婚約破棄された聖女は恋がしたい
「皆の者、聞いてくれ!」
華やかに装った男女が歓談する王立学園の大広間に、突然大声が響く。
声の主は、この国の王太子であるリチャードである。
折しも今日は、王立学園の卒業を祝う祝賀会の日だ。
門出を祝うめでたい席に突然響いた無粋な声に、大広間は一瞬で静まりかえった。
「私はそこにいる聖女ソフィアとの婚約を破棄する!」
リチャードが指さす先にいるのは、白い襟のついた濃紺のワンピース姿に真っ白なヴェールを被った、華やかな席には場違いにも見える質素な服装の少女だ。
会場の空気がざわめく中、リチャードは傍らに立つ見事なプロポーションの美女を庇うように抱き寄せた。
「その女は聖女という身分を嵩に、ここにいるエレーナを不当に貶めたのだ。よって私はそいつとの婚約を破棄し、新たにエレーナ・フォン・アルマベール侯爵令嬢と婚約を結ぶものとする!」
「──婚約破棄、たしかに承りました」
水を打ったように静まりかえった大広間の静寂を破ったのは、ソフィアの静かな声だった。
ソフィアは女神に選ばれた聖女である。
ある日、空の彩雲から天使の梯子が孤児院の庭で遊んでいたソフィアのもとに降り、その事実は国に知られることになったのだ。
聖女は存在するだけで悪しきものを浄化する、国の安寧に欠かせない存在だ。
しかも、その後の調査でソフィアには浄化だけでなく、絶大な癒やしの力を持つことが判明する。
彼女と同い年である王太子リチャードとの婚約が決まったのは、ある意味当然の成り行きだったのかもしれない。
だが、その後二人は順調に交際を進めてきた──とはいえなかった。
伝承によると、聖女は清らかなまま十八歳の成人を迎えなければ、その力を失ってしまうとされている。
ゆえに、ソフィアは婚約者であるリチャードとキスはおろか、手すら握ったことはなかったのだが──。
神殿へと向かう馬車の中、ソフィアはため息をついた。
「まったく、自分が浮気してたのを棚に上げて私が悪いとか、信じらんない。しかも私が彼女を不当に貶めるってなに? 私がいったいなにをしたっていうの!?」
「不当に貶めるってのは俺もよくわからんが、あの年齢の男におさわり厳禁はきついだろうからな。色々たまってたんだろうよ」
「…………それ、本気で言ってる?」
ソフィアにじとりと睨み付けられ、向かいに座る護衛騎士のゲオルグは気まずそうに視線を逸らした。
「いやまあそのだな、神殿箱入りお嬢様のソフィアにはわからんだろうが、これは男のとても悲しい性なんだ」
ソフィアの視線が氷点下まで下がったことに気が付いたゲオルグは、慌てたように首を横に振った。
「だがそれはそれ、これはこれだ。あの馬鹿が王族としてあるまじき行為に出たのは、決して許されることではない。そこで、だ。ソフィア、お前はどうしたい? あいつのイチモツをちょん切るか? それとも廃嫡して辺境に送るか?」
ゲオルグの物騒な提案に、ソフィアは首を横に振った。
「仮にも相手は王太子なんだから、そんな物騒なことは言っちゃ駄目よ。それに、送られた辺境だって、あんな役立たずをもらっても困るだけだわ。そんなことよりゲオルグ、私が何歳か知ってる?」
「そりゃ知ってるさ。十七だろう?」
「その通りよ。ちなみに誕生日は来月だから、私はもうすぐ十八歳になるの。つまり、恋愛解禁よ! 私はあの二人が羨ましくなるくらいの素敵な恋愛をして、見返してやるんだから!」
「恋愛解禁ねえ」
「今まで男性から見向きもされなかったのは、婚約者がいたからだと思うのよね。着飾れば私だってそれなりに見えると思わない?」
そう言うと、ソフィアはおもむろに被っていたヴェールを脱ぐ。
真っ白な布の下から現れたのは、長い白金色の髪、長い睫が縁取る大きな菫色の瞳に、瑞々しい果実のような愛らしい唇を持つ。紛うかたない美少女である。
そんなソフィアに真剣な面持ちで見つめられ、視線のやり場に困ったゲオルグはわざとらしく咳払いした。
「あー……それはその、個人的な意見を言わせてもらえば、お前は綺麗だと思うぞ」
「本当? じゃあ、今からでも素敵な恋愛ができると思う?」
「素敵な恋愛ねえ。お前の言う素敵な恋っていうのは、具体的にどういうものなんだ?」
「それは……二人きりでデートしたり、美味しいケーキを食べたりとか、それから手を繋いだり、あとはキ、キスしたり……とか?」
「へえ、キスか。なるほどね。よくわかった」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべたゲオルグは、ひょいとソフィアの手を取った。
「じゃあ、せめてこれくらいは慣れておかないとな」
ちゅ、という湿った音とともに手の甲に押し付けられた唇に、かちんと固まったソフィアの頬が瞬く間に赤く染まっていく。
「えっ、なっ、あ、あの……?」
「ハハッ、なんて顔してるんだ。こんな挨拶のキスくらいで顔を赤くしているようじゃあ、先が思いやられるぞ」
聖女の護衛騎士ゲオルグ。
強靱な肉体と漆黒の髪と瞳を持つこの男は、実はこの国の王弟であり、歳の離れた兄と王位を争うことをよしとせず、みずから臣籍降下して騎士となった経歴の持ち主である。
そんな男が魔物討伐の際に負った毒のせいで死を待つ身となったのは、今から八年前のことだ。その時彼を死の淵から救ったのが、当時聖女になったばかりのソフィアだった。
「まあ、誕生日までまだ時間はある。それまでに恋愛について俺とじっくり予習しておこうな」
──そして、その時わずか十歳だったソフィアに一目惚れしたゲオルグが、当時から着々と囲い込みをしていたことを当の本人が知るのは、もう少し先の話である。
こちらは昨年某SNSで開催した企画に参加させていただいた作品です。
とても短いですが、せっかくなのでこちらにも投稿することにしました。