プロローグ:3周目
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2周目
2032年9月26日 39歳
-福岡県 柳川- 自宅
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若返り薬──1925年、アシヤ映画製作所によって世に送り出された幻の作品。
映像はとうに喪われている。研究者の記録や当時の映画雑誌に刻まれたわずかな筋書きだけが、残る。
物語の中心にいるのは、ある老人。彼はその薬で若さを取り戻し、人生をやり直す機会を得る。しかし結局同じ過ちを繰り返し、周囲から嗤われる存在へと堕ちていく。
────この脳内の、拙い懺悔録を手に取る皆様方へ。
僕は時間逆行者である。
そして、哀しくもこの映画の主人公と同じ末路を辿る者だ。
どうにも社会で頑張れない奴だったようだ。
ほぼ自己申告でもらえる様な、ADHDの診断書を引っ提げ生活保護を受けた。
そして古本と映画に囲まれた高等遊民としての生活を営むことだけで、僕は人生に満足した。
しかし、初めは違った。努力したつもりだ。
生き生きした男になることを願っていた。しかし、借り物の人生・借り物の言葉でしか取り繕えず……だから僕の元居る魂の巣に最後には惹かれ帰ってきてしまう。
この書物で囲われたかび臭い1Kの部屋こそ、僕の運命なのだ。
卓上に在るテーブルライトは、浄化の篝火である。其の下に照らされる、散乱した書物は魂の揺り篭である。凪の如き恙なさの中で、僕は"いずれ来る死を讃えんかな"と、本気で思っている。
僕はそんな、何の価値もない人間だ。
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2周目
2032年9月27日 39歳
-福岡県 柳川- 有明海眺望堤防
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有明の海を臨む。
6m前後はあるという潮の満ち引きを感じながら、潮騒に耳をくすぐられる。徒然なるまま、堤防上をふらりと歩く。それが日課だった。
この海岸には毎日変化がある。
特に干潮の時間に訪れることができたら、少しばかり心は踊る。
浅瀬に取り残された魚、横歩きで捌けていくカニ、流れ着いた海藻やクラゲ、投棄されたゴミ……そういったものを見たり、手に取ったりしつつ、飽きるか日が暮れるまでまで歩き続ける。
気紛れで歳時記とメモ帳を持ち歩き、俳句を考える。もしくは、誰にも公表しない小説のネタを書き留めることもある。
日々何もなく、それこそ『凪の如き恙なさ』の中で生きている。
僕にはそこで生きられる才能があると
ただ信じていた。
妙な衝動が頭をよぎるようになった。いつのまにか、ずっと。
沖まで、限界が来るまで泳いでやろうか。
そんな、駆け出したい、何か暴れだしたいような衝動に抗い続けている。
ずっと、ずっと。
ずっと。
ずっと、僕は人生がめんどくさかった。気が狂いそうになるほどめんどくさかった。この堕落し切った生き方をしながらも「人生がめんどくさい」と思える自分が嫌いだ。
僕みたいなクズが、普段から人に優しくできるわけもない。だから
ある日僕は正義を盾にして、目の前の偶然にあやかった。
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2周目
2032年9月28日 39歳
-福岡県 柳川- 西鉄柳川駅
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「おい、やめろ」
美術館鑑賞の帰りだった。
駅前で女性にしつこく絡む二人の男がいた。いかつくて、見るからに不良な男ら。その間に乱暴に割りいって、制して──すぐに後悔した。まさか、僕にこんな蛮勇があろうとはつゆにも思わない。
本当に、誓って、普段の僕なら絶対にしない。
人生二周目も変わらず、事なかれで生きてきた男が、こんなこと。
天秤の竿がはじける様だった。心が爆発して、言動に出てしまった。理屈じゃない部分で理解してから、自分に失望した。
なんだか、きっかけなんざ何でも良かったのだろう。それほどに自分の心が困窮していた事実が虚しい。
「誰だ?おっさん」
「こ……怖がってるだろ」
「かんけーねーだろ、なあお姉さん」
「こら、触るな!」
咄嗟に出した手が、ぴしゃりと片方の男の手の甲を激しくたたいた。
猛った血の気が引いた時には遅かった。
「……ッ!死ね」
拳が飛んできた。
そのあとの記憶は飛んでいる。
目が覚めたのは、救急車の中だった。
鼻骨が折れているらしかった。ひどくいたい。頭にもガンガン響いてたまらない。
治療中の合間にも顔が腫れていった。
……惨めなものだ。
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2周目
2032年9月28日 39歳
-福岡県 柳川- 柳川病院
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治療室の外で女性が心配そうに待っていた。
たしか僕がさっき、助けに入った時の。逆に手を煩わせてしまったようだ。
謝らないと。だけど、置いて去ってくれたら良かった。
「ごめんなさい」
先に謝ったのは女性だった。今にも泣きだしな様子。僕は戸惑いながら、言葉を必死に探した。
「いや頭上げてください、自分、その……無謀でしたので」
そんな僕の困った様子を見てなお、女性はさらに深々と頭を下げた。
その後、女性と共に警察から軽い聴取を受けた。
家計的に痛過ぎる医療費の支払いを済ませて、病院から出ると彼女がタクシーを手配していた。
「流石に、送らせてください」
遠慮をする僕を強く引き留めて、タクシーに乗せた。
沈黙が続く。喋ることは何もない。
「あ、そこを左で……信号の前で降ろしてください」
そう運転士に伝えると、女性は「あれ?」と声を上げた。どうやら同じアパートに住んでいたらしい。2人で思わず苦笑いする。緊張がゆるむ。
「私、クボタカナエといいます」
「僕は……来栖堅斗です」
「来栖さん。助かりました、改めてお礼させてください」
──というのを嗜めて、解散した。
これ以上年下の若人に、何か負担させたくはない。
あまりの気迫にタクシー代は出させてしまったが。しかし、なんだろうか。まんざらでもない。
人にやさしくして、そして、やさしい言葉をかけてもらえたのは、いつぶりだろう。
数多の人間関係を遮断してきた。
人が怖いと思っていたから。社会を嫌悪していたから。現に人に殴られた。僕はこの世界が嫌いだ。
だが、認めよう。どれだけ人から遠ざかろうと、人は人であることをやめられない、ということを。
ああ……にしても顔中痛い。
出しっぱなしの布団に横になる。もらった鎮痛剤を、用法を無視して追加で一錠飲む。
殴られた時のことを思い返す。もっと、優しく声かけるとか……もっと上手くやれることがあったんじゃないか。けんか腰で話しかけたのは、僕だ。
「あー……やっぱ、人には優しくしないと、ダメだ」
当たり前の事をぼやいて、そのおかしさにまた笑って
────。
強い光を、瞼の裏に覚える。
電気をつけっぱなしで寝たかと、目をあける。
だが、澄み渡ったスカイブルーが広がった。
「は!?」
飛び起きた。
有り余る膂力に、反動で尻が少し浮いた。僕はベンチから転げ落ちた。とてつもない違和感。まず自分の手の甲を確認する。経験上、嫌な予感がした。
若い。手だけは取り繕いができず歳が出る。そういう部位だ。それが若い。そして
「鼻……治ってる」
それと母校の制服。たぶん、予感は的中した。
見渡すと、既視感の強い校舎内の景色があった。ここは体育館裏のちょっとした広間だ。寂れた木のベンチがある。
ズボンの右ポケットの中身を取り出す。ガラ携だ。昔使っていたものだ。
木枯らしが吹き荒ぶ。
郷愁を誘う香りがした。
だけど嬉しくもないし驚きもない。喪失もない。虚無に心が覆われていく。
変わらない人生をまた繰り返すのだと、信じているから。
だが、気になる点はある。最初のタイムリープ時の僕の年齢は42歳だったはず。今回、僕は39歳で戻った。
定められた時間がきっかけではないようだ。
だとしたら、何をきっかけに発生しているのだろうか、と。
昼休み終了5分前のチャイムが、鳴る。
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3周目
2009年9月28日 16歳
-埼玉県 川越- 綾南高等学校
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