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羊の島  作者: 羽田矢国
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 岩手県三陸沖十五キロの海中に、ぽつんと浮かぶ小島。通称「ひつじ島」。周囲約六キロ、何の変哲もない緑の島の名前の由来は、東側に一カ所だけある桟橋から上陸するとすぐにわかる。

 のどかな鳴き声が、風にのって流れてくる。 波の音と、羊の声。

 木造の桟橋は潮風に朽ちて、気を付けて歩かないと壊れてしまいそうだ。

 桟橋から少しはなれた防風林の中に立つ、やはり木造のボート小屋は、ペンキがほとんど剥がれ落ちている。林を抜けて島内へむかう赤煉瓦の歩道のあちこちから夏草が顔をだしている。赤煉瓦のはじまる所にクラシカルなデザインの鉄の門扉が一組。旧式は外見だけではなく、やはり赤く錆びついている。閂がかけてあるものの、手を伸ばせば外側から簡単に外せるつくりになっているし、だいたい門を通らなくても脇の林の中をいくらでも抜けていける。

 ただ、門には針金で板がくくり付けてあった。

 曰く、「関係者以外立入禁止」。

 果たして人がいるのかどうか疑わしいような荒れ島の玄関に、きらきら光る針金と妙に新しいアクリルの板だけが浮いて見えた。


 連絡はついているから大丈夫、と船を出し渋る地元の漁師を半ば騙し、説き伏せて来たものの、少し不安になった。迎えにくる時間を約束して、さっさと船は帰ってしまったし、前へ進むしかないのだが。

「ほんとに人なんかいるのかよ・・」

 太平洋の陽射しが明るく降り注ぎ、暗い感じは全くしないものの、こう荒廃した有様では、目指すものが果たしてここにあるのかどうか疑わしい。

 ・・・何かの間違いじゃないのか。

 島田は荷物を持っていないほうの手で額を拭った。

 東京よりはしのぎやすいものの、陽光の直射する海岸は三十度を越えている。

 とりあえず島内へ入ろうと、門の脇を抜けて煉瓦の道へ踏み込んだ。林の中は涼しく、海岸の塩気は感じられない。軽井沢あたりの避暑地を思わせる空気だ。

 小さなみずいろのトカゲが足元を走り抜けた。

 遠くで羊が鳴いている。

 太陽は中天を過ぎたばかり。


「すみません。あのー」

 たかだか三キロ平方の島の中を、煉瓦に沿って三十分も歩き回ってしまった。歩道は島の周囲を地形に従ってくねくねと続いていた。両脇に林があるから見通しもきかない。途中視界が開けたと思ったら、そこは小学校の校庭ほどの野原で、二十頭ほどの羊の群れが草を食べていた。柵もなにもない林の中の明るい広場に白い羊が点在する様は、何か夢のような光景でもあった。

 なぜか人なつこい羊たちを避けながら広場を抜けると、木立ちに囲まれたコンクリート造りの建物がやっと島田の前に姿を現した。思ったよりずっと小さくて古い建物ではあったけれど。

 片田舎の保健所といったたたずまいの玄関には、くすんだ真鍮の表札が掛かっていた。

 「滝澤製薬魚島研究所」

 表札の脇に丸い呼び鈴のボタンがついている。押すと曇った音がした。

 何度か呼んでみたものの建物の中は静まり返っている。

「すみませーん。誰かいませんかー・・・っと、なんだぁっ」

 いつの間にか後ろに回っていた羊が、島田の膝の裏をつついた。巻き角の白い羊。丸々と太っていて、この気候ではいささか暑苦しい感じだった。

「お前じゃなくてね・・。ここに勤めてる人に会いたいんだよ・・・」

 言った途端。玄関の樫のドアが開いた。

「・・・何のご用ですか・・・」

 小さいけれどきれいな声と共に、白衣を着た青年が顔を出した。


 「さかな島というんですか。地元の人は「ひつじ島」なんて呼んでますけど」

 清潔な感じの応接室に通されると、島田はMDF素材のケースを脇に置いて早速話しはじめた。天井や壁を古い配線が通っているものの、それとは別に新しい設備を入れているらしく、建物の中は空調が効いていた。

「さかな、ではなくて、いお、というらしいです。「いおの島」」

 ひつじ島のほうが通りがいいようですけど、と背中を向けたまま青年は付け足した。丁寧にコーヒーをいれているらしい。

 青年は小柄だった。綿の開襟シャツの上に白衣を着込んでいる。それでもなお肩が細い。

 赤茶けた柔らかそうな髪が、空調の風に揺れていた。

 カップをテーブルに置き、島田の向かい側に座を占めると、青年は渡された名刺をしげしげと眺めた。丸い銀縁眼鏡の奥の瞳も、茶色だった。

「・・ルポライターの方ですか・・?・・取材なんてはじめてですよ。・・結構長いことここにいますけど・・・」

 もうすぐ三十路に足を踏み入れる島田より十は若そうな青年が「長いこと」と言ったのがおかしかった。しかし製薬会社の研究所に勤務しているからには、大学院くらい出ているのかもしれなかった。

 青年は、名刺はありませんが、と前置きして、ここの主任研究員だと名乗った。この研究所には人間は自分ひとりだとも言った。名前は「佐藤」だそうだ。

「取材と言ってもそんなたいしたもんじゃなくて、何と言ったらいいかな・・えーと・・ああ、実は私はある総合商社について調べているんですが」

「はい」

「その系列の銀行から、多額の融資を滝沢製薬が受けていることが判明したんです」

「そうなんですか」

 きょとんとした表情のまま、佐藤は島田の話を聞いている。

「本来でしたら、・・・失礼ですが・・滝沢製薬の業績を考えると、回収の難しい額の融資をしているわけで・・・」

「・・・近々滝沢が何かやるかもしれない、とおっしゃる?」

「まあ、そうです。銀行も返済の見込みがあればこその融資でしょうし。商社が保証人になっているのも妙な話なんですよね。滝沢製薬は系列会社でも何でもないわけですから・・・それこそ余程のことがないと・・・」

「・・・それでこんな離れ小島まで聞き込みに?」

「本当のことを言いますと、ここが最後なんです。本社、堺の支社、そのほか研究所、関連施設、大学の研究室まで一通り訪ねてみたんですが、これはという話はなかなか・・・。ここは盛岡のI医大で聞いて知ったんです。もともと総合商社の上層部と政界の癒着を追っていたもんですから、滝沢製薬のほうは収穫がなくてもいいんです。盛岡からそう遠くないし、駄目でもともとって感じで来たようなわけで・・・」

 すみませんお忙しいところを、と島田は頭を下げた。

 こんな高校生みたいな佐藤ひとりで留守番をしているようなところで、そう重要な研究をしているはずもない。だいたいそれまでに訪ねた他の施設だって、社の機密を初対面のルポライターにぺらぺら喋ってくれるわけがない。つてを辿って個人的に当たってみたOBや研究員も、何も知らないと言った。「お礼」をちらつかせてもダメ。これ以上追っても無駄だ。

「・・・お役に立てるといいんですけど。僕は経営ですとかそういった方面のことは全然・・・」

「いや、こちらが見当違いだったというか・・・申し訳ないです」

 出されたコーヒーは、それが佐藤の好みなのか、かなり濃い目だった。

「しかし、ここにお一人で、何を研究なさってるんですか」

「・・・少なくとも銀行が過剰融資をしてくれるようなものでないことは確かです」

佐藤は少し笑いながら言った。

「医大の講座のお手伝いと、あとは魚ですね」

「魚?」

「このごろ食べ物に入ってたりするでしょ、DHAとか何とか・・・あんな物です。他にも少し・・・この辺は海が深いですから、色々な魚が上がりますし」

「大学のほうは?」

「・・・羊に、色々投与して経過を報告したり・・・」

 佐藤は目を伏せた。羊についてはあまり話したくないようだった。

「お一人で大変じゃないですか」

「・・・慣れました。もともと独り者ですし。仕事も、決まった時間に決まったことをすればいいだけだし。・・・気楽ですよ。・・・ちょっと寂しいですけど、羊もいるし」

 にこにこと話す佐藤を見て、島田の脳裏に都会の雑踏の中にいる佐藤の姿が浮かんだ。

左遷か本人の希望か知らないが、こんな離島に独りだというのに、佐藤の嬉しそうな表情は本物に思えた。だからといって人間関係だとか都会暮らしが苦手なタイプにも見えなかったが。

 当初の目的とはかなりずれてしまったが、これはこれで面白いネタを見つけた、と島田は思った。いつになるかわからないが、機会ができたら今度は佐藤のことを取材に来たい、と思った。

 本人の聞くと、いいですよ、という返事だった。本社がどうの、広報部がどうの、といった話は一切なしで。

「・・・会社がどう言うかはわからないですけどね」

にっ、と色の薄い唇の端を吊り上げて佐藤は笑った。


 帰り際、佐藤は桟橋まで島田を送ってくれた。煉瓦の道ではなく、林の中を通れば桟橋までは五分とかからなかった。並んで歩くと、佐藤の頭は島田の肩くらいの高さだというのがわかった。毎日外で羊の世話をしているという割には肌が白く、まったく日に焼けていなかった。

 林の中を抜けながら、佐藤は低く小さな声で呟くように言った。

「次は」

「・・・は?」

「この次いらっしゃる時は、こっちを通ってくれます?」

「近道ですからね」

「・・・煉瓦の歩道は赤外線センサーがついてるんです。警報機が鳴っちゃってうるさいんですけど、勝手に警備システム切ると本社に怒られるから・・・」

「え・・・」

「ほら」

 指さした先にボート小屋があった。傾きかけた陽射しを、何かが反射した。

「すごいでしょ。本社直通監視カメラ。ここからじゃないと見えないんです」

 レンズは桟橋を向いているようだった。

「左側の浜から上がれば映らないですよ」

 佐藤は呆然とする島田を見上げ、にっこりと微笑んだ。





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