鏡の向こうの女の俺
俺の部屋には大きな鏡がある。
いつからあるのかは記憶にない。
どことなく古めかしいが、立派なつくりである。
そんな鏡を触ったのはただの気まぐれであった。
当然、硬く冷たい感触が返ってくると思った。
それがどうしたことか、まるで水の中に指を入れたかのように、なんの抵抗もなく指が鏡の中に吸い込まれた。慌てて手を引けば、鏡面に少し波が立った後、何事もなかったのかのようにいつもの姿に戻った。
「夢……じゃないよな?」
もう一度恐る恐る鏡をつついてみると、これまた水たまりに水滴が落ちたかのように、波が一つ二つと立った。
普通ならここで誰かしらにこのことを報告するのだろうが、この時俺は恐怖心よりも好奇心が増さっていた。ファンタジー物の小説や映画が好きだった俺はこういった不思議な現象にかなり興奮していた。このまま鏡の中に入れば、こことは違う別世界に行けるのではないかと思ったのだ。現状に何か不満があるわけではないが、男というのは冒険が好きなものだ。俺はすでにこの現象に夢中になっていた。
少しずつ、しかし確実に指を鏡の中に進めていく。全く痛みはない。何かにぶつかることもない。そのまま手首まで入れて引っこ抜く。手はどこも傷ついていない。思い切って肘までぐっと押し込んだ。問題なさそうだと思い、ゆっくりと頭を入れていく。
心臓がものすごい勢いで鼓動を打っている。この先に何があるのかと期待する一方、もしかしたら死んでしまうのではないかと考える。このまま鏡の中に一生閉じこめられたりしてしまうのではないかとも思った。しかし、それでもこの先には何か面白いものが待ち受けているという期待が勝り、恐怖が入り混じる中でも徐々に体を侵入させていく。
頭が何か膜を通り抜けるような感覚がした。ほんの少し目を開いてあたりを見回してみると、そこは誰かの部屋のようであった。六畳ほどの大きさで、ベッドやクローゼット、勉強机が整然と置かれている。壁には女子用の制服がかかっており、ベッドには可愛らしいぬいぐるみ。掛け布団やカーテンはピンク色でその他細々としたものを見るに、ここは誰か女性の部屋のようだった。
広大な草原や石造りの建物が現れると思っていたので少々がっかりしたが、未知の体験であることに変わりはない。とりあえず全身を鏡から抜きだし一息ついた。また、戻れるか確認しようと振り返ってみれば―――――そこには可愛らしい女の子が立っていた。
驚いて後ろを振り返っても誰もいない。もう一度鏡を見返せば、女の子は驚いた表情を浮かべていた。右手を振ってみれば鏡の中の子は左手を振る。笑ってみれば笑い返してくる。頬をつねってみれば彼女も同じようにする。つまりこの女の子は他ならぬ俺自身なのだ。
「どうなってるんだ……」
そこで声も違うことに気が付いた。よくある低い男の声ではなく、透き通った耳に心地よい声であった。それは鏡に映る女の子にぴったりの可愛らしい声であった。黒髪は肩口で切り揃えられ、内側にカールしている。目鼻立ちがスッと通っているその顔はどこか男の自分の顔の雰囲気がある。身長は前よりも縮んだようで百六十もなさそうだ。腕は白く、シミもなければ毛も生えておらず、部屋着のような短パンからのぞく足は程よい肉付きですらりとしている。胸は片手で収まるほどだがしっかりとある。端的に言って最高だった。
「ひなー。夕飯できたわよー。降りてきなさい」
突然の声に驚き跳び跳ねたが、それがいつもの母親の声であることに気が付いてほっとした、と同時にこのまま自分が降りていって大丈夫なのかと心配になった。おそらく「ひな」というのは自分のことだろう。男の自分の名前は日向であり、親から女の子に生まれていれば日向子にしていたと言われたのを思い出した。試しに鏡に触れてみれば先ほどと同じように指は沈んでいった。元の世界に戻ろうかと思ったがせっかくだからと、勇気を出してリビングに顔を出した。どうやら夕飯はカレーのようだ。
「そんなところに立ってないで、早く降りて食べなさい」
「う、うん」
母親は俺の顔を見て怪訝そうにしながらそう言った。俺の行動に疑問はあるようだが、俺の存在自体は気にしていない。そのままいつものように食卓に着き、ご飯を口に運ぶ。味覚は特に変わっていないようで、いつものようにカレーは美味しかった。普段と違う点と言えば、おかわりをしなくてもお腹が膨れたことだ。いっぱい食べられないのは残念だが経済的でよろしい。
食べ終わったお皿を流しに持って行ってリビングのソファにくつろぐ。テレビ番組は何も変わっておらず、男の世界と同じ曜日、同じ時間に同じ名前の番組が流れており、ニュースを見ても昨日の事件の続報など、ごくありきたりな内容が流れている。
両親ともに昨日までと様子が変わらず、変わったのは自分だけで、とても不思議な世界であった。まさにパラレルワールドといったところか。自分の知らないところで似たような世界が繰り広げられている。この家だってこの母親だって知っているようで、全く知らない存在なのだ。中身が別人であるとも知らずに話しかけてくる両親がひどく滑稽に思えた。
しかし、自分がこうも簡単に別世界に行けたのだから、両親だって入れ替わっているかもしれない。両親だけでなく、友人や隣人だって入れ替わっているかもしれない。そう思うとなんだか怖くなってきて、とにかく元に戻って寝てしまおうと考えた。嫌なことを考えるくらいなら何も考えずに寝るのが一番である。いつもよりも随分と早い時間だが両親にはもう寝ると伝え、さっさと自室に向かった。
ここで鏡を潜り抜けられなかったらどうしようかと一抹の不安がよぎるか、それは杞憂で、入ってきた時と同じように鏡を抜けることができた。また別の世界に送り込まれるのではないかと一瞬焦ったがそんなことはなく、記憶通りの男の自分の部屋が広がっていた。いつもより部屋が臭く感じるのは気のせいだと思いたい。
いつもの見慣れた世界に戻ることできて安心したために、どっと疲れたが押し寄せた。嫌な汗もかいたので風呂に入ると、すぐに寝てしまった。
「いつまで寝てるの! 起きなさい!」
嫌だ。眠い。
「学校に遅れるわよ!」
その声で俺はすぐに体を起こした。時計を確認すればいつもの起床時刻より四十分程遅い。これではまた学校に遅れてしまう。
とにかく急いで制服である詰襟に着替えると、鏡が目に入った。心臓が高鳴る。またあそこを潜り抜けたらどうなるのだろうか。鏡に触れてみると、もはや当然のように鏡は指をはじき返すことなく、その奥の世界へと招き入れた。
その勢いのまま鏡を通り抜ければ、既に制服に着替え終えた女の自分がいた。セーラー服を身にまとった自分は果てしなく可愛らしかった。ベージュ色のカーディガンもよく似合っている。
スカートをめくってみると明らかに見せパンという感じの白の何の装飾もないパンツを履いていた。これは駄目だと思い他のものに履き替えようかと思ったが、もしスカートが捲れて下着がみられたとして、恥ずかしい思いをするのは自分なのだと思うとこれでいいかと思った。
朝ごはんは食べずに、とにかく急いで学校へ向かって走った。体はいつもより軽いが、胸が上下に揺れるため少し走るのが辛い。そこまで大きくなかったように思ったがしっかり揺れるのだなと変なところで感心した。
全力で走ったのでかなり疲れたが、疲労感はなく、むしろこれからの展開に俺はかなりウキウキしていた。やはり男なら一度は女になって生活してみたいと思うだろう。あこがれのあの子と話せるかもしれない、着替えも一緒にできるから想像でしか見られなかった制服の下も見られる。これでわくわくせずにいられるかというものだ。
下駄箱の位置が変わっていないので、おそらく教室や席の位置も変わっていないだろう。人気のない廊下を歩き、ついに教室の前にたどり着いた。まだホームルームのようだ。いったん深呼吸してから一気に扉を開ける、ことはなくこっそり静かに教室の後方から扉をくぐった。
禿げ頭の担任に見つかり、いつものようにまた遅刻かと小言を言われたが気にせず一番後ろの窓側の席に座った。しかし気になるのは誰一人として生徒の顔に見覚えがないことだ。
「おはよー、ひな。今日も遅刻だね」
「お、おはよう」
そういって前の席の女子が親しげに話しかけてくるが、俺にはこんな可愛い女子が前に座っていた記憶はない。なんならこんなに可愛い子が俺に親しげに話しかけてきたという記憶もあまりない。教室が同じで担任も同じなので、間違った教室に入ったわけではないと思う。もしかしたら生徒の性別も変わっているのかもしれない。自分の性別が変わったのだから、周りの人も変わっていたって不思議ではない。
それはそれとしてこの少女の名前が分からない。俺の前に座っていたのは大杉勇気という名前の友人だった。流石に名前が同じということはないだろう。ゆうか、とか、ゆうみ、とかに変わっているのかな。そして俺と、どういう関係なのだろうか。友達だと嬉しいのだが。もし、勇気が性転換した者がこの子だとしたら最高だ。
勇気は親友だったからこの子も親友かもしれない。こんな可愛い子が親友ならこの世の春である。少し茶髪に染めてある髪は前髪だけ残して後ろに纏めてある。陸上部に所属しているのは一緒なのか日焼けした肌がまぶしい。
「ひな。今日はなんで遅れたの?」
色々と考えていたら前の子が話しかけてきた。ホームルームも終わっている。
「えっと……寝坊?」
「なんで疑問系なのさ。まあ、いいけど。それより一時間目体育だから、早く着替えよ」
「体育!? やったー。体育大好き!」
「そんな喜ぶもんじゃないでしょ。それにいつも朝から体育なんてって嫌がってたじゃん」
「今日はいいの」
なんていったって体育をするには体操着に着替えないといけない。つまり更衣室という閉鎖空間で裸の女の子に囲まれないといけないのだ。これが喜ばずにいられようか。
「いくぞ勇気!」
と言って、しまったと思った。思わず男の名前で呼んでしまった。女の子同士で名前を間違えるなんてご法度だ。嫌な顔をされたら俺も嫌だ。恐る恐る振り返ってみると、彼女はきょとんとしていた。
「なに? 早く行こう?」
「ゆうき?」
「んー?」
「ゆうちゃん?」
「だから何さ?」
「ゆうきって漢字どう書くんだっけ?」
「友の友に世紀末の紀で友紀。どうしたのいきなり?」
「かわいい!」
同じゆうきでも漢字が違うと随分と可愛らしくなるものなんだなとまたもや感動する。勇気改め友紀は怪訝な顔をした後、さっさと歩き始めた。
「待って待って。大杉友紀!」
慌てて追いかけて恥を捨てて腕を組む。陸上部なのは変わらないのか腕も細いなりに筋肉がついており、実に健康的である。ついでに肘で軽く胸をつついて感触を楽しむ。やはり人のおっぱいだと興奮度が違う。あまり大きくないのが残念だが。
「小杉よ。何回目よそれ?」
名字も微妙に違った。しかも小杉を大杉と間違えるつまらないギャグを繰り返しているらしい。二度と間違えないように小杉、小杉と心の中で唱える。
「今日のひな、なんだかテンションおかしいよ」
「だって、友紀に会えたんだもん」
「昨日も会ったでしょう」
「昨日と今日じゃまるで別人だもん」
「何も変わってないわよ。ひなこそ、いつもと違う」
その一言にビクッと体が反応する。いくら自分自身とは言えど、この体の持ち主が一体どのような性格でどのように話していたかなど全く分からないのだ。適当に女の子っぽく行動しているがやはり何かが違うのだろう。
「な、何が違う?」
「なんか、距離感がいつにもまして近い」
「あ、嫌だった?」
ちょっと積極的過ぎたかと思い、腕を組むのを止める。
「そういうわけじゃないよっ」
離した腕を友紀の方が組んでくる。
「いつもこんなことしてこないから、不思議に思っただけ」
「たまにはいいかと思って」
友紀の方から近寄って来たことに気をよくして、足取りも軽くなる。自分でもニヤニヤしているのが分かり、変に思われないようやめようとするが止めどなく溢れてくる幸せのせいでどうしても口元が緩む。
ついには、なんでニヤニヤしてるのかと聞かれてしどろもどろになって焦っていると、変なのと言われて笑われてしまった。返す言葉が思いつかないので一緒に笑ってごまかす。そうやって笑っているうちに、自然な笑顔が溢れてきた。性別は変わっても俺にとってゆうきは一番の友達なのは変わりないようで、今日会ったばかりなのに旧来の友達のように話すことができた。見た目は変わっても根本の部分は変わっていないのだろうか。
授業の内容は女子になったことで、体育がサッカーからテニスに変わったこと以外何も変わらなかった。女子になったからと言って頭が良くなっていたわけではなく、なんなら今日の分の宿題をやっていなくて先生に怒られてしまった。それでも何かある度に前に座っている友紀が助けてくれてなんとか凌げた。
お昼休みも当然のごとく一緒に食べることになった。二人とも弁当なのは変わらず、変わったことと言えば弁当の中身が少しカラフルになったことだ。いつもはもっと茶色一色なのに、こんなに可愛く盛り付けられるのかと驚いた。普段のあの弁当は手を抜いていたのかと邪推するが、毎朝作ってくれるだけでも感謝すべきなのだろう。
「ね、あーんてして、あーんて」
ふと思いついたことをそのまま口にした。
「えー? 彼氏ができないからって私にやってもらったって悲しくなるだけだよ」
「彼氏なんかいらないよ。友紀が彼氏で彼女だから」
「そんなこと言ってると本当にできないぞー」
「いいもん」
この体の持ち主がどう思うかも知らず、勝手に彼氏いらない宣言をしてしまって良くないかなと思うが、少しの間だけ楽しむならいいかと頭を切り替える。少しだけなら冗談と受け止めてくれるだろう。あくまで女の子の生活は少しの間のことなのだ。長居をしていたら良くないことが起きるのはなんとなく分かる。だから限られた時間を有効に過ごそうと放課後はもっと全力で女子生活を楽しもうと決めた。まずはその前にあーんをやってもらわなければならない。
「早く、早く。なんでもいいから」
俺が催促すれば仕方ないといった風に、箸で人参を摘まんで口元に寄せてくる。
「はい、あーん」
「あーん」
目を瞑って、親鳥を待つ小鳥のように口を開けて友紀が人参を口に入れてくれるのを待つ。今の姿なら小鳥と言っても差し支えないだろうかわいさだろう。
ずっと口を開けているのも恥ずかしいから早くしてと思うが、友紀は人参を落とさないようにゆっくりと運んでいるのか中々人参が来ない。流石に遅いので薄目で見てみれば、友紀はすました顔で自身のお弁当を食べていた。
「友紀のいけず!」
状況を理解して、恥ずかしさのあまり顔が紅潮してくる。
「まあまあ、そう怒らないの」
そう言うが早いか弁当箱からミニトマトを摘まむと、俺の口に無理やり押し込んできた。
「これで満足?」
「思ってたのと違う。それに嫌いなもの押し付けてきただけでしょ」
男の勇気はミニトマトが嫌いだったのを思いだし、それはここでも同じかと思った。
「んー? ひなの要望に応えただけだよ」
「疑わしい」
だがまあ、直接手で食べさせてもらえたのでむしろ良かったかもしれない。案外悪い結果ではないなと思い直し、昼ご飯を再開した。
放課後は俺の家で遊ぶことになった。今日は陸上部の活動がないことを思いだし急遽誘ったのだ。友紀は二つ返事で了承し、家まで他愛もない会話をして楽しんだ。
「お邪魔しまーす」
「どうぞどうぞ」
家に着くと早速俺の部屋に通す。勇気と遊ぶときはいつも部屋でゲームと決まっていたからだ。しかし部屋に入ったところで予想もしていなかったことに出くわした。肝心のゲーム機がないのだ。テレビすらない。この体はゲームをやらないということを今になって気がついた。それなら一体何をして遊べばいいのだろうか。
友紀の方を見ると怪訝な目でこちらを見ている。何かないかと部屋の棚を探っていると懐かしいものが出てきた。
「ツイストーやろう!」
「うわ、なつかしい」
四種の色と、右手や左足などと書かれた盤上にあるルーレットを回すことで、色と動かす体の部位を指定し、四種の円がいくつも描かれたシートの上でその通りに体を動かす遊び。子供の頃に良くやった思い出がある。小さい頃は体が接触することになんの抵抗もなかったが今となっては赤面必須だ。
「でもそれ二人で出来るの? ルーレット回せなくない?」
「あー、そこはなんとかやろう」
懐かしさと、身体接触をしたいという下心の半分半分の気持ちでとにかくやろうと誘う。友紀も特に反論せずシートを広げるのを手伝う。
「じゃあ、ルーレットは回さないで自分で動かすところを決めよう」
「ゲームになるの、それ?」
「じゃあ、青の右足」
シートの両端に立っていたので、とにかく先手を打って相手の動きを封じようと強引に右足を大きく前に出す。有利なポジションをとれば勝てるのはどんなゲームでも同じだ。
「せこいっ」
「なんとでも言うがいい。勝てば官軍だよ」
「ふんっ。勝手に言ってなさい。緑の右足」
気分が乗ってきたのか俺と同じく右足を限界まで伸ばしてくる。運動部なだけあって体幹がしっかりしているのか俺のように左右に体が揺れるようなことはない。
「やるじゃん。黄色の左手」
筋肉はないがその分柔らかい体を活かして前に倒れる。顔は丁度友紀の足の付け根辺りに来る。それをいいことに頭を太ももに擦り付ける。すべすべだ。
「ちょっと、何してるの変態!」
「戦略だよ戦略」
「バカひな」
顔は見えないがおそらく恥ずかしがっているのだろう。声が上ずっているのが分かる。これは勝ったなと思って余裕をこいていると、背中がいきなり重くなる。
「そんなことで勝てると思わないでね」
友紀が完全に覆い被さるように倒れてきたのだ。背中に若干柔らかい感触を感じるがそれどころではない。重い、重いのだ。この華奢な腕に女一人を支える力はない。背中が歪に曲がっていく。
「お、重い」
「レディに向かって重いだなんて失礼ね」
そう言うとさらに圧力をかけてきた。余計なことを言ったと思ったが時既に遅し。体を動かそうにもそんな余力はない。非力なこの細腕がいつまでも耐えられるはずがなく、ほんの数秒も経てば勢いよく体が床についてしまった。
「グエっ」
カエルが潰れたかのような全く可愛くない声が漏れた。
「自分から仕掛けておいてこんなんじゃあ、話にならないわね」
立ち上がった友紀は仁王立ちをしてこちらを見下ろして笑っていた。当初のセクハラをするという目的は達成できたが負けたのは悔しい。このままでは男が廃ると思い、シートの端に立ち、こちらも仁王立ちをする。
「今のは準備運動だ。陸上部ならそれぐらい分かると思ったけどね」
「よく言うわね。準備運動にカエルの鳴き声は無いわよ」
「うっ」
何も言い返せなかったので、右足を一歩だけ動かして勝手にゲームを開始する。
「青の右足」
「そんな守りの姿勢だと負けるわよ?」
その言葉通り、結局何回やってもゲームには負けた。他のアナログゲームを引っ張り出して遊んだが悉く負けた。悔しさで腸が煮え繰り返そうになるが、同時にたくさん笑った。性別は変わっても友紀と一緒に遊ぶのは楽しかった。
外が暗くなりだしたところでお開きとなった。家はそこまで遠くはないがあまり遅くなっても危険である。玄関に立って友紀の姿が見えなくなるまでずっと見送った。
俺は楽しくて仕方がなかった。その日も男には戻らず夜を過ごした。次の日も、その次の日も、女のままでいた。部活がない日はどちらかの家で遊んで部活がある日は友紀の練習が終わるまで待って一緒に帰った。
そんな日が幾日も続き既に一ヶ月が経とうとしていた。あと少し、もう少しだけと思いながらこの生活を楽しんでいるうちに、もう女の生活にも完全に慣れてしまった。
いつまでもこの生活を続けるのもどうかと思い、久々に男の勇気とも遊ぼうと、朝起きると鏡を潜った。一ヶ月経っても当然のごとく鏡は俺を受け入れた。
そのまま学校へ行き、教室に入って授業を受ける。久しぶりの勇気との会話であったが、そこまで疑われなかった。今日はボディタッチが少ないなと言われたときは少しゾッとした。俺が女になっている時は、女の俺がこっちに来て生活をしているのだろうか。考えてみるとなんだか恐ろしくなってきたので頭を振り払って思考を変える。
「今日は俺の家だっけ?」
「そうだぞ。忘れたのか?」
友紀とはそういう約束だったが勇気とはどうなのかと思い確認したが合っていた。女の俺も同じように行動しているのだろう。
放課後になって一緒に帰ると、朝から抱いていた違和感が強くなった。久々の勇気との会話は楽しいが、異常にスキンシップを取ってくるのだ。変に腕や胸を触ってくる。何回かやられた後に手を軽く振り払えば、今日はいけずだな、などとのたまうのである。一体女の俺は男同士で何をしていると言うのだろうか。俺が不在の一ヶ月を想像し、不安になってくる。
そうこうして家についたがこのままこいつを家に入れてもいいものかと迷う。しかし、ここで断るわけにもいかないのでいつものように俺の部屋に向かう。
「日向の匂いがする」
「何言ってんだ」
やっぱり言動がおかしい。なんだか気持ち悪くなっている。しかし気にしても仕方がないので、前からこうだったと自分を強引に納得させ、久々のゲームの準備をする。
「なあ、今日は両親は夜遅くまで帰ってこないんだったよな」
「あー、そういえばそうだっけ」
両親は何か劇を見に行くとか言っていた。それは今日だったかと思い出し隣を見れば、異様に目を光らせた勇気がいた。
「な、なんだよ」
「泊まっていってもいいか?」
「急だな」
「駄目か?」
「いや、別にいいけど」
「良かった」
勇気は心から安心したような顔を見せる。たいした確認でもないのに、仲が良いのだから泊まることぐらい今までも何回かあったのにだ。
どうにも嫌な感じが拭えないが、それもゲームをやっていればすぐに忘れた。久々のゲームで俺も火がつき非常に盛り上がった。その間は特に変なこともされなかったので、勘違いだったかと安堵した。
夕飯は近くのコンビニで適当なものを買って食べて、順に風呂に入り、また部屋に戻ってきた。先に風呂に入った俺はベッドに腰かけると、またゲームの準備に取り掛かった。一ヶ月間やらなかったことで腕が落ちていたのかあまり勝てず、再戦に燃えていた。勇気のことをまだかまだかと待ち続けていると、ようやく部屋のドアが開いた。
「お、待ってたぞ。早く――――」
二の句が継げなかった。何故か勇気はバスタオルを腰に巻いた姿でドアの前に立っていたのだ。引き締まった筋肉は威圧感があるがそれ以上にその眼光に威圧される。
「な、何やってんだよ。早く服着ろよ」
「俺、もう我慢できないんだ」
「何がだよ。意味分かんねーよ」
「俺、お前のことが好きだ」
冷や汗が全身から流れる。今日の言動から薄々勘づいていたとはいえ、正面から言われるとやはりショックである。気持ちが追い付いていけない。
裸の男がゆっくりと迫ってくる。それに合わせて俺もベッドの上を後退るが壁にぶつかり退路を断たれる。
「ちょっと待て。冷静になれ。こういうのは良くないと思う」
「俺も悩んだよ。でも俺の気持ちはもう決まったんだ。これしかないって。それに、元はといえばそっちから誘ってきたんだろ」
いや、誘った覚えはない。確かに友紀のことは誘っていたが勇気ではない。いや、もしかしたら、女の俺は誘っていたのかもしれない。だがそれは俺ではない。こんな状況は受け入れられない。俺は男には興味はないのだ。
「俺の気持ち、受けてくれるよな」
「本当に待って! 一旦、一旦冷静になろう」
冷静にならなければならないのは俺の方なのかもしれないがこんな状況で冷静になどなれるわけがない。裸の男が密室で迫ってきているのだ。明らかに貞操の危機だ。
勇気はその見事な裸体を見せつけて近寄ってくる。一歩一歩と足を進め、ベッドに乗り上げると俺の体に手をかける。目を閉じて、唇を突き出した勇気の顔が迫ってくる。
「無理だから!」
生理的な拒否感から勇気を突飛ばし、ベッドから立ち上がり逃げ出そうとする。しかし、そうはさせじと勇気が俺の足を払った。俺はそのままバランスを崩して、例の鏡に頭から突っ込んだ。
「いてて」
いつものように鏡を潜り抜けた俺は地面に倒れ伏した。軽く頭をぶつけてしまい、ズキズキする頭を押さえて辺りを見ると、友紀が覆い被さってきた。
「なんで逃げるの?」
「え、いや、その」
勇気と同じようなバスタオル姿の友紀が俺の上に乗り、怒った顔でそう問い詰めてくる。頭を抑えていた両手は友紀の片手によって押さえ付けられている。抵抗してみるが微動だにしない。
「誘っておいて、そんなのってないよ」
「いや、これは誤解というか、あの」
「反省してね。私を本気にさせた罪は絶対に償って貰うよ」
そういうと友紀は一切の躊躇をせず顔を近付けてくると、瑞々しい友紀の唇が俺の唇に重なった。マシュマロのような柔らかな感触に頭がとろける。体からも力が抜け、唇が離れるとともに抵抗する気力も失せた。そもそも友紀となら別に嫌ではないのだ。
「いっぱい楽しもうね」
「はぃ」
弱った頭で返事をすると、再び友紀の顔が近づいてきた。
それから二度と鏡の向こうに行こうとは思わなかった。潜り抜けられるのかも確かめていない。あっちの世界に行くのは最早恐怖でしかなかった。あの時友紀においしく頂かれたのと同様、あちらの世界でも勇気に頂かれたのだろう。想像するだけで恐ろしい。
結局今は友紀と付き合っている。付き合っていると言ってもやることはたいして変わらない。お昼を一緒に食べて、一緒に帰って、部活の無い日は思う存分遊ぶ。以前と変わったことと言えば、親のいない日はベッドで遊ぶようになった。毎回私が一方的に弄ばれるのは不本意だけど、毎日が幸せでいっぱいになった。