」
ねちねちした父の言い草と爽やかな重盛の応対に、これは父が圧倒的に歩が悪いと若葉はこっそりと思った。成親も戸惑った様子で少し声が小さくなる。しかし、これだけは譲れないと言い張った。
「そもそもはわしと相国はんの問題。重盛はんが謝罪に来はるのは筋違いや。ほんまに悪いと思ってはるなら、相国はんがここに来はったらよろしおす」
若葉がはらはらと見守っていることも知らず、成親は唇を一文字に結んだ。若葉は宴席での口論の内容は知らないが、酒の席での喧嘩など、どちらが特に悪いわけでもないだろうと推察していた。第一、太政大臣の地位にある清盛が、格下の成親のところへ謝罪に来るはずもない。それと分かっていながら重盛が見舞いに来たのを良いことに、駄々をこねる父は充分、子どもじみて見えた。
しかし重盛は慌てることもなく「ごもっとも」とうなずいた。
「私が不肖の身で、我がまま勝手な父をいさめることができないために、成親殿のご不興をこうむりました。兄にも等しい成親殿のお怒りをそそぐこともできないなら、今、ここで出家して、せめてものお詫びとさせていただきます」
真っ直ぐに成親を見据えた重盛の瞳の強さに、几帳の奥の若葉までが寒気を覚えた。重盛は本気だった。しかし、敗北者として頭を下げているのではなく、むしろその視線は政界の中心人物たる己を出家させるだけの理由が、今の成親にあるのかと問いかけていた。
法皇の側近である以上、成親も後白河法皇と平清盛の仲を取り持っているのは、ひとえに法皇の建春門院への愛情と、荒ぶる清盛を陰ながら抑えている重盛の存在だと、熟知している。重盛もそれを知りながら、あえて出家という切り札を出したのだった。
成親はうめき声を漏らし、黙りこんだ。やがて彼が発した言葉は気弱な物だった。
「どうせ酒の上での戯言や。重盛はんが出家しはるまでもあらへん。わしもええ加減飲み過ぎたようや。全てなかったことにしてかまいまへん」
言葉とは裏腹に苦々しい顔つきの成親を見て、気位の高い父が非を認めるなど、内心はさぞかし怒り狂っているだろうと、若葉にも想像がついた。重盛の「成親殿の広いお心に感謝いたします」という言葉がしらけて響く。
重盛はさらに「くれぐれもご自愛ください」などと述べた後、病人の部屋に長く居座るわけにいかないと辞去する旨を告げた。あからさまに安堵の表情を浮かべて、重盛と維盛を送り出した後、成親は再び腰を押さえてうめき出した。
「父様、大丈夫?」
「あかん。あいつらの顔を見て、腰の痛みが悪化した」
几帳から出た若葉は、父に皮肉を言う元気が残っていることに安心すると同時に、気の毒にもなった。誇り高い父の鼻柱が折られるのを目撃しては、当人が招いた種だと分かっていても、娘として良い気分はしない。気を取り直して、家司から衣を受け取る。
「重盛様からのお見舞いはどうするの? 成経兄様が法皇様のもとから戻ったら預けましょうか?」
「そんな物は見とうない」
成親は口をへの字に曲げた。
「今すぐ行って返して来なはれ。わしは絶対に見舞いの品なんぞ受け取らへん」
「私が返しに行くの? そんなの嫌よ。返すくらいなら最初から受け取らなければ良かったのに」
家司が助けを乞う目で若葉を見た。彼の身分では直接、重盛に話しかけ、見舞いの品を突き返すなど許されない。しかし今の成親の機嫌ではどんな無理難題でも言いつけられかねなかった。成親の言いつけに従わなければ首にされるし、平家の公達に無礼を働いたとあっては、文字通り首が飛ぶ。若葉は仕方なく衣を受け取って立ち上がった。
「分かったわ。重盛様には私から申し上げて、この衣はお返しして来ます。そうすれば父様も満足でしょう?」
成親は寝床で衣を頭まで引きかぶり、返事をしなかった。若葉は自分の姿を見下ろして目まいを覚えた。身分の高い人と対面する時に身につける裳はかろうじてまとっているが、とても正式に宴にお邪魔できる物ではない。建春門院のお目に留まれば、すぐさま局に退出を命じられるだろう。しかし、局に戻って着替えていては、その間に重盛が院の御所を退出してしまうかもしれない。重盛達がまだ宴に戻っていないことを祈りながら、後を追うしかなさそうだった。
幸い重盛と維盛は宴の間に近い回廊でたたずんでいた。若い女房が足早に追って来たため、二人は驚いた様子で振り返った。若葉は丁寧にお辞儀をし、自分が成親の娘であることと見舞いの品は受け取れないことを丁重に述べた。
「薬師も大したことはないと申しておりますし、お気遣いは無用でございます。どうぞお納めください」
若葉の口上の途中で、何かに気づいたように維盛が扇で口元を隠した。笑いをこらえている様子だった。
「あなたが先ほど几帳の奥におられた女房殿か……」
重盛も苦笑するところを見ると、若葉ののぞき見はやはり二人に気づかれていたらしい。恥ずかしさに赤面すると共に、若葉の持ち前の気の強さが頭をもたげた。
「父をあそこまで見事にへこませておしまいになられたのですから、お見舞いの品など不要なことはお分かりのはずですわ。父の気持ちも汲んでください」
維盛は戸惑ったように重盛を見たが、重盛は落ち着いた口調で答えた。
「これは心外なことをおっしゃる。しかし、成親殿がどうしてもお受け取りにならないのであれば、一旦はこちらが納め、後ほど我が北の方より兄上へのお見舞いとして、改めて差し上げましょう。それならば差し障りもございますまい」
見舞いの品を突き返されることを予想していたとしか思えない、見事な切り返しだった。成親の性格は重盛に完全に見抜かれているようだった。絶句してしまった若葉に重盛は優雅に微笑みかけた。
「姫君は我が屋敷に来られたことはございましたかな? 物詣などの際にはぜひ小松殿にお立ち寄りください。北の方の経子もきっと喜ぶでしょう」
毒気が抜かれて立ちすくむ若葉に一礼し、重盛は宴席へ戻って行った。残された維盛は父が去るのを無言で見送り、困り顔で少女を見下ろした。
若葉とは二歳違いの十六歳。美々しい青年ぶりを見せる維盛は、若葉より頭一つ半は高い。維盛はなぜ重盛の後を追わないのだろうと考えて、若葉は返すはずの衣を抱きしめたままだったことに気がついた。慌てて衣を差し出す。
衣を受け取った後も維盛はその場を動かなかった。青年は優しげな瞳を曇らせ、ためらいがちに口を開いた。
「祖父と父のご無礼、重ね重ねお詫び申し上げます。父は決して成親殿をおろそかに思っているわけではないのです。むしろ大恩あり、縁ある方として大切に思うがゆえに……」
若葉はその言葉を途中で遮った。
「心のこもらない謝罪のお言葉なら、もうたくさんです。父がなぜ重盛様を苦手とするのか、分かる気がします。自分の行動や考えが全て見透かされるなんて嫌なことですもの」
「相手の行動を常に予測し、先手を打つのが政治というものでしょう。成親殿も当然なさっておられること。女人の姫君にはお分かりにならないでしょうが」
苛立たしげに維盛の放った言葉は、院の御所という政治の中枢部に勤める女房としての矜持を刺激した。
「失礼な。私は建春門院様の傍近くにお仕えする藤原の姫です。政治のことが全く分からないと思ったら大間違いです」
たかだか十四歳の行儀見習いの女房が、政治の奥向きに首をつっこめるわけもないのだが、すでに若葉のはらわたは煮えくり返っていた。彼女はまだ短気でむかっ腹を立てやすい性格が、父親譲りだと気づいていなかった。しかし若葉が驚いたことに、維盛の表情には怒りではなく傷ついた色が浮かんでいた。
「従妹殿、あなたも成親殿と同じか。縁組をしても内心では、我ら平家を新参者よ、侍崩れよと嘲笑っている」
喧嘩を売った相手は、いずれは清盛、重盛の跡を継ぎ、平家一門を支える棟梁となるべき身分の人物であることに、若葉は初めて思い至った。
「相国様にお言いつけになられるおつもりですか? そうなったら私も父様もおしまいですわね」
「法皇様の側近でいらっしゃる成親殿と表だって対立すれば、院の御所での我が一門の立場に響く。そんな愚かなことはしない。それが政治的配慮というものでしょう?」
皮肉たっぷりに「安心しましたか?」と問われ、若葉は顔を隠していた扇をピシリと打ち鳴らした。
「大した光源氏ね。御所の女房がどうしてあなたのような方に夢中なのかが分からないわ。はっきり言って最低の性格」
「これは気が合うね。僕もあなたのように、ずけずけと物を言う女性は大嫌いだ」
この時、回廊の下の庭先から声がかからなければ、若葉は維盛をひっぱたいていたかもしれなかった。
「若君、重盛様がお呼びです。法皇様が若君の笛を一曲、ご所望とか」
庭先で片膝をつき、頭を下げているのは維盛と同い年くらいの若侍だった。平家の家人なのだろう。武士らしい無骨な顔立ちに生真面目な性格がうかがえた。
「ありがとう。すぐ行く」
維盛はそれまでの取り繕った表情とは異なり、素直な微笑みを若侍に向けた。『こんな優しい笑顔も作れるんじゃないの』と、なんとなく面白くない思いを抱いた若葉は、若侍の自分を見る険しい顔つきにドキリとした。若葉が維盛に手を上げかけたことに気づいていたのだろう。その右手は拳の形に握られており、主を守る忠実な侍そのものとして、維盛を侮辱する者には遠慮なく腕を振るうと思われた。侍の仕草に気づいた維盛は静かな、しかし強い口調でたしなめた。
「重景、無礼だぞ。ここは院の御所。しかも、この姫は母上の姪御に当たられるお方だ。失礼を謝りなさい」
重景と呼ばれた侍は不満げに肩を怒らせたが、不承不承、固めた拳を解き、深く頭をたれた。即座に若葉が維盛に言い放った。
「家来には謝らせても、あなたは謝ってくださらないの?」
「姫が謝ってくださるなら、僕も謝りましょう」
若葉は歯を食いしばった。
「誰が謝ったりするものですか」
「僕も同感だ。つくづく気が合うようだね」
若葉が再度「あなたって最低!」と怒鳴る前に、維盛は身を翻した。気に食わない相手ではあるが、重景を連れて立ち去る動作は、まるで舞の所作のように優雅だと、若葉はぼんやりと考えながら、その背中を見送った。
成親が寝ている部屋に戻ると、少し機嫌の直った様子で父は起き上がった。
「どないした? 返して来れたかいな?」
叔母経由で戻って来ることは言わず、若葉はあいまいにうなずいた。それから最近ずっと、胸の内に温めていた言葉を口に出した。
「父様。私、そろそろ院の御所を退出したい。いつまでも女房仕えをしているわけにもいかないし」
何を想像したのか、成親は満面に喜色を浮かべ、大きく何度もうなずいた。
「さよか。あんたももう十四歳。そろそろ結婚を考える年齢や。よう言うておくれやった。そうと決まれば何かと支度をせんとあかん。忙しくなりよるわ」
「建春門院様や女房のお友達に会えなくなるのが寂しいけど……」
「何を言うんや。じきにまた会え……いやいや、文を書けばええやないか」
父に聞こえないように若葉は「これで会わずに済むわ」と呟いたが、それが果たして後白河法皇を指しているのか、それとも平維盛を指しているのか、若葉本人にも分からなかった。
みぞれはやがて雪に変わり、院の御所は純白の沈黙に沈みこんでいった。