太陽の匂いのする猫
夏の上昇気流を求めて浜辺に集う鳶たちは、美しい笛のようにぴーひょろろと鳴きながら、人の目玉を狙う。弱っている人のガラス玉を。
一人で夕飯を食べるには大きすぎる部屋の窓からは、夕方の海と、鳶が黒い点になって散る空がみえる。テーブルの下の猫が、なー、と甘えてないた。夕陽色のふっさふさの尻尾をこすりつけてくる。
この夏、最初の鳶の被害者は俺と同じ歳の子どもだったらしい。
襲われた子どもは、男か女かわからない痩せた風貌をして、海の家に毎日訪れては、あまった水や食べ物をもらいに来ていたという。砂漠の遭難者のように、舌が乾き声が枯れていたそうだ。
旅立つ前、母親は俺に「渚、鳶には気をつけて」と言い残した。
俺は、そんな忠告は無視した。十三歳の俺は、暗くて怖ろしい一面を平気で人前にさらけ出すような奴とは関係ないと思っていた。そうやって何かの枠から簡単に外れられるなんて、甘えた錯覚だと思っていた。
*
じゃふーじゃふー、と猫が騒ぐので何ごとかと駆けつける。昼下がりの白い光がさしこむ玄関には、威嚇する猫と、見知らぬ客がいた。
「…夏木なのか?」
ほとんど話したことがない同級生女子の変わり果てた姿に気づいた俺はすごくないか?
夏木は、衝動的にハサミを入れたような短髪になっていた。右目は眼帯に覆われ、残された片目は訴えるようにじっと俺をみつめている。そして、掠れた声で言った。
「お母さんは、いらっしゃいますか」
「いない、けど」
鳶に目玉を襲われた子どもは夏木にちがいない。俺は、あの話を思い出していた。
夏木はしばらくうつむいていたが、
「いないのなら、これ以上はあがれない」
とつぶやき、
「ここでいいから、寝かせてください。一晩だけ」
そう言って、俺の返事を聞かずにしゃがみこみ、横になり、まるまって動かなくなった。
うなーっ、猫が怒って扉から出て行く。夏木が寝転んだのが、猫の特等席、一番ひんやりして気持ちがいい場所だったからだ。うちの猫は、怒ると何日も放浪し、鳥か鼠を狩るまで帰らない。
俺は、眠る夏木と出ていく猫をなすすべなく見ていた。
玄関に、二人分の寝具を運ぶ。
仕方ないので、一晩つきあうことにしたのだ。だって、クラスの子がこんな姿で玄関に寝ているのに、自分だけテレビ見てお菓子食べてゲラゲラ笑えるわけなくないか?
眠り続ける夏木の頭の下にクッションを押しこみ、太陽に曝されて黒くなった肌にタオルケットをかけた。夏木は、家出人というより海辺を散歩する人のような、白いTシャツとズボンとビーチサンダルを身につけている。そばに座ると、薄汚れた服から干し草のような、しみついた汗を太陽が乾かした匂いがした。
夏木の横に寝転びながら、俺は帰ってもらうにはどうしたらいいかばかり考える。
夜中に一度だけ目を覚ました夏木は、隣にいる俺をみて静かに言った。
「私なんか、ほっといていいのに」
やっぱりそういうこというよね、と俺は思い、その言葉を聞かなかったことにして言う。
「その目、鳶に襲われたの?」
「なんで知ってるの」
驚く夏木に、俺は自分の家のことを簡単に話した。母親は画家で、描くために世界の海を旅していること。趣味で海の家を経営していること。夏木は、変わってるね、と言った。
「渚くんって、ほんとは何者なの?」
それはこっちのせりふだが、夏木がそう思うのもわかる。俺はクラスでは普通の家の子を装っていたから。そのために、わざと子どもっぽく無神経に振舞うこともあるくらいに。
「お前、なんでうちにきたの?」
俺がそう聞くと、夏木は、
「クラスで渚君だけが、私と話してくれたから、かな。」
とつぶやいた。
今度は、俺が驚いて夏木を見る。踏み入れたら思いのほか底が深くて転びそうな、むき出しの孤独が怖くなる。
「さっきの猫、なんて名前?」
気まずさを誤魔化そうとする夏木に、俺は何も答えられなかった。
夏木は、人の家の玄関を寝床に選ぶくらいには自己中で自己嫌悪の塊。でも、自分の居場所を探す力は持っている。微かな好意を嗅ぎつけて、どこまでも甘えてくるつもりなのだろう。そして、そうせざるをえない環境で育ったのだろう。
寝息をたてる夏木は、自分を抱きしめ、かたく目をつぶっている。
この髪は、夏木が切ったのだろうか、それとも切られたのだろうか。
なーなー。
朝。飯をくれ、となく猫に起こされる。
「帰って来たの」
目の端を通り過ぎる金色の尻尾をつかむと、猫は嫌がって、身をかわした。俺は、体が痛くて起き上がれず、またタイルの上に転がる。うめきながら、隣をみて気付いた。
夏木がいない。
夏木の「一晩だけ」という言葉を思い出す。夏木は、本当に一晩だけ泊るつもりだったのだ。俺は思わず叫ぶ。
「もっと甘えろよ!」
お前にはもう、頼る場所なんかないんだろ。
それでもまだ、自分なんかに構うなって、ほっとけない奴の気持ちを無視するの。
その時、どこからか何かが風に乗って降ってきて、途方にくれる俺の鼻先にふれた。
それは、茶と黒が混ざった色の、扇子ほどの長さの、大きな羽だった。鳶の羽だ、と気づいて、俺は猫をみる。もしかして、鳶と戦った猫の戦利品なのだろうか。それとも、夏木の体についていたものが遺されたのだろうか。
猫は夏木のいた場所に寝そべり、あくびをしながら朝飯が出てくるのを待っていた。まるで、なにもなかったかのように。
俺は玄関の冷たいタイルに手をついて這い、猫に近づいてその毛皮に鼻をつっこんだ。
猫の匂いをかぐ。
毛皮の奥から、まだ新しい潮の香りと、太陽の匂いがした。
さっきまで、こいつは海にいたのだ。
目を閉じてもう一度息を吸いこんだら、朝の太陽の光をあびて金色に光る猫が、浜辺で鳶と戦う姿が目の裏に浮かぶ。
俺は、そのまま嫌がる猫を抱きしめ、あおむけに転がった。
「なつき、じっとして」
そして、一晩呼べなかった猫の名前を口にする。
誰に知られる必要もない、激しく怖ろしい一面が、太陽の下にさらけ出されるのは、錯覚でも甘えでもない、ただの、野性の本能だ。俺にも、おなじ力があることを本当は昔からわかっていたはずだった。
俺は、もう一度猫の毛皮に顔をうずめて夏の匂いをかぎながら、あいつを探しだそうと、決めた。
読んでいただき、ありがとうございました。らぞくの「straight ahead」を聞きながら書きました!




