第1話「プロローグ」
乾いたオイルの臭い。
工作機械の絶え間ない振動と騒音。
摺木統矢を包む空気は、それらを凍らせ静かに満ちている。
雑音まじりにラジオに耳を傾けながら、統矢は黙って手を動かした。
かじかむ指が部品に触れて、物言わぬ機械の命を蘇らせてゆく。
『――南極での戦闘の続報です。二ヶ月間続いた、人類同盟残党の掃討作戦は、Gx反応弾の大量使用により終結。これにより、パラレイ……いえ、新地球帝國軍の勝利が確実となりました』
統矢は、ニュースキャスターの上ずる声を頭の中でやり過ごす。
プレハブのこのガレージは、既にストーブが赤々と燃えているが、寒い。
だが、氷河期を迎えたかのような時代の流れは、身を切る冷たさでこの世界を飲み込もうとしていた。
――新地球帝國軍。
それが、かつてパラレイドと呼ばれていた人類の敵だ。
地球人類はようやく、自分達の敵が同じ地球の人間だと知ったのだ。違う世界線、未来の地球から来た者達……終わらぬ永久戦争は今、敗北と全面降伏で終結したのだった。
「統矢君? 随分熱心だね、君は。さ、もうあがんなさい。続きは明日にしよう」
背後で穏やかな老人の声がした。
それで統矢は、修理を依頼された車両の下から這い出す。午後はずっと、この軽トラックにかかりきり……そのメカニズムは、前世紀レベルの簡素なものである。
絶対元素Gxの発見で、一時期人類は科学文明の絶頂期を迎えた。
だが、すぐにパラレイドの襲来と戦争が始まり、人々の暮らしは一変した。
日常の文明レベルは後退し、あらゆるリソースが闘争へと投げ込まれたのだ。
油に汚れた顔を手ぬぐいで拭きながら、統矢は立ち上がる。
「おやっさん、今日中にこいつを仕上げたいんです、けど」
「なぁに、急ぎの仕事じゃないさ。もう、仕事だなんだ言ってられないことになってるしねえ。……でも、それでも、毎日は続く。そうだろう?」
「はあ」
「怪我が治ったばかりなんだし、今日は冷える。早く帰って、家族と暖かくして過ごしなさい」
恰幅のいい、好々爺そのものといった顔で社長が笑う。
ここは、皇都廣島……その中心市街地から少し離れた、小さな片田舎の町だ。重傷の寝たきりから統矢が解放されて、まだ半月。今はもう、外で働くまでに回復している。
だが、眠っている間に起こった出来事はあまりにも衝撃的だった。
仲間達の死は、この目で確認するまで信じない。
愛機【氷蓮】とも離れ離れで、無事かどうかはわからない。
ただ、五百雀千雪と更紗れんふぁが、統矢を必死に守ってくれた。だからこうして、今も統矢は生きているのだ。
「おやっさん、じゃあ……すみません、今日は」
「うんうん。ああそうだ、ちょっと待っててねえ」
祖父と孫程も歳の離れた工場長は、思い出したように事務所の方へ戻っていった。
軍手を脱ぎながら、統矢は改めて外を見やる。
どうりで寒い筈だ。
外には雪が降っている。
冬とはいえ、廣島にこんなに早く雪が降るなんて、少し驚きだ。しんしんと降り積もる雪は、風のない空で静かに揺れて舞い散る。
まるで、終わった戦いの全てを漂白するように。
「……俺達は、負けたのか」
先程、ラジオでも言っていた。
人類同盟の残存戦力は、全て南極に集結して最終決戦に挑んだ。
だが、パラレイドはあっという間に地球全土を掌握、自らを未来の地球人類と名乗った。摺木統矢大佐……トウヤは表舞台に姿を現し、異星人の脅威と真の平和を語ったのだ。
意外にも、世界は新たな征服者をすんなり受け入れてしまった。
終わりの見えない戦争は、あまりにも人類を疲弊させ過ぎたのだ。
勝敗よりも、戦争の終結そのものを誰もが受け入れ、むしろ歓迎した。
そして、南極は大陸の面積が半減する程の攻防の末、先程陥落したのである。
「これで、雅姫一尉も……いや、違うな。俺はまだ、なにもこの目で見ていない。自分では、なにも確認できていないんだ」
既に世間では、パラレイドが未来人だった事実は公表されていた。
無数の無人戦闘兵器を投入してきたが、今は有人のエンジェル級を多く展開させている。この町にも、駐留軍が駐屯していた。町のそこかしこには、かつて統矢が戦ってきた兵器が立ち尽くしている。
治安の維持を名分に監視し、戦争犯罪者を探しているのだ。
最もパラレイドに損害を与えた男、統矢はSSSクラスの指名手配犯である。
戦争に負けるとは、そういうことだ。
正義が勝つのではない……勝者が常に正義となり、後の歴史に正義として記録されるのである。
「……もう、戦う手はないのか? 俺は……りんなや仲間の仇も討てずに――ッ!」
突然、背後から頭をゴスン! と叩かれた。
振り向くと、長身の男が立っている。
自分の後頭部に押し当てられたのは、熱い缶コーヒーだ。先程まで、ガレージの隅のストーブに置かれていたものである。
新地球帝國軍の統治が始まって、世界の経済は逆に安定したから皮肉なものだ。
戦争終結で民需が息を吹き返し、ほんの僅かだが物価が下がっている。
仕事上がりの一服に缶コーヒーが手に入る、その程度でも大きな変化だった。
「あ……凱さん」
「ん」
「お、俺に、ですか? ……ども」
「おう、お疲れ」
ツナギ姿の男の名は、風間凱。
ゆっくり裏の倉庫へ向かう背中を、統矢は無言で見送った。
細身ながらも、鍛え抜かれた全身の筋肉。そして、時折発する剃刀のような気迫。間違いない、以前は軍人だったのだろう。人類同盟が瓦解してから、多くの兵士は武器を捨てて野に下った。そういう人間はもう、珍しくない。
だが、凱はいつも自動車修理工場の仕事が終わると、資材倉庫に行ってしまう。
工場長からは、ぶっきらぼうだがいい奴なんだよ、と言われていた。
そうこうしていると、工場長がバタバタと小走りに戻ってくる。
「やあやあ、悪いね統矢君。さ、これを持ってきなさい」
「え……これって」
「年寄りには多過ぎるからねえ。出処は内緒だよ? 君、家に病人がいるんだからさあ。いいから、食べさせてあげなさい」
渡された紙袋の中には、米と卵、少しだが鶏肉らしき包みが入っている。
生鮮食料品は貴重で、闇市で驚くべき価格がつけられていた。
それでも、戦争が終わった市場では、復興に向けての活況に満ちている。その喧騒が不思議と苦手で、統矢はいつも買い物をれんふぁに任せっきりだった。
だが、気軽に受け取ることをためらわれる程の栄養が、腕の中にあった。
「おやっさん、これ」
「いいんだ。僕は一人だからねえ。なに、凱君にもあるから」
「でも」
ラジオでは相変わらず、ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げている。
そのスピーカーを見上げて、笑顔の工場長が静かに溜息を零す。
細めて線になった目元に、光が浮かぶのを統矢は見てしまった。
「……倅も妻も、全部戦争に持ってかれてね。でも、その戦争は終わった。これからは君達若者の時代さ。なに、僕はほそぼそと食えてるし、君達のおかげで工場もなんとかなる」
「息子さんは、じゃあ」
「パンツァー・モータロイドのパイロットだったんだよ? 君みたいな年頃の頃から、幼年兵として……そして、大人になる前に死んでしまった。親より先に逝くなんて、親不孝だよねえ」
恐らく、生きていれば丁度凱くらいの年頃になるのだろうか?
統矢は、無愛想でとっつきにくい凱に対する、工場長なりの気遣いと想いを知った気がした。失った命は、それは代わりのないものである。誰もが世界でただ一人、唯一無二の存在なのだ。
それでも、工場長は露頭に迷っていた統矢や凱を働かせてくれる。
こうして食料をわけてくれるし、なにも言わないが匿ってくれてる気がした。
「さ、家に帰りなさい。また明日、頼むよ? 機械いじりのできる手は、いくらあっても足りないからね」
「は、はい。あの、おやっさん……お疲れ様、でした」
「うんうん。気をつけて帰るんだよ」
ペコリと頭を下げて、統矢は作業着のまま家路についた。
ガレージを出る前に、ラジオの声は緊急速報を歌う。
『え、新地球帝國総督府より、緊急のお知らせです。本日、18時より全チャンネルにて行政放送があります。近くのテレビやラジオ等で、必ず確認するようにしてください。繰り返します――』
既にもう、トウヤ達の占領政策は始まっている。
そして、統矢に抗う術は残されていない。
このままでは、また戦争が起こる。
統矢達の時代で、トウヤによるDUSTER能力者選抜のための巨大な実験が始まるのだ。DUSTER能力は、絶体絶命の危機を生き延びた兵士達の中に、極稀に生まれる力だ。その覚醒を促すために、トウヤはなんでもやるだろう。
それが統矢には、わかる。
何故なら、二人は戦いの始まりと動機、燃える憎悪の原動力が同じだったからだ。
今はもう、その紅蓮に燃えて己をも灼く焔が、統矢の中に感じられない。
「……二人になんか買ってくか。鍋にするなら、野菜がいるしな」
仕事場を出た統矢は、大通りを駅の方へと歩く。
通りには、かつて戦場で見たエンジェル級のパラレイドが立っていた。グリーンに塗られた一つ目のタイプだ。解放されたコクピットからは、軍服姿のパイロットが煙草をくゆらす姿が見える。
まだ若い青年で、統矢と一回りも違わないだろう。
人型のパラレイドにコクピットがあって、同じ人間が乗っている。
だが、この町の者達は驚かないし、全世界が諦観を持って受け入れていた。
パラレイドから見て過去の人間は今、戦争に疲れた心で、俯いたまま仮初めの平和を享受する……それだけで精一杯な程に、全てを亡くして失い過ぎたのだった。