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海還り

作者: 無紙みぞれ

登場人物

夕凪(ゆうなぎ) (けい)

16歳 男

海還りという風習が嫌いな男子高校生。現在は東京に在住で迎海島は母の故郷であり12歳前後まで島で生活していた。しかし父の転勤が切っ掛けで東京へ引っ越すこととなる。

幼き日の友人千春が死んで直ぐだった為、心の整理ができないまま島を離れてしまった事で今でも千春のことを引き摺っている青年。


黒い髪に黒い瞳。少し垂れ目で温和な雰囲気の青年。大体クラスで3番目ぐらいの顔の良さでクラスに一人ぐらい恋している子がいるか知れない程度の見た目。左目の下にほくろがある。身長は167cm程で運動はやや得意。得意科目は数学。特徴が無いのが特徴。……特徴ある気がしてきました。


七瀬ななせ まこと

16歳 女

迎海島のすぐ近くの港町に住んでいる女子高生。廃校になった迎海小学校最後の卒業生であり、千春と慧の幼馴染。三人で卒業して三人で同じ中学に行きたいと子供の頃は思っていたが、千春の死後、直ぐに慧が引っ越してしまい、卒業式は彼女独りになってしまった。その事を今でも心の何処かで引っ掛かっている。年頃の娘


やや赤みのかかった茶色い髪色でショートボブヘア。少し釣り目気味でいつも不機嫌そうな顔をしている。男子より女子に好かれるタイプの顔立ちをしている少女。いわゆるクール系。小悪魔の様な可愛らしい顔より、少し悪どい感じの表情が似合う女子。運動が得意、バスケットボールをやっている。嫌いな教科は数学と美術、この世から無くなればいいと思っている。


坂口(さかぐち) 千春(ちはる)

享年9歳 女

迎海島に住んでいた慧と誠の幼馴染。元々身体が弱かったが、不治の病で命を落とした少女。今回の物語の中心と発端となっていく人物。夏が好きな女の子で、慧に「病気、ちゃんと治るから待っててね!」と約束した。


長い黒髪に青い瞳を持った美少女、少年時代にウッカリ出会ったら大体の男子は恋してしまいそうな可愛らしい少女。子供の頃から大人びた言動が目立つ少女で自分の意に反して少し酷な事をいうことがある。多分生きていたら色んな男の人生を狂わせてそうな(本人の意思とは関係なく)天然魔性の化身みたいな娘。名前の意味は千の春を迎えてほしいという両親からの願いを込めて、千春と名付けられた。


────枯れた様な色の無い冬の世界が好きだった。夏が来ると世界が色付いていく様で嫌いだった。焼き焦がす様な焦燥と蜃気楼、遠く霞む世界にぼんやりと移り込んだ世界が違う世界ならばはたしてそこに君はいるだろうか?そんな考えばかりがよぎる。

 誰かが言った。〝水面とは異界への入り口である〟と。それを教えてくれたのは誰だったかはもう正直覚えていないけど。僕はこれがどんな形であれ、まやかしであってほしいと心から願った。ボートの上から白波を上げる海を眺め、これから向かう小さな島を見据える。随分小さく見えた気がして自分の手と比べてみる。自分が大きくなったのかこの島が元々小さかったのかは分からないけど、ただ一つ、潮の匂いに混じって夏の匂いがした。


 死した人は帰らぬ戻らぬ何も語らぬ。水面に揺れる自分の顔を見つめ現実であることを悟った。既に温くなった桶の水を手ですくい顔を溶かしてから顔を濯ぐ。目の前に迫った夏の気配、朝顔が蔦を伸ばし遠巻きの入道雲が山の向こうから顔をのぞかせていた。

何もない田舎の田風景に移り込んだ逆さの青い山。すっかり夏の彩に染まった世界を見て、青年は目を細めた。空は快晴である。憂い無き空に泳がぬ雲と吹き抜けた温い風に風鈴が涼し気な音を上げた。


けい、もう直ぐ海還りの時間だから手伝って頂戴。」


 遠くから母の声が聞こえ耳を澄ませる。自分の名前を呼ぶ声に青年、夕凪 慧は上体を起こした。暑さに充てられたのか茹だる様な声で慧は「ああ」と生返事をする。否、暑さに茹だっている訳ではない、実際彼にとって今しがた母が口にした〝海還り〟というものが憂鬱で仕方がない風習であった。慧は重たい溜息を着きながらゆっくりと立ち上がり、母の待つ居間へと足を向ける。いつもよりずっと重たい足は鉛の様で、木の床を踏み抜いてしまうのではと錯覚するほどだった。だが実際は気持ちの問題で自分の心情と意志は乖離して、何の解決もしないまま足は身体を居間へと運んでしまう。古い障子戸に手を掛けてゆっくりと動かせば、其処には祖父の仏壇があり、その仏壇の前では祖父を思って少し憂いた表情の祖母と、母親が、灯篭を作っていた。


「ああ、慧、こっちへおいで」


 祖母は先ほどの表情を隠す様にパっと笑うと慧に手招きする。慧はその手招きに誘われるがまま祖母の隣に腰を下ろした。


「作り方、わかるかえ?」


 その言葉に自分はどんな顔をしただろうか?慧は祖母の顔を見て少し思った。祖母は問うだけ問い、どこか悲しそうな表情を、複雑な心境を移した瞳で慧を見据えると優しい声で「なら、作っておやりなさい」と口にした。慧は、ただ悟る。「…ごめん」と想像もつかない祖母の心境に応える様にその言葉はこぼれ出た。

 慧は机の上に並べた和紙を手に取り筆を握る。たっぷりと水を含んだ絵具を一滴ずつ一滴ずつ滴り沁み込ませる様に花の絵を描く。その手は自然と動いてくれた。先ほどの重たい足とは打って変り、自然と丁寧にまるで形を知っているかのように動いてくれる。否、本当は〝描きなれていた〟慧は毎年この灯篭を作っていた。

 その都度、胸を締める感覚に足が震えて何処かに行きたいと此処からいなくなりたいと訴えてくる。それを飲み込んで、今はただ集中して一枚の和紙に花びらの一枚一枚を絵に落とし込む。不思議な感覚だった。何処までも何処までも蝕む毒の様に消えてくれやしない、其処にあるのだと知らしめるようで、何処までも慧を苦悶させた。


「…かけた」


 息を吐いて、目を閉じた。和紙を乾かすために縁側に差す日向に置き、その横に腰を掛けた。


「こりゃあ綺麗な藤の花ねぇ。こっちは勿忘草かえ?」


 そういって祖母は微笑みながら麦茶と茶菓子を乗せた盆を置き、慧の書いた絵を視てふむふむと何処か懐かしむように微笑んだ。慧はそれが少し嫌だった。口に出す程でもないし怪訝な顔をするほどでもない。ただ腑に落ちなかった。


〝どうして居なくなった人と自分を重ねるんだろう〟


 祖父は絵が得意だった。それこそ画工として名が知られていたほどに。故に祖母は恐らく自分の向こう側に亡くなった祖父を見ている。遺伝とか血筋とかそういう論理的なモノじゃない、なんとも言えないこの感覚を慧は言葉にすることができなかった。


「もうすぐ、迎花むかえばなの咲く時間ねぇ、灯篭組み立てたらお迎えの準備しようねぇ。迎海寺げいかいじのお住職さん…義正よしまささん、いらっしゃるからそれまでには組み立て?」


 そういって祖母は時計を眺めて柔らかな視線を注いだ。慧はうんと頷くと乾いた和紙を手に取りゆっくりと組み立てる。組み立てるたびに底知れない虚しさが湧いて来るようで胸を締め付ける様な痛みがずっと、言い難い淀みが瘤になって溜まっていくようだった。


「海還り…」


 忌々し気に口から零れたその言葉はこの地方だけで知られたいわばその土地固有の祀りだった。各地で言うお盆である。死者が家族の元へ還ってくるという、曖昧なものだ。だけどこの島は少し違った。言葉の通り死者は目に見えて本当に帰ってくるのだ。

 否、そう呼ぶには少し違う。実際はただ、ただその幻影が視えているだけだ。そこにその人は存在しない。空虚な実感と確かな真実。死んだ人は何処までいっても戻らない。感傷に浸るだけの風習だ。

 この土地を調べた科学者はこの島にしか咲かない花〝迎花〟の花粉が自分の中の〝思い出の人〟の幻覚を見せているだけなのだとか。そんなことを語っていた覚えがある。だけど古くから根付いた風習とは消えないものでこの島ではもうずっと、それこそ計り知れないほど昔からある死者を祀る風習だ。科学的に証明されようが、どうされようが風習とは変わらず絶えず消えないものだと慧は悟った。だからこの海還りの日に誰が見えようとそれは過去、思い出から連なる在りし日の投影でしかない虚しいことだと慧は思っている。

 夕凪 慧はこの風習が嫌いだった。この風習の為に帰ってくるのが憂鬱だった。決してこの島が嫌いな訳ではない。祖母の事も亡くなった祖父の事もちゃんと好きだったが、この〝海還り〟だけが好きになれなかった。古いとか現実味がないとか胡散臭いとかそういった言葉で割り切れるものではなくただ沈黙に潜る。心を燻ぶらせて胸を満たす感覚は灯篭を作ることに慣れた指先と違って、心は何時まで経っても慣れてくれないものだ。


「おばあちゃん」


 それは甘えだったかもしれない。祖母には酷いことをいうかもしれないと、慧は胸のどこかで思いながら言葉を探す。探して選んで迷っていた。その様子を見て祖母は少し困ったような顔をして笑ってから静かに、その枯れた声を響かせる。


「…大丈夫、今年はきっと会えるさね。だからちゃんと迎えておやり」


 それは決して聞きたかった答えでは無い。だけどその言葉は、その言葉を、慧は聞きたかった様な気がして探していた言葉を手放していた。喉を振るわせる言葉は何も無い。何も、無い。


「…うん…うん」


 夕凪 慧が〝海還り〟が嫌いな理由。それは幼き日の友人、坂口千春に何時まで立っても出会えなかったからだ。毎年毎年、慧は彼女のために灯篭を作ってきたが、坂口千春の幻影が目の前に現れてくれたことは一度も無かった。本当は生きているんじゃないかと妄想に浸ったこともある。だがその都度、その都度脳裏によぎるのは火葬場で小さな骨だけになってしまった千春の姿で、その遺灰が彼女の5分の1にも満たない小さな壺に収められていた、あの瞬間。そして彼女が眠る墓石が無情にも現実を突きつける。


「慧、大丈夫かえ?」


 その言葉に我に返った。慧は何処か考えに没頭するあまり手を止めてしまっていたらしい。慧は「ああ、ごめん」と言葉にするとそのまま灯篭を組み立て居間のテーブルに置いた。祖母の灯篭と、自分の灯篭と、母の灯篭。三つ並べる。祖母と母は祖父に向けて作ったものだろう。慧は温くなった麦茶を飲み干してそれを眺めていると、家のインターホンが鳴った。祖母の対応からして迎海寺の住職である義正が来たらしい。


「こんにちは慧くん、また大きくなりましたね」


 祖父へ経を上げに来た住職の義正がふと顔を覗かせ穏やかな笑みを慧へ向ける。慧は慌てて正座で座り直すとおずおずとぎこちなく頭を下げた。その様子が面白かったのか義正は口元に手を当てて笑うと仏壇の前へと足を運んだ。


 祖母と母、慧の三人で義正が読み上げる経に耳を澄ませ、静かに目を閉じる。


───「けいちゃん」


 それは曖昧な夢とは違って確かな記憶だった。黒い髪の少女が麦わら帽子を飛ばされないようにつばを握りながら微笑んでいた。夏の日差しと青い空が似合う女の子でその瞳は空の様に澄んだ綺麗な色で、海の様に深くて印象的だった。彼女は子供の少ないこの島で、三人しかいない幼馴染の一人だ。子供の頃毎日遊んだ覚えがあるがそれは手応えの無い幻想の様で、もうこの世の何処を探しても見つからない光景だった。

 思い出してもこの胸の溝が埋まるわけではない。気が付けば義正は既に経を読み終わり、此方に向き直っていた。今の倫理観などを説いてから、義正はじっと、慧を見据えていた。話半分で聞いていて内容が入っていなかった慧は思わず身じろいだが、義正はその様子を見て口元を隠して笑った。


「近年の研究で、海還りの仕組みが解明されていましたね。勿論私も驚きました」


 そういって義正は庭先を眺める。その視線の先にあるのはこの島にだけ咲く花…、迎花と呼ばれる小さな花だった。科学者の事はよくわからないがあの花が海還りという風習に最も根強く絡んでいることは何となく理解できた。それを科学的に解明してしまうというのは神秘のヴェールを剥いでしまう事であり、解明された神秘はその瞬間にただの現象に変わり果てる。もっと言ってしまえば神様といった存在が用意したその神秘さというものに、ヒトは有難がらなくなり目に見えて褪めていくだけの信仰の終りでもある。きっともう廃れていくだけの伝統になるのだろう。


「海還りで仏様が戻るというのはマヤカシである。そう思う方も少なくはないでしょう。実際、仏様というのは目に見えるものではございません。ですがこの海還りでそのお姿を、迎花を介して現われになるというのは、皆様を見守っているよ、という仏様からの思し召しが生んだ花であると私は解釈しております。科学的に解明されたとて、迎海島は特別な場所で海送りは特別なものです。迎花も不思議とこの地にしか咲きませんから」


 確かに、と慧は思った。結局何故故人の幻が見えるようになったかは解明されたが、結局その花が咲いた理由。どうしてこの島にだけ迎花が咲いているのかはまだわからない事だった。だがそんなことを考えても慧には結局わからない。


「それに本来、海還りとは仏様と再会するためのものではございません」


「海還りは本来、今は亡き人を亡き人であると定め認め、心を整理するための風習です。実際、迎花によって視える人の中に、生者はいませんからね」


 その言葉を聞き慧は考え、言葉を詰まらせた。仏様…きっと死者の事をいうのだろう。その死者に千春に会えない理由はなぜなのか?ますます分からなかった。余計に混乱した頭の中をかき乱す様に、頭を搔いた。


「…腑に落ちませんか?」


「あ、いえ、そういうものだって、解かっています。解っていますけど…」


「…千春ちゃんの事ですね? 昔相談してくれましたね」


「…はい、まだ…まだなんです。今年もダメなんじゃないかって思って」


 その言葉を聞いて義正は顎をしゃくった。それから少し間を開けて安心させるように微笑みながら口を開いた。


「…、…では、後程、迎海寺げいかいじにいらしてください。少しお話をしましょう。夕方には私も寺へと戻ってまいります。」


「…わかりました。」


 その後直ぐに、義正は「では、また」と言葉を残して微笑むと次の家へと向かっていってしまった。遠くなる彼の背を眺めながら慧は溜息を吐き出す。どうして答えを知っている様子にも関わらず、周りの大人は勿体ぶるのだろうと。今すぐ知りたいという焦燥感に充てられた気がして慧は夕方まで時間を潰すことにした。自分の頭で考えてもどうせ答えは出てきやしてくれないのだから。



 夢を視ていた。海の見える病室で一人、退屈そうに外を眺める黒い髪の少女を前に、二つ結びのやや茶色のかかった髪の少女、七瀬 誠は言葉なく立ち尽くす。子供でも分かることだった。それ故に残酷な事だ。

 黒髪の少女、坂口 千春は〝不治の病に侵されている〟それだけだった。二人は幼馴染だったが、それ故に分からなかった。


「どうして黙ってたの?」


 単純な質問だった。しかし知ったところでどうなるかなんて、誠には到底想像も付かなかったし想像すらしない。それに対して千春はただただ困ったかのように笑うのだ。誠もまた千春を困らせるつもりは無いからこそ、どうしてやることもできないから言葉を詰まらせて、一番聞こうと思った言葉は喉の奥で引っ掛かり、震えて絞られていく。


「死、ん、じゃうの…?」


 その言葉の答えは聞きたくなかったが、聞かなければならなかった。そうして言葉が零れると同時に目からぼろぼろと涙が零れた。スカートをきゅっと握りしめながら喉を振るわせる。彼女の前では笑っていたかったのに、笑っていたかったのに。だからせめて泣き声だけは上げないように唇を必死に嚙みながら慟哭を堪えていた。しかし千春は無情にも現実を突きつける。


「うん」


 そういって悲しそうに微笑むのだ。ただその表情は子供のそれとは程遠く悟った者の表情で、その両腕は誠の頭を包むと優しく抱きしめる。彼女は静かに誠の耳を自分の胸に充てる。とくとくと弱くも確かに心臓の音が、誠の耳に伝わった。それから千春は出来るだけ優しくそして、慰める様に「でもまだ、生きてるよ」といって笑う。「今すぐ死ぬわけじゃ無いんだよ」としかしそれがもう目の前である事には変わりがなかった。


「ありがとう誠ちゃん」


 千春はそういって誠を抱きしめる。誠は堪えていた声を零して泣きじゃくった。泣きじゃくる事しか出来なかった。酷な事であるが千春にとって誠のその涙は嬉しいものだった。誰にも悲しんでもらえなかったらどうしよう等と考えていたが、この子は泣いてくれている。そう思うと、自分が向かう先がどんなに怖くても小さな灯の様に胸を温めてくれる。決してその言葉は口には出せないけど。そして今から残す言葉がきっと彼女に苦しませるだろう。だけど絶対本人には言えないからこそ彼女に言葉を託すしかなかったのも本当だった。


「誠ちゃん、お願いがあるんだ、聞いてくれる?」


「なあに?」


「 」


 風が凪いだ。海風が白いカーテンを揺らして波のさざめきと蝉の声が遠く、遠く霞んでいく。千春の言葉は遠く上の空の様で流れる入道雲の様にまるで遠い先の事の様で、ずっと目の前の事。白波の泡沫の様な一瞬の事。それは誠の中にずっと根を張り続けることとなる。そうこれは夢ではなく思い出なのだ。既に色が褪せ始めた思い出でセピア色の世界の思い出なのだ。


「自分で言え…馬鹿」


 悪態を付きながら七瀬 誠は目を覚ます。ゆっくりと身体を起こすと同時に熱くなった目頭から溢れた涙が零れた。外はやや日が傾いて夕焼けが段々畑のようになっている街を照らしていた。遠くから聞こえるヒグラシの声に耳を澄ます。今年初めて聞いたその声に混じって何処か聞き覚えのある声が耳を翳めた。


「それじゃあ行ってきます」


 向かいの家から出てきたのは幼馴染の一人の夕凪 慧だった。慧の姿を見て誠は息を飲んだ。


「ちょっと出かける」


 気が付けば、誠は家の外へと飛び出した。ガラっと開かれた扉の音に気が付いた慧と視線が絡む。


「誠?」


「け、けいちゃん、久しぶり…帰ってきて…たんだ」


 思わず言葉を喉に詰まらせる。言いたい事ではない言葉が零れて息を飲む。


「うん。そっちも?」


 当たり障りのない言葉に誠は「う、うん」とおどおどとした言葉で返してしまった。彼女を知っている学友なら恐らく、今の彼女を見てたいそう驚くだろう。七瀬 誠はこんなにおどけた態度を取る様な少女ではないのだから。でもそうさせるのは幼馴染だから、というだけではない。先ほどの夢に出た思い出がそうさせてしまう。今だって普段とは違う上ずった自分の声に少し恥ずかしさを覚える程だ。だが、言わなければならないことがあってそれを言わなくちゃいけない。だから飛び出した。そのはずなのに言葉は選んでいるうちに霧散して、喉から出るのは掠れた吐息だけだった。


「あ、ごめん、久しぶりに会えて嬉しいんだけど、迎海寺に行かなきゃいけないんだ」


「そ、う…」


 慧との視線が解れた瞬間、なんとも言えない感情が胸の中に芽生えた…。否、最初からその感情はそこにいたのだ。それが今更芽吹いて胸に広がっていく。暗がりを煽る様な燻ぶる感情のまま、誠は口を開いた。


「待って」


「…? 誠?」


「あたしも行ってもいい? 千春のお墓参り、まだなんだ」


 その申し出を断る理由が慧にはなかった。慧は「うん」と頷くとゆっくりと誠に合わせて歩き始めた。歩き始めてからは特に言葉はない。話したい事は沢山あるはずだったが枯れた泉の様に唯の何も湧いてこない。閑散とヒグラシの声が響き、夕焼けが二人の影を長く伸ばした。年頃なのか久しぶりなのか、昔何を話していたのか、何処かそんな過去の憧憬を追いかけながら二人は言葉を探す。千春が死んで直ぐ、慧は東京へと引っ越しそれからというもの、慧と誠は全く顔を合わせることが無かった。それ故にギクシャクとした空気がお互いの間に流れ、言葉を攫う。それに過去を思い出せば思い出す程、二人は千春を思い出してしまうのだ。


「東京、どうなの?」


 先に口を開いたのは誠だった。誠は自分でもザックリとして解りづらいし話しづらいことだと理解していたが、他に言葉は出てきてくれなかった。当然それに対して慧は「どうって…」と言葉を濁らせてしまう。それから少し考えてから慧は言葉を選ぶ。


「別に普通だよ」


「ふぅん」


 誠は聞いておいて興味無さそうに相槌を打つ。ただこの妙に重たい沈黙を解消したいだけだった。慧は何となく「そっちは?」と言葉を返すと誠は「別に普通」というおうむ返しに慧は「そっか」と相槌を打つ。


「どこに行ってもけいちゃんはそんな変らないね」


 何となくお茶を濁す様な他愛も無い一言だった。だが、誠の中の慧はもう少し勇敢で優しくて明るく楽しいイメージがあった。正直に言えば今の慧からはその面影はあまり感じられないのが本当だった。しかし慧はその言葉に少し考えてから口を開く。


「誠はちょっと変わったね」


「…そう?」


 変わったと言われて少し、間を置いた。誠は彼の腹の内を探る様にきょとんとした表情をして見せる。確かに性格は少し変わったかもしれない。それは慧も同じだろう。だけどそうじゃない事だけはヒシヒシと感じてならなかった。


「昔は呼び捨てだったじゃん」


 その言葉に思わず歩んでいた足を止めた。


「…そうだっけ? 昔の事はあんまり覚えてないんだよね。呼び捨てのほうがよかった?」


「うん」


 それは少し誠の胸を締め付ける。誠は胸の違和感に触れる様に胸元に手を置きながらため息を一つ吐きながら「足りえない…か」と呟いた。七瀬 誠は薄々感じていたものを改めて実感する。解っていた事だがその現実は直視となると少し苦しいものだった。七瀬 誠は坂口 千春の代わり足りえないのだと、実感した。



「おや、誠ちゃんも来たのですか、いらっしゃい。よく来ましたね」


 迎海寺の石階段を上り本堂へと向かう途中、横から響いた声に二人は視線を向ける。その先には住職である義正が歓迎する様な爽やかな笑みを浮かべ慧を待っていた。


「千春のお墓参りに…その、偶々慧と会ったんです」


「え? 誠が…」


 口を開いた瞬間、誠は慧の脛を軽く爪先で小突く。その年頃らしい態度に義正は口元を隠して笑った。


「千春ちゃんもきっと喜びますから是非そうしてください、本堂で待っていますから」


 そういって義正は本堂へと足を向ける。慧は思わず話したいことを口にしようとするが、噤んだ。その背が先に成すべきことを成せと訴えているようにも思えたからだ。慧は躊躇っていた。何度も千春の墓参りに行ったが正直、一人で行ったことが無かった。墓地が怖いなどと子供な理由じゃない。もっとはっきりとした、しかし曖昧で理解しがたい感情がありとても近づき難かった。現に今も誠が先に歩いているからこそ、その足跡をなぞる様に歩いて行けているが彼女の前に立って歩くこと等、想像もできなかったししたくもなかった。本堂の脇を抜けて木の日陰が大きく伸びた石の道を歩く。カナカナ…と啜り泣くヒグラシの声に混じり遠くから海のさざめきが響く。その古い道を抜けた先に、迎海寺の墓地あった。

 迎海寺の墓地は海沿いの崖に作られ時間が止まったかのような穏やかな場所だった。海猫の鳴く声と、沈む夕日を海が照り返す。きらきらと輝いて見えるその中に蜃気楼で揺れる遠くの街が見えた。

〝坂口家〟と書かれた墓石には既に花が添えられていた。恐らく千春の両親が来たのだろう。既に灰になった線香の跡が此処に来たことを教えている。

「…」


 慧は言葉を失った。否、思考が停止していた。熱中症にでもなったかの様にぼんやりとして胸の中が強く締まる様な感覚に苛まれた。嗚呼、嫌だ。見たくない。見たくない。そんな考えばかりがよぎり足が震えた。思わず目を背けてしまう。


「…約束、守れなくてごめんねって、千春、言ってた」


 それは坂口 千春が七瀬 誠に残した言葉だった。その言葉は呪いの様に誠を蝕み、今も苛んでいる。慧は握りこぶしを作り俯いた。「けいちゃんに伝えて」と千春はあの日、誠にそういって笑ったのだ。他愛もない冗談の様に。幼き日の誠はそれを真に受けて引き受けた。だがしかし、実際は今に至るまで、口にすることすら叶わなかった。あの日以来、三人の時間は止まってしまった。千春が死んだあの時に。当然、三人の時間は疾うの昔に終わってしまったのだが、生きている二人はまだ進まなければならなかった。千春の居ない世界での、三人の時間を。止まったままになっていた時間を誠は動かした。それは恐らく慧を酷く苦しめる事となると解った上で。


「…治るって言ったじゃないか…」


 恨み言の様に慧の口から言葉が溢れ出た。誠は線香をあげ終え黙祷を捧げてから慧に視線を移す。慧は震える手で線香を入れるが、目を逸らすばかりでまともに黙祷すらできない雰囲気だった。


「慧、ちゃんと見て」


 誠のその言葉に全てが詰まっていた。誠は「ちゃんと見て」と繰り返しながら慧の手を取り強引に引くと墓石の前に突き出させる。少し乱暴だったが誠はそうする事しか出来なかった。


「ちゃんと見なきゃ駄目」


 「あたしだって辛いんだよ」とその言葉は飲み込んだ。必死に喉から出ないように飲み込んだ。この世の終わりの様な顔をする慧に対する苛立ちも、面倒な遺言を自分に残した千春にも思うことは沢山ある。だが、それよりも今はただ、誠はただこの事実を慧に受け止めてほしかった。


「…千春はもういないんだよ。死んじゃったんだよ。慧」


 慧の中で時間が進み始める音がした。その言葉に慧の意識を無視してぼろぼろと涙が溢れ出る。「解っていた。解っていた事じゃないか」と自分に言い聞かせるが感情に歯止めが効かない。崩壊した情緒のまま今まで溜め込んだものを吐き出す様に慧は砂を握りしめて声にならないような慟哭を慧は上げた。その瞬間に鮮やかだったあの頃の記憶が滲んで急速に色褪せていく。嗚呼心が言っている。心が否定している。だけどその事実が胸に苦しい程嫌な程、憎い程に、静かに落ちてくる。認めてしまう。頭で解っていたことをちゃんと受け止めなきゃいけないと囁く様に、残酷で無情でそして当たり前の事で、燻ぶっていた胸を満たしてくれた。


「だって治るって言ってたじゃないか…! 言ってたじゃないか…! どうして…! どうして! 答えてくれよ千春!」


 応えは無い。ただ胸の中に巣食っていた暗がりの正体が、今、何となくわかった気がした。それは、千春がもうこの世に居ないという事実を認める事だった。ただ脳内で漠然と解っていただけ、理解しただけ。心で受け止められてはいなかった。それは魔法にも似て認めれば認める程、身体が軽くなっていく、胸の中の淀みが晴れていく。溜まった物を吐き出して嘆き叫んだ。その慟哭に誠は言葉も無くただ目を逸らした。それは醜いとか、見ていられないという感情ではなく、ただ見なかったことにしたのだ。千春はそれだけ二人にとって大きな存在だった。ただの友達と割り切れないようなそんな関係だったからこそ、慧はその死を認めることができなかった。認められなかったのは誠も同じだったが、何時しかそれは擦り切れて気が付いたら自分の中で丸く収まっていた。


 嗚呼、これがきっと忘れていくという事なのだろうと、誠は悟った。気が付けば褪せていく思い出となって流れていく。千春が死んで直ぐに慧が東京へ引っ越して、誠は当たり前の様に独りぼっちになった。だが、それがなんだと言わないばかりに、無情に世界は周って時間は過ぎて行く。気が付けば高校生にもなっていて最初は耐え難かった心の溝は時間が埋めてくれていた。だがそれはきっと慧も同じだと解っていた。ただ慧はその心の溝を埋められないまま此処まで歩いてきてしまったのだろう。だが、それは何時か埋めなおさなければならない。自分がそうしたように、それが早かったか遅かっただけの違いだ。


 千春はもう、思い出の人にならなくてはいけない。慧はずっとそれが出来なかった。それをどうして同じ痛みを抱える誠が糾弾できようか。誠は今になって奥歯を噛み締めながら堪えていたはずの涙が瞳の奥から溢れ出たのを感じた。冷たいものが流れ出て胸に残る暗がりがやがて温もりに変わるまで、二人は涙を零す。気が付けば黄昏色の空に群青が燃えていた。

一瞬で空を暗闇が包み込む。幼い日は怖かった夜が今は温かく包み込んでくれる漸く落ち着いた慧は静かに黙祷を捧げると泣き腫らしたままの顔で誠に振り返った。


「ごめん」


「良いけど、顔見ないで」


 泣いたのは誠も同じだったから。もう既に暗くなっても星の光と月の光がぼんやりとお互いの姿を浮かばせる。


「ほら、行こ。義正さん、待たせてるでしょ」


 誠の言葉に慧は「うん」と頷くとゆっくりと歩きだした。先ほどまで明るかった道はもう既に真っ暗だったが、不思議と怖くはなかった。寧ろ何処か心強くて温かささえ覚える程だ。本堂の前に差し掛かると提灯を持った義正が心配げな顔で此方へと駆け寄って来る。


「ああ、二人とも良かったです。もう少し暗くなったら迎えに行こうかと思いました」


「遅くなってすいません」


 そう答えたのは慧だった。義正は慧の表情を視ると全てを悟った様に頷くと「いいえ、ちゃんと向き合えたのなら良かったです」と穏やかな声で微笑んだ。


「すいません、僕。どうして義正さんやおばあちゃんが教えてくれないのかってずっと思ってたんです。意地悪なんじゃないかって。でも、わかりました。ちゃんとわかりました。千春はもういないんだって…それを教えたかったんですよね?」


 そういって慧は俯きながらその真実を咀嚼する様にゆっくりと言葉にした。義正は静かに首肯する。義正は慧が千春の死を認められず引き摺っていることは解っていたのだ。だが、誠がそうだったように時間が解決するものだと思い、確信に迫る答えを与えるつもりはなかった。


「…はい。その通りです…。それは自分で見付けなければならないことなのです。答えを隠すような真似をしてごめんなさい、慧くん」


「…いえ、誠の御かげです。誠が…向き合う様に言ってくれたんです」


 誠は少し恥ずかしそうに視線を逸らし「別に」と素っ気ない態度と返事をする。義正はその様子が面白くて思わず口元を隠して笑う。


「ふふ…、今ならきっと会えるかもしれませんね…着いてきてください」


義正はそういって優しく慧の頭に手を置くと静かに寺の庭園へと歩を向けた。二人はその後に次いで歩き始める。義正の言葉に、慧の胸には期待と不安が混ざり合う。


「…僕さ、ずっと視えなかったんだ千春の事」


「…知ってる。慧のおばあちゃんが心配そうだってお母さんから聞いたから」


「…そっか、誠にも気を遣わせちゃったね。ごめん」


 その言葉に誠は視線を合わせることなく、軽い溜息をつきながら唇を尖らせながら口を開く。


「当り前じゃない。あんた海還りで一緒に向こうに逝っちゃいそうだって皆心配してたんだよ?」


 その言葉に慧は俯いた。自分ではそんなつもりはなかったが他人にはそう見えていたのかもしれない。そんなことは無いと誠の言葉を否定しきれない気持ちが胸の中でぼんやりと胸に残る。慧は手に汗を握る様な胸の冷える感覚を覚えた。


「実際に、海還りの日に人が亡くなる事はあります」


「亡き人に思いを馳せ共にありたいと願ってしまうのです。ですがそう思ってしまうのは…、願ってしまうのは…、決して心が弱いからではありません」


「その方がそれだけ、その人にとって大きな存在だっただけです。寄る辺なくして人は生きてはいけませんから、人の死に絶望を見出してしまうのは無理からぬことなのです」


 そういって義正は慧の感情を否定せずにただ在り方を説いた。


「ただ、それでも生きないといけないのです。この世隔てた幽世を極楽浄土と呼ぶのはそういった事なのでしょう。キミ達はちゃんと…勿論私もそうですが、まだ先があります。生きねばなりません。慧くんを此処に呼んだのはそれを知ってもらう為です」


「生きていくだけで、どうして苦しむんでしょうね…」


 義正の言う通り、この世隔てた幽世を極楽浄土と呼ぶのはきっと、この世は地獄なのだろう。この胸の痛みはきっと、自分の周りで人が死ぬ度に思えてしまうのだろう。そしてその都度、その都度受け止めていかねばならない苦難であり、幾度となく自分を蝕んでいくのだろう。それを考えれば、「死んでしまったほうがましかもしれない」そう思えてしまうのも頷けてしまうものだ。きっと海還りの日に死者と共に消えていった人たちは、そう思ってしまったのかもしれないと慧は思った。


「それこそ生きているからこそ、です。苦悶も痛みも生きている証です。生きているからこそ苦しみそして藻掻いて生きていくのですよ。死ぬに足る理由を見つけるために」


 死ぬ為に人は生きている。そう言っているようにも聞こえる言葉だった。


「さぁ、着きましたよ」


 そういって義正は庭園へと続く扉を開け、ゆっくりと二人を招き入れた。するとやんわりとした黄金の煌めきが鼻先を掠める。暗がりの星の様に漂うそれは蛍だった。耳に響くのは穏やかな小川の音。鼻先に香る柔らかな匂い。


「さぁ。迎花が咲く時間です。いってらっしゃい」


 義正はそういって提灯の明かりを消した。暗がりの中、月の明かりだけが空に残されて、青い光が頬を撫でる。視線のその先に淡く光る銀色の世界が広がっていく。それは星の海の様に淡く白い光を讃える。それは命の輝き。月の明かりに照らされて淡く輝く〝迎花〟だった。あたり一面に咲き乱れて揺れるその光景はこの世のものとは思えないほど美しく、この世の何処よりも儚く揺れていた。

 空に舞う蛍たちが二人をその世界へと誘い踊る。二人はその景色に何処か心を奪われた様子でゆっくりと歩いた。


「…綺麗。こんな場所…あったんだ…」


 誠は呆然とした表情で言葉を零す。迎花は確かにこの島で多く見かけるが群生して揺れる姿は見たことが無かった。何処までも美しく今までの事なんて全て忘れてしまいそうな程。ふと視線を外に向ければ下っていく町の明かりが点々と灯り、暗い海の中に帰る場所を示す様に温かく揺れている。心が震えた。感動というのは言葉にならないものだった。

唖然としてその景色に心の奪われているとまるで二人を現実に引き戻す様に、木々が揺れてざわめく様な音共に一陣の風が吹き抜ける。

 耳に震わすほどの強い風が、迎花の花びらを舞い上げて月夜の空へと消えていく。思わず揺れる髪に目元を覆い、二人はゆっくりと目を開き、息を飲んだ。

小さな川の対岸、簡単に跨げるほど本当に小さな川の対岸に、坂口 千春の幻影が佇んでいた。千春の幻影はゆっくりと二人に向かって振り返ると、あの日と変わらない姿とあどけない微笑みを浮かべる。

 慧は思わず対岸へと行こうとし、足を動かす。しかしその意思に反して、両の足はその場に直ぐ踏み留まっていた。千春は目の前にいる。跨いでしまえばきっと、触れることは叶わなくとも近くでと…。

 だが、だがそれ以上に、慧にとってはこの小さな川の対岸が、どこまでも遠く感じてならなかった。そしてそれは誠も同じだった。二人と千春を隔てるものは余りにも遠い。


「遠いね。届かないや」


 慧は悲し気に笑いながら、やっと出会えた千春に向かって言葉をかける。当然の様に、千春の反応は無い。解っていた事だ。これはただの幻影で本当の千春ではないことぐらい。だが二人はそれでも揃えて口にする。


『おかえり。千春』


 一瞬、千春が笑った気がした。「言いたいことが沢山あったよ」「話したいことが沢山あったんだよ」そんな言葉ばかりが浮かんでは消えていく。でも言葉すらなくていいとも慧は思う。こうして出会えたことの前に言葉など既に不要なものになっていた。

 遠い彼岸の彼方にいる彼女の声は届かない。遠い彼岸の彼方にいる彼女に声は届かない。でもその姿を見ただけで揺らぐ心があった。胸に温かさ灯すものがあった。海還りとは「亡くなった人をちゃんと亡くなったのだ」と認め受け止めて心を整理する為の風習で、生きている人を慰めるために死者からの贈り物だったのかもしれないという義正の言葉を、慧は心の底から理解できた。

 嫌いだった海還りという風習はきっと、そういった大切なものが詰まっているものなのだと。今更理解することができた。まやかしでも良い、幻影でも良い、この島の人たちがこの風習を続けていく理由はとても尊くて、自分も今、それに救われた。


「ありがとう、千春。楽しかったよ!」


 その湧き出た言葉が全てだった。喉を伝い、彼岸の君へ届けるたった一言。遠く及ばない短い一言は果たして其処まで泳ぎ切れるだろうか? そんな考えがよぎる。今、慧は永遠の欠片に触れた。

 もう彼女は変わることは無い。それこそ慧の、誠の思い出の中で変わらぬ姿で在り続ける。人は死んでもその人の中で生き続けていると、誰かが言った。


 だがちゃんと終わらせる事、死したこと認める事もまた、それと同じくらい大切な事だと慧は思った。幻影として揺らいでいた千春は、成長した二人の姿を見届けると、少し悲しそうに、そして少し嬉しそうに笑いながら、祈る様に手を振った。


────『ばいばい、またね』


 千春の影はふわりと揺れ淡い光の泡になって消えていく。言葉は無い。空を震わすことは無いが、そんな言葉が確かに聞こえた気がした。それは曖昧なものだったが、確かに胸を温め、心の溝を埋めてくれる灯となる。


「…ああ、来年もまた…来るよ…」


 もう其処には誰もいなかった。崩れ落ちる様に膝をついた慧に誠は肩を抱く。


「…誰かさんのせいで、言いたい事があったのに…言えなかったや」


 そう悪態を付くがその顔は何処か穏やかで晴れやかだった。誠にとっても千春は大切という言葉で割り切れる友人では無い。だからこそ沢山の言葉があったが、結局何一つも役に立ってくれはしなかった。


「本当、ズルい奴」


 それは少しの皮肉だった。だがこの程度、許して欲しいものだと誠は思う。

 思えば三人だけの世界だった。他に年齢の近い子供もいない。小さな島で生まれ育った三人は、自分たち以外を知らなかった。千春の死別後、慧が引っ越し、この島で最後の小学校卒業生は、誠ただ独りだ。

 ずっと一緒に居られると漠然的に信じていたが、そんなことすら叶わないと知ってから、誠はずっと寂しい思いばかりで心の埋め方すらわからなかった。

 それに比べて千春は、彼女は、〝三人だけの世界〟で終わってしまった。それは決して良い事ではない。でも思ってしまうのだ〝千春はそれでも三人だけの世界に永遠と残り続ける〟そう思うと少し羨ましく思えた。

 慧も、誠も、もうその世界にはいない。三人はもう疾うにバラバラで、違う道を歩み出している。その道の途中で、時々思い出し、その道の途中で、やがて忘れていくのだろう。その結末がどうなるのかは、今は誰にも分らない。

 何時か慧も誠も、千春の姿が思い出せなくなり、この海還りの日にも帰らず、永遠に会えなくなってしまうかもしれない。

 でもそれを望もうとて、望まないとて、世界は無常にも回っていくのだ。そして時間は一定にそして平等に進んでいく、永遠とも思える時間の中でわずかな距離を歩いていく。

 そうしてその中で二人が触れた永遠の欠片は刹那であると知り、千春の永遠もいつか終わる。ただその先の見えない終わりを語る言葉は永遠こそ相応しい。


「帰ろう」


 慧はそう口にする。誠はそれに「うん」と答えると二人は花畑を後にした。

 夢の様な時間はこうして終わりを告げる。目まぐるしかったなと慧は何処か晴れやかな気持ちで思った。もうすっかり夜も深くなり、蛍に混じった流れ星が、空を駆け抜ける。


「誠」


「なに?」


「海送りの日、一緒に送らせてくれないか? 千春の事」


「…ん。良いけど?」


 誠は少し得意そうに答えた。此方から誘うのはなんか癪だとか複雑な乙女心や、そういったものは慧には通じないだろう。ただ千春はそう望むと、誠は思ってやまなかった。


「一人でやったらさ、誠ちゃんと二人じゃなきゃヤダ~!とか言って帰ってきそうだから」


「あ、それ言いそう。」


 そういって二人は会話に花を咲かせる。漸く肩の荷が下りたような気分の慧は、海還りでこの島に帰って来てから初めて、心から笑えた気がした。慧はゆっくりと誠に向き直りながら彼女を呼び止める。


「誠、今日はありがとう」


 真摯な言葉だった。ただその言葉には全部が詰まっていた。


「今日一日、正直、誠がいなかったらどうなっていたか自分でも想像が付かなかった。きっと誠がいてくれたから、受け止め切れたんだと思う」


 その言葉は何処までも真っ直ぐで、少し大人びた誠には少し擽ったかった。


「ふ、何改まっちゃってんの? ま、貸一つね」


「えっ?」


 誠はそういって悪戯っぽく笑ってみせる。でも正直な所、誠は慧に再会して心からよかったとも思っていた。それを慧に言うつもりは勿論無いが、改めて、千春の事や慧に対して懐いていた感情がまとまった気がしたからだ。誠は踵を返すと、慧をその場に置き去りにしながら「あたしこそ、ありがとう」とか細い言葉を零した。


「え? 何?」


 聞き取れなかった慧は後ろから追いかける様に言葉をかける。


「何でもない。今度、東京行くから案内ぐらいはしてよね」


「えぇ…行きたい場所ぐらい絞って欲しいんだけど」


「私田舎者だから」


 誠はそういって少し浮いた足取りで先を行く。慧はやれやれと、苦笑いを浮かべながらその後に続いた。

 庭園の入り口で待っていた義正は二人の姿を見つけると静かに手を振る。


「おかえりなさい」


 その様子を見て語るまでも無かったのだろう。義正はこれといってそれ以上の言葉を問うわけでもなくただ優しく微笑んだ。二人は顔を見合わせると義正に向かって丁寧にお辞儀をする。


『ありがとうございました』


 義正は少し驚いたような顔をしてしまう。感謝されるようなことはした覚えはなかった。彼らは彼らで答えを見つけて来たのだから、ただ自分はこの場所を通しただけだ。だが、義正は静かに頷いてから「どういたしまして」と口にした。


「さぁ、夜は暗いですから送りますよ」



 そういって義正は提灯に火を灯す。ゆっくりと石の階段を下りながら二人は家へと帰っていく。暗い夜に星が瞬く、月夜の夜だった。今日見た光景は恐らく一生忘れないだろう。少しずつ綻んで褪せて行ってもきっと忘れないそう感じてならない。明かりの少ない街の中にぽつぽつと灯った家の明かりを眺めながら一つ一つずつ石階段を下っていく。

 帰路の中で慧と誠は何となく今何をしているのかを話していた。この島の近くの港町に誠も引っ越してそこから高校に通っていること、慧は東京の高校に通っていること。歩いてきた道のりを少しずつ、違えた道を少しずつ話し合った。こうして交わった道程の先。また違えても、きっと寂しくない。孤独に苛まれて振り向いても独りの足跡だけじゃないと実感できたのだから。


「それじゃあ、おやすみなさい。二人とも」


「おやすみなさい、義正さん」


 そう考えるうちに二人は家の前に立っていた。此処まで送ってくれた義正にお礼を言うと義正は静かにお辞儀をして踵を返す。


「…それじゃあ、海送りの日に。おやすみ。誠」


「うん、おやすみ。慧」


そういって二人はそれぞれの扉を潜っていく『ただいま』と二人の声が重なった不思議な夜だった。



 海送り当日。あの日と似た群青が燃ゆる空に銀色の星々がぽつぽつと明かりを灯し始める。その日島中の人が川沿いに集まっていた。皆が皆、手に持った灯篭に火を灯す。海から還った死者の魂は、生者を慰めてくれる。生者はそんな死者を尊び感謝し、送り出すのだと言う。水面はこの世じゃない幽世への入り口であると誰かが言った。誰が言ったのかはもう思い出せないが、この灯篭の明かりが水面に写って、千春に届いたら素敵だと慧は心から思っている。


 慧と誠は静かに水面に灯篭を浮かべた。千春を思い浮かべながらこの灯を海へと送る。緩やかに穏やかに迎海川は灯篭を海へと運んでいく。ゆっくりとゆっくりと遠くなっていく。少しずつ視えなくなっていく。少し暗くなった海へ橙の灯が流れていくその姿は、海の星々。灯煌めく海の向こうに、千春の憧憬見ながら慧は「さようなら、また会おうね」と言葉を口にした。風に乗ったその言葉は空へと溶けていく。遠い過去の様に思えてしまう昨日の憧憬を重ねながらその光景を目に焼き付けた。


「帰っちゃったね」


 誠は何処か名残惜しそうに見送った灯篭に呟く。もう遠くへ行ってしまい本当に届かなくなってしまった。改めて彼我の距離を感じて慧は胸に手を当てる。


「また…、また会えればそれで良い。僕等が生きている限りまた何度だって千春と逢えるんだ」


「慧…」


 蒼い夜の事だった。雲一つ無い夜空は深い海の様に星の光を引き立てさせて深く暗闇へと優しく誘う。この島で見る夜空は慧にとっては何処よりも優しい夜空だった。もう寂しくないと口にすれば嘘になる。だけどあの日々を嘘だったかの様に忘れて俯くことはもう無いだろう。心を温めた胸の灯は独りでも輝いてくれる。その一粒の星の様に誰もが持っているとするならば人の営みが齎す地上の星は本物かもしれない。それは曖昧な揺らぎかも知れないし刹那の輝きだろう。だけどそれを繋いだ実感は確かに孤独を拭い去ってくれた。

 誠は思う、きっとあの小さなときに感じた深い孤独を拭ってくれたのはきっと、千春だったのだと。慧とこうしてまた再び道を交えるこの縁は、深い孤独に苛まれた少女の心を確かに救ったのだ。それは偶然だったかもしれない。都合よくそう思っているだけなのかもしれない。だが、誠はそれでも良いと思っている。胸に残る確かな寂しさ、それが暖かな思い出に変わる瞬間に、空は滲み星を零した。


「あ、流れ星だ!」


 誰かが言って皆が空を見上げた。それは一瞬で消える星の煌めき。いくつもの星が銀糸となって消えていく。その流れた星はきっと誰が齎したものでは無い。単なる偶然だろう。だが、これを神秘と言わずして何を神秘と語るのだろう。


「…ありがとう、千春」


 こうして夜は沈んでいく、幾重に朝と夜を重ねて行く為に。無情にも思える時間という流れの中で、取り残されて仕舞わない様に。彼等もまた歩んでいく。その中で傍を離れて行った人たちを思い、時に悔やみ、嘆きながらそれでもと絶望の中に希望を見出して曖昧な道を行く。それは永遠とも思える時間の中のほんの刹那。振り返れば長い道が続くのだろう。その旅の果てで楽しかったと笑えるなら人生はきっと良い物だろう。それはきっとまだ、彼らにはわからないものだ。そして知らなくても良い事で、何時か知っていく事となるだろう。

 坂口千春は少し早くそれを知っただけだ。何故なら彼らはまだ生きていて、今すぐ死ぬわけでは無いのだから。これから続いていく未来に思いを馳せながら彼等は歩いていく、生きていく意味を考えながら。


迎花について:見た目のモチーフは勿忘草です。白い小さな花を沢山つける植物で、その花粉がヒトの脳に作用して「自分が死んだと認知した者」の幻影を映し出します。海還りの時、7月の初夏にしか咲かず、咲いても3日程で枯れてしまいます。

迎海島のお盆は7月盆です。不思議な習性があり必ずこの日に咲くというのが決まっているようです。科学的に海還りの仕組みは解明されましたがまだまだ解っていないことが多い不思議な植物です。また迎海島でしか育たないようです。


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