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羊の島  作者: 羽田矢国
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「様子は?」

「眠っています」

 1520号室のベッドの上に、小柄な青年が転がされていた。左腕の肘のあたりから半透明の管が枕元の点滴スタンドへ伸びている。パックの中には色のない液体。

「・・・麻酔が効いていますから、あとしばらくはおとなしいと思いますが・・・いつまでもつか」

 高柳の秘書は、きれいにマニキュアを塗った指で佐藤の頭を撫でた。

「取り押さえるのが大変でした。五人がかりで注射して、やっと」

「それはそれは。・・・しかし麻酔とは、ね。動物扱いじゃないか」

 ポケットに手を入れたまま、高柳は佐藤を見下ろして言った。

「違いましたかしら・・・」

 秘書はキャビネットに載せてあった大型のクリップボードを高柳に渡した。後ろを向くと、ほっそりした脛の部分でストッキングが伝線しているのが見える。「五人」の中に秘書嬢も入っているのだろう。

「今までと変わりません。・・・健康ですね。ただ「鈴木」のことで動揺しています」

「・・・誰が話したんだ」

「課員の話を聞いていたようです」

「まったく・・。まあいい。ご苦労だった。部屋で休んでくれ。あとは私がみるから」

「課長こそお休みになったほうがよろしいんじゃありませんか」

「麻酔が切れたときに、君に彼を捕まえる自信があるかな」

 転がったまま動かない佐藤を見やって、高柳は笑った。秘書も少し笑い、一礼して部屋から出ていった。

 空気に彼女の匂いだけが残っていた。甘い香り、フルール・ダンテルディ。


「・・・課長より、むこうに残ってほしかったですね・・・」

 秘書の気配が遠くなってから、佐藤が口を開いた。しっかりした口調。

「目が覚めたか」

「始めから覚めてます。ただ、これ以上色々刺されたくなかったので」

 佐藤は寝たままの姿勢で点滴の針を腕から引き抜いた。傷口からじわじわと出血してくる。高柳がハンカチを差し出すと、当然といったようにそれを腕に当てた。

「麻酔も効かないのか」

「残念ながら」

「・・・島田は帰った」

「知ってます」

「お前のことを気にしていた」

「・・・・・・」

「東京にいる間に面倒を起こさないでくれ」

「面倒?」

「逃げようとしたり、・・・外部に連絡を取ったり・・・」

「大事な「研究員」ですからね」

 佐藤は高柳ではなく窓の外を眺めながら喋っていた。腕を押さえたハンカチの表面に血が滲んできている。

「そういう言い方をしないでくれ」

「大事じゃないですか。・・・「鈴木」が死んだ以上、もう僕しか残っていないんですよ」

「佐藤」

「・・・「鈴木」はあなた達が殺したんです。「鈴木」だけじゃない、他に何人殺しました?「山本」も「近藤」も「沢田」も・・・みんな殺された」

「自殺だ」

「理由を作ったのは滝沢製薬でしょう。彼らが生きるのに絶望するような」

 開かない窓の外には西新宿の夜景が広がる。

「・・・大丈夫ですよ。僕がいなくなっても羊がいます。羊の実験結果なら滝沢は堂々と公開できます。I医大との共同研究も、羊を使っているんですから。いっそ僕もいないほうが会社にとっては後々都合がいいんじゃないですか?」

 佐藤は半ば俯せのまま背中を丸めてくすくすと笑った。枕に埋まって顔は見えなかったが、肩を震わせていつまでも笑い続けた。

「佐藤」

 高柳が佐藤の肩に手を掛けた。冷たく華奢な身体。パーツの全てが少年の持ち物のように細く脆い。

「・・・出ていってください」

 高柳の手を振り払い、佐藤は低く言った。

「死んだりしませんよ。・・・ひとりにしてください」

「・・・佐藤」

「お願いですから」

「・・・許してくれ」

「いまさら」

 ドアが背後で閉まる音を聞きながら、佐藤は呟いた。

「・・・あなたの前任者も同じ事を言いましたよ」



 時刻は午前二時。

 血の染みたハンカチをベッドに残し、佐藤は部屋を出た。

 隣室には高柳がいる筈だったが、さっきの様子ではまさか佐藤が逃げるとは思っていないだろう。

 他の課員は高柳が佐藤の見張りをしていると信じている。

「死なないとは言いましたけどね・・・」

 ・・・逃げないとは言ってない。

 足音の立たない絨毯敷きが有り難い。

 人気のない館内を足速に通り抜け、外へ出る。不思議そうな顔をするドアマンににっこり笑って手を振り、タクシーには乗らずに歩いて道路を西へ進んだ。

 遠くへ行くつもりはない。

 ただ、頼みの綱は一本だけだ。



 「島田は今日は来てへんけど」

 翌朝、渋谷の交番からかけた電話にはかすれ気味の関西弁の男が出た。

 童顔でおとなしそうな佐藤が、財布を忘れたので電話を貸してくれと頼むと、警官は疑いもせずに許可をくれた。

 今頃第七課は大変な騒ぎになっているかもしれないが、表立っての捜索はまだ後だろう。せいぜい駅や立ち寄りそうなところを手配している程度だ。

「もしかして、佐藤さん?」

 関西弁は佐藤を知っていた。

「いま、どこにいるの」

「・・・・」

「さっき、会社の人が来とったけど、島田がおらんて知ったらさっさと帰らはったで。・・・昨日なんかあったんか。島田あんたの所行きよったやろ」

「・・・あの」

「あー?」

「いま、渋谷の交番にいるんです」

「なんや、捕まったんか」

「いえ、その・・・」

「あ、・・もしかして金ないのん」

「はい・・・」



 しばらくして迎えに来た片瀬に電話代を立て替えてもらい、佐藤は片瀬の車の助手席に乗り込んだ。

 佐藤は片瀬を知らなかったが、他に頼りはない。このまま滝沢製薬に連れていかれる可能性もないわけではない。

 ・・・その時はその時だ。

 開き直った佐藤を載せて、片瀬のフィアットは走り出した。


「島田、家で寝とったわ」

「・・・そうですか」

「昨夜、会えへんかったんやて?」

「はい」

「あんたのこと話したら、すぐ来るて」

「・・・・」

「おとなしいな」

「・・・はあ・・・」

「島田に聞いたとおりやわ」

「え・・」

「ほんまに可愛いわ」

「・・・そんな」

「本気にしないな。冗談や。ところで、年、幾つなん。ずいぶん若く見えるけど。あ、言わんでええ。当ててみせる。俺、得意やねん」

 片瀬が言った年齢はことごとく外れだった。

「あーもう。女やったら一発で当たるのに」

 悔しそうに言う片瀬を見て、佐藤は笑った。

「片瀬さんよりは上です」

「そんなんあかん。信じひん」

 片瀬も笑った。






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