1.日常
遅刻をしたことがない。
それが、今橋律のささやかな誇りだった。
目覚ましは毎朝六時ちょうどに鳴る。その一秒前に目を覚ますことも珍しくない。布団を出るタイミング、カーテンを開ける順番、歯を磨く時間。すべては決まっていて、狂うことはない。
――狂わせないようにしている。
制服のシャツに皺がないかを確認して、ネクタイの結び目を指で整える。鏡の中の自分は、今日も問題なく「ちゃんとしている」。
「いってきます」
返事はない。
リビングのテーブルには、すでに用意された朝食が並んでいる。栄養バランスの整った、非の打ち所のない食事。けれど、湯気の立ち方までどこか正確すぎて、温かさというより“正しさ”を感じさせた。
母はキッチンに立っている。振り向かないまま、「早く食べなさい」とだけ言った。
律は「はい」と答えて席につく。
味は、いつも通りだった。美味しいのに、どこか記憶に残らない。
食器を洗い終え、家を出る。玄関のドアを閉める音が、やけに静かに響いた。
遅刻をしたことがない。
体調を崩して休んだこともない。
提出物を忘れたこともないし、テストで大きく点を落としたこともない。
――それでも。
なぜか、ときどき思う。
このままでいいのか、なんて。
そんなことを考える自分すら、どこか間違っている気がして、律は小さく首を振った。
余計なことは考えない。
今日も、ちゃんとやればいい。
それだけだ。
回生高校の校門が見えてくる。2年A組の自分の教室に入る。
自分のカバンの中身を机の中に収納する。自習を始めるためにノートを広げる。
見慣れたはずの景色の中で、ふと、誰かの笑い声が耳に入った。
力の抜けた、無防備な笑い方だった。
「おーい、律!」
振り向くと、内橋貴人が手を振っている。ネクタイは緩み、シャツのボタンもひとつ開いている。どう見ても「ちゃんとしていない」姿なのに、なぜか周りには人が集まっていた。
「またギリギリじゃん」
「ギリギリじゃねえし。ちゃんと間に合ってるだろ」
へらっと笑うその顔に、律は少しだけ眉をひそめる。
――ああいうのは、よくない。
そう思うのに。
なぜかほんの少しだけ、羨ましいと思ってしまった自分に、気づかないふりをした。
昼休み。教室は、弁当の蓋が開く音と他愛ない会話で満たされていた。
「なあ律、今日の英語やばくなかった?」
後ろ席から話しかけてくる貴人に、律は箸を止めずに答える。
「別に。いつも通りだと思うけど」
「は? あれで“いつも通り”とか言えるのお前くらいだろ」
大げさに肩を落とす仕草に、周りの何人かが笑う。空気が軽くなる中心に、貴人はいつもいる。
ふと、教室の入り口の方で小さな音がした。
視線を向けると、廊下から戻ってきた女子生徒が、両腕いっぱいにプリントの束を抱えている。バランスを崩しかけながらも、なんとか持ち直していた。
姫川陽茉里だった。
「あー、またそれ? 先生に使われてんの?」
貴人が、悪びれもなく声をかける。
陽茉里は少しだけ驚いたように顔を上げ、それから小さく頷いた。
「……うん、ちょっと頼まれて」
「マジで毎回じゃん。便利屋じゃん、お前」
くすっと、近くで誰かが笑った。
陽茉里も、困ったように笑う。否定も肯定もせず、ただやり過ごすための笑い方だった。
机にプリントを置こうとして、手元が揺れる。数枚が床に落ちた。
「あっ、ごめ――」
しゃがみ込もうとした瞬間、貴人がひょいと一枚を拾い上げる。
「相変わらずドジだな」
軽い調子で言って、ふと陽茉里の顔を覗き込んだ。
そのまま、何気なく続ける。
「つーかさ、そのメガネやめたら?」
「え……?」
「いや、普通に暗く見えるっていうか。外した方がまだマシじゃね?」
一瞬、空気が止まった。
貴人は気づいていない。いつもの調子で、ただ思ったことを口にしただけだった。
「……あ、でも外したら外したで――」
少しだけ間を置いて、笑う。
「ブスだったらごめんだけど」
また、誰かが笑った。
小さく、曖昧に。
陽茉里も、笑った。
――笑ってしまった。
「……うん、大丈夫」
そう言って、落ちたプリントを拾い集める。声はいつも通りで、何も変わらないように聞こえた。
けれど。
指先が、ほんの少しだけ震えていた。
律は、それに気づいた。
箸を持つ手が止まる。
何か言うべきだと思った。けれど、何を言えばいいのかわからなかった。
そこに明るい笑顔を浮かべながら、ぷくっと頬を膨らませている女の子が教室に入ってきた。
綾瀬夏菜だった。
「あー、また内橋くん。陽茉里ちゃんいじめてる。女の子には優しくしなきゃだよ」
夏菜は誰に対しても優しくて明るいクラスの太陽だった。
貴人は夏菜の言葉にびくっと反応する。
「お前じゃなくて…姫川さん、ごめん」
気持ちのこもっていない軽い謝罪だった。
「いえ、大丈夫です…」
陽茉里は、申し訳なさげにもっと頭を下げる。
その言葉を聞いた貴人はもう別の話題に移っていて、周りの空気も元通りに戻っていく。
――今のは、夏菜が来なければよくなかった。
そう思うのに。
その一言が、喉の奥で引っかかったまま、出てこなかった。
2年D組、昼休みが終わろうとしていた教室の窓際に、少し目立つ存在が入ってきた。
「おー、麗那ちゃん、来たんだ」
教室に座っていた女の子が声をかけると、教室の入り口から歩いてきたのは田中麗那だった。長い髪は艶やかに揺れ、制服はきっちり整っている。だが、歩き方や笑い方は自然で、ぎこちなさはまったくない。誰もが「彼女はいつも恵まれてる」と直感的に思うほどのオーラがあった。
机の上にはスマホと小さなカメラが置かれ、手には最新のSNS投稿用のチェックリストらしき紙が握られている。
「やっほー、みんな!」
明るく手を振る。声のトーンは軽やかで、でもどこか計算された柔らかさがあった。
教室の数人が思わず目を向ける。女子は「可愛い」と小声で囁き、男子はちらりと視線を送る。まさに“教室の中心にいるタイプ”だった。
そんな麗那に気軽にタメ口で話しかける男の子の姿があった。藤森凜だった。
「麗那、また寝不足じゃないのか。仕事のしすぎだ」
そんな無鉄砲な凜の態度に麗那は笑顔で答える。
むしろ、嬉しそうに。
「そんなことないよ〜。好きでこの仕事やってんの。幼馴染の凜くんは応援してくれないの?酷いなー笑」
麗那は一貫して明るく飄々とした態度をとった。
クラスメイト達は幼馴染2人のこの定番のやり取りを温かく見ていた。
一方で、凜は麗那の仕事用メイクの下に見えるクマを見ていた。
学園もの考えてるけど、最後まで書けるかな…?




