貴族ということ
「……あり得ないですわ」
私はジョウロ片手にそう呟いた。私の目の前には、広大な花壇が広がっている。そう、私が前世の記憶を取り戻す前、嬉々として管理していた、正真正銘私の花壇である。
バラやマーガレット、チューリップ、ユリ……よく分からないけれどたくさんの種類の花が咲き誇っていた。しかし、最近私がお世話を疎かにしていたせいもあって、少し萎れ気味である。
貴族の嗜みとして始めた花壇。昔は良くても、今は無理。私は虫が大嫌いだ。外に出るとたくさん虫がいるから前世はインドア派だった。なのに……。
目の前でひらひらと蝶々が飛んでいる。それを見て逃げ出したい衝動に駆られるが、グッと堪える。
ここで逃げちゃダメ、耐えるの、大丈夫、蝶々はまだあんなに遠いところにいる。まずは虫がいない場所から水やりをするの。
私は自己暗示をかけながら、おっかなびっくり水やりをする。
私にほったらかしている花壇の世話を再開するように言った母を恨む。確かに萎れていたら見栄えが悪いけれど、虫が大嫌いなのだから仕方がないではないか。だいたいこれを始めたのは昔の私だ。今の私が継続させる意味がない。
しかし、あんなに嬉々として行っていた花壇の世話を、いきなり全くやらなくなるのはさすがに不自然だと思ったのだ。だから、せめてこの咲いている花たちが寿命を迎えて枯れるまで、頑張ってお世話しようと決めた。
多分一年も経てばここは更地に戻るだろう。戻るはずだ。戻ってくれないと困る。
私が虫にビクビク怯えながら水をやっていると、不意に後ろから、
「水やりか?」
と声が聞こえてきた。私はビクッとしながら振り返る。そこには、涼しい顔をした義兄が立っていた。
「ええ、そうですわ。しばらく花壇のお手入れを怠っていたもので、母に言われたのです」
「そうか。……俺も何か手伝うことがあるか?」
その素敵な提案に、私は嬉々として飛び付く。
「いいのですか?それでは、水やりをお願いしたいです。わたくしだけでは、どうしてもこの広大な面積をお世話するのは大変ですもの」
本当にこの全てのエリアを管理していた私はすごいと思う。今の虫嫌いな私には無理だ。苦行でしかない。
義兄は私の言葉を聞き、こくりと頷いてジョウロを取りに近くの小屋へ向かう。そこには花壇をお手入れするための道具がたくさん入っているのだ。
種とかジョウロとかスコップとか、とにかく色々。たまに蜘蛛の巣とか張っているからあまり入りたくないのよね。
やっぱり前考えた通り、前世の記憶が戻って一番大変なのは虫嫌いが復活したことだ。前はそれなりに対処できていたのに、今はもう全然だ。見るだけでも気持ちが悪い。
私がえっちらおっちら花壇の縁を水やりするのに対し、義兄は花を踏まないよう慎重に花壇に入りながら水やりをしていく。
器用だなぁ〜。私だったら絶対無理。花を踏んでしまうし何より虫が怖くて入れない。
その時さわさわと風が吹き、義兄の髪と花がゆらゆらと揺れる。舞う花びらの中にいる義兄は、それはそれは美しかった。
……おおう、眼福……。さすがです推しが今日も尊いです……。
私がぼーっと義兄に見惚れていると、目の前に蝶々がふわっと飛んできた。そして手に持っているジョウロに止まる。パタパタと羽を上下にする様子を見た途端、私は声にならない叫びを出してゴトリとジョウロを落とす。
すると、落ちた衝撃で蝶々が飛び立ち、あろうことか私の方に飛んできた。
「いやぁあああっ」
私は大声を出して全速力で駆ける。無理無理本当に勘弁して蝶々怖い大嫌い!
すると何故か向こうからゆったりと歩いてくるシューベルトとフォスライナが見えて、私はそのまま二人のところへ駆けて行き、背中に回り込む。そしてがっちりと背中を押さえて蝶々から自分を守る。
「え、えーと……ロディアーナ嬢?」
「お前、何やってるんだ?」
戸惑う声もスルーして、私は恐る恐る花壇の方を見る。すると、そこには蝶々はもうおらず、義兄が慌てて走ってくるのが見えた。
いやぁ〜、助かった助かった。令嬢らしからぬ大声をあげてダッシュしてきちゃったけれど、自分の身の危険はちゃんと回避できた。
私が背中を掴みながら一人ホッと息をついていると、
「ルナディール、どうしたんだ?急に走り出して……」
と義兄が私に近付いて聞いてきた。
背中からひょこっと顔を出して義兄の方を見ると、とても複雑な顔をして私の顔と、私が掴んでいる人の顔を交互に見た。
そこで私はあっと気が付いた。急なことで気付かなかったけれど、この背中はフォスライナの背中だ。二人が歩いてくるのをこれ幸いと、近い方の背中に隠れたのだ。でも良く考えたら、王子様を盾にするって結構失礼なことしてるよね。不敬に当たらない?
私はバッとフォスライナから離れて、義兄の近くに行く。そしてえへへと笑って誤魔化しながら、
「その、いきなり蝶々が飛び出してきたもので……つい驚いて逃げてしまったのですわ。驚かせてしまって申し訳ありません」
と正直に白状する。すると義兄は怪訝な顔をして、
「蝶々?」
と呟き、シューベルトは、
「蝶々から逃げてたのか?あんな必死に?」
と笑いながら私を見て、フォスライナは、
「それでは私は蝶々から自分の身を守る盾にされたのですね」
と苦笑しながら呟いた。
それにしても、シューベルトは笑いすぎだ。人間苦手なものの一つや二つあるだろう。私は恥ずかしくてむうっとシューベルトを睨みながら、
「笑いすぎです、シューベルトさま!それより、お二人はどうして我が家へ?わたくし、お約束はしていないと思いますが……」
と聞くと、シューベルトは一瞬うっと固まりながら、むすっとした顔でぶっきらぼうに答えた。
「また遊びに来ると言っただろう」
「私も、また必ず会いにきますと言ったので」
フォスライナも間髪入れずに、素敵な笑顔でそう答えた。フォスライナの魅力的な笑みに見惚れながら、そういえばそんなこと言ってたなと思い出した。さっきの地獄の水やりですっかり忘れていた。
……水やり、まだ終わってなかった。
そこで私は、水やりを途中で放り出してきたことを思い出した。またあの虫がたくさんいる場所へ行かないといけないのか。
嫌だなぁ、なんであんなに広いのよ。水やりなんて一瞬で終わっちゃえば良いのに。機械でドバーッとやった方が楽じゃない?
そこまで考えて、ふと思った。あれ、それって魔法でできない?シャワーみたいに水が降り注ぐイメージをしたら、上手くいくのではないだろうか。
魔力は消費しちゃうけれど、虫と対面する時間が減るのなら万々歳だ。よし、試してみよう!
思い立ったが吉日、私はみんなに、
「ちょっと良いことを思い付いたので、花壇へ行って参ります」
と言うと、颯爽と走っていった。
バッと花壇の前に陣取り、広大な面積をぐるっと見回す。とりあえず、一区画だけで試してみよう。
私はパッと手を前に出し、手からシャワーのように水が降り注ぐようイメージする。花が良い感じに濡れるような量を、満遍なく、ブワーッと出すイメージで……。
イメージを固めて、一気に魔力を放出する。すると、思ったより多めに水が出てしまったけれど、だいたいイメージ通りにできた。ただ、飛距離が足りなくて奥の方には届かなかった。奥からもう一度やる必要があるな。
私は隣の花壇に移動して、今度はさっきよりも飛距離が伸びるようイメージする。すると今度は、全体に水がかかったけれど、量は結構少なめになってしまった。これじゃあ花が萎れてしまう。これだと同じ場所に二回水やりが必要になる。魔力の無駄遣いだ。
また隣の花壇に移動して、飛距離は同じくらいで今度は水量を多くするようイメージして魔法を使う。すると今度は丁度良くいったようで、満足できる水やりができた。
それから残り全ての花壇に水やりをしたが、まだ上手く調整ができず、大量の魔力を消費してしまった。
私は手を開いたり閉じたりして、水やりを短時間で効率的に済ませるには、まだ練習が必要だなと思った。でも、十分時短には成功した。
何より花壇の中に入らないで水やりができるのが素晴らしい。服も汚れないし、虫に触ることもない。これは誇れる魔法を使えるようになったかもしれない。
一人満足しながら、いつの間にか水やりの様子を見ていた三人に、晴れ晴れとした笑顔で言う。
「素晴らしい水やりの方法を見つけましたわ!」
私の言葉に、義兄とフォスライナは微妙な顔をして、シューベルトは身体を折って大笑いした。
なんでそんな反応するの?虫に接触しないで広大な面積に水やりができる、素晴らしい魔法じゃない!これだったらお母さんに咎められる前に、自分で水やりができるわ。それに良い魔法の練習にもなる。一石二鳥、いや三鳥よ!
そのまま四人でお茶をする流れになり、庭にある丸テーブルを囲うように座る。私の右側に義兄、左側にフォスライナ、正面にシューベルトである。
目の前に用意された美味しそうなクッキーやマドレーヌを、すぐさま食べたくて身体がうずうずする。どうやらシューベルトとフォスライナがわざわざ持ってきてくれたみたいだ。なんて素敵な王子様なのだろう!
他にもロディアーナ家のパティシエが作ったケーキなど、色んな種類のお菓子が並べられる。王子様二人がいるだけあってとても豪華だ。
私がお菓子に釘付けになっていると、フォスライナが楽しそうに笑って、
「ロディアーナ嬢はお菓子が本当にお好きなのですね」
と言った。
うぐっ、これはまずかっただろうか。王族を前にお菓子に夢中になるなんて、と思われただろうか。私はなんといえばいいか分からず困っていると、シューベルトはまた無邪気に笑って、
「お前が幸せそうに菓子を食べる姿は好きだぞ」
と言ったものだから、私は固まってしまう。
そんな不意打ち反則だから!好きだとかそうそう口にするような言葉じゃないから!あなたは乙女ゲームのキャラクターですか!?
そう心の中でツッコんで、ああ、そうだったと思い出した。ここは私の大好きなキャラが現実にいる世界で、推しがたくさんいる世界で、きゅんシチュがぼろぼろ転がっているような世界だった。モブでもサブでも顔面偏差値が高くて、恥ずかしくなるような台詞をドンドン言っちゃえるような人たちがたくさんいる世界だった。
こんな言葉一つであたふたしてたらこの世界は生きられない。社交辞令やお世辞だと思って、スルーできるようにならなきゃダメだ。
それに、貴族の女性は褒めるべし、褒めるのがルールだとか何かに書いてあったような気がしないでもない。貴族、辛い。精神的にも身体的にも辛いことがいっぱいあるのね……。
私が遠い目になっていると、急にゴホンとわざとらしく咳をしたフォスライナが、私の方を見てにっこりと笑った。
推しの笑顔を、尊い……!と崇めていると、
「ロディアーナ嬢、今度私とシューベルトで舞踏会を開くのですが、都合が合えば参加していただけませんか?美味しいお菓子ももちろんご用意します」
と一瞬では理解できないようなことを言ってきた。
舞踏会?舞踏会ってあれですか?ダンスしたりするやつですか?え、本気で言ってます?勘弁してください、そんなのに出たらまた何かやらかさないか不安です。無理です拒否したいです、お断りさせていただくことはできますか?
そう心の中で思ったけれど、目の前にいるのは王子である。王子からの誘いは、あまりのことがない限り断れない。
「……もちろんですわ、お誘いありがとうございます」
私は断りたい気持ちを一切顔に出さず、笑顔で答える。すると義兄もすぐさま、
「それではルナディールのエスコート役で私も参加いたしますね。ルナディール一人では不安でしょうから」
と言ってくれた。なんて優しいの、お義兄さま!
私は感動して、声を弾ませてにっこりと返す。
「ありがとうございますお義兄さま!お義兄さまがいらっしゃるのなら安心ですわ」
その言葉に義兄も微笑んで頷く。
ああ、その笑顔尊いです……。
「……分かりました、それでは後で招待状を送りますね。ふふふ、舞踏会が楽しみです」
「ルナディールも来るのか、それは楽しみだ」
王子様二人も揃って笑う。
ああ、二人の笑顔も尊い……。ここは天国ですか、推しの笑顔が炸裂しています、尊すぎます……。
私は三人の推しの魅力にぼーっとしながら、ふと、
「そういえば、フォスライナさまとシューベルトさまは仲良くなられたのですか?この前よりもお二人を包む雰囲気が柔らかくなっていますわ」
と気になったので聞いてみた。すると二人はお互いに顔を見合わせて、肩を竦めた。フォスライナが紅茶を一口飲みながらゆっくりと答える。
「ロディアーナ家から戻ってきた後、シューベルトが私を避けなくなったのですよ。今まで食事の時間帯をわざわざずらしていたのに、合わせるようになったのです」
その言葉にシューベルトは恥ずかしそうに頬を染めながら言い返す。
「そ、それはっ……、ルナディールが、兄上を避けるのは間違っていると……。そ、それに、ちゃんと話してみたら、思っていた人とは違ったと気付いたんだ」
「全く、被害妄想が過ぎるんですよ、シューベルトは。もう少し客観的に物事を見られるようになってください。あからさまに距離を取られていたら、こちらだって距離を取りたくなりますよ」
そんな風に言い合う二人を見ていると、つい笑みが溢れてしまった。ちょっと前まで仲が悪かったのに、不思議。
「やっぱり兄弟は、仲が良いのが一番ですよ」
そう言って、ふと思い出した。真の主人公のことを。
真の主人公。それは、ルナディールが悪役令嬢のときの主人公だ。彼女は普段は無口で、口を開けば毒舌だけど、ツンデレ属性も合わせ持つ不思議キャラな設定だった。そんな彼女には、姉がいた。ただ、不仲でお互いに顔を合わせようとはしない、繋がりを持とうとしていなかった。
ただ、そんな主人公はある日、私の推しキャラたちと運命の出会いを果たすのだ。そして、恋に落ち、お互いの傷を癒しあい、克服しあい、自分の運命と戦って、幸せになっていく。
真の主人公は、今何をしているのだろうか。誰かと運命の出会いを果たしたのだろうか。姉と関係を回復できたのだろうか。
真の主人公は、姉と和解できないと幸せな未来が訪れないのだ。だから、どんなに過酷なことでも姉と向き合わなければならない。姉と向き合うシーンがこれまた感動したのよね……。
真の主人公、今、幸せだといいな。どうせなら、私の最推しとくっついて二人とも幸せになっていて欲しい。最推しも、主人公と出会うことで救われるのだから……。
「それではロディアーナ嬢、私はこれで失礼いたしますね」
「またな、ルナディール。また遊びに来る」
「ええ、いつでも歓迎いたしますわ」
私はにっこりと笑って二人を見送る。
できることなら、舞踏会の日まで会うことはありませんように。そうこっそりと祈っておく。
推しと過ごせるのは幸せなことだし、尊いシーンもいっぱいあるから癒されることは事実だ。
だけど、それでは私の身体が持たないのだ。推しの魅力的な笑顔に耐えるのは至難の業である。今回もキラースマイルに何度も倒れそうになった。
今度の舞踏会では、二人に挨拶しないわけにはいかないだろう。その時にうっかり気絶してしまわないように訓練が必要だ。
ああ、舞踏会が憂鬱だ。ダンスも覚えなきゃいけないし、社交の練習もしなきゃいけない。
なんでこんなに貴族って大変なの?
私は心の中で大きくため息をつく。
……今日から特訓だ。舞踏会まで。
魔法で水やりってなんか良いですよね。私も魔法使いたいです……。次はアリステラ目線。アリステラもルナディールのために奔走する未来が見えますね。ふぁいとです!




