第百七十二話 ~京と九龍~
<天文十二年(1545年)四月 京 京都御所 鷹の間 >
京都御所内の一室。
レンは「三条公頼の遠縁の娘」の「向日葵姫」という仮の名を使い、花嫁修業に明け暮れていた。今は長い書の修練が終わり、やっと愛する者からの文を読み返し上機嫌になっていたところだった。
逼迫していた朝廷の財政は、日ノ本を広く治めると共に「天皇の義弟」と呼ばれる従四位上羽茂本間左大弁照詮の多大なる支援の為に潤いを取り戻しつつあった。
穴だらけだった御所の補修も済み、困窮を極めていた公家達もかつての華やかさを少しずつ取り戻していた。
そんなレンの元を今日もしつこく尋ねてくる者がいた。
「これ、向日葵姫や」
「…… なんだっちゃ?」
至福の時を過ごしていたレンは一気に気を悪くした。しつこい男の顔出しに不機嫌な態度を隠そうともせず、むしろそれを露わにした。
「つれないのう。麿がはるばると出向いてやったというのに」
「来てほしいとは一言も言ってないっちゃ」
「お主を想って一首作ってきたのにのう。…… 『世の中に たえて桜の なかりせば 春の ……』」
「『心は のどけからまし』。在原業平様の御詩をご自分の詩とされるのは、いかがかと思うっちゃ」
「ぬっ…… ならば、西南の海から届いた『龍涎』の香会はどうじゃ? 帝が大層お気に召されており、持っておらぬ者は鄙者(田舎者、卑しき者)と蔑まされるぞよ。『何卒』とお主が御簾を開いて懇願するのであれば、一匁だけ融通することも吝かではないが……」
「要らないっちゃ(いっぱい持ってるし)。それに、くんくん嗅いでばっかりいると犬になるっちゃよ」
「…… ほほ。麿が何者か知らぬが故の荒言。手討ちになってもおかしくないでおじゃるが、其方だけは許してやるぞよ」
ハァ~
レンは深く溜め息をついた。
「正体なんて聞きたくないっちゃ。あとレ…… 向日葵のことも尋ねてほしくないっちゃ。そろそろ日が暮れますえ(帰ってください)」
「何の何の。麿は下々の者共が病に苦しんでいると聞いて食べ物が喉を通らぬでおじゃる。今日は飯を抜くことにした。麿は慈悲深かろう?」
「…… 馬鹿だっちゃ」
「……!? ば、ば、ばか?!」
扇で顔を隠しながら、レンはそっぽを向いて声を強めた。
「民はいつでも苦しんでるっちゃ。苦しさの『くの字』も知らないで、一日だけ贅沢なご飯を抜いていい気になるなんて、な~~~んにも分かってないっちゃ!」
「……」
「本当に民のことを思うなら、いつも贅沢しないで質素にするっちゃ。ご飯はしっかり食べて、民の為に働くことだっちゃ」
正論ビンタで脳を揺さぶられた優男。
(麿が言い寄れば、素直に御簾を開くものばかり。しかしこの向日葵姫は違う。そして機智に富んだ答えを返す。麿を救った剣術の腕といい、謎は深まるばかり。これは落とし甲斐があるというもの)
「益々、お主が何者か知りたくなったでおじゃるよ。向日葵姫よ」
「大きなお世話だっちゃ。あと奥さんも娘もいると聞いたっちゃ。そっちの方を大事にするっちゃよ。白貉! 白狛! 『おまろさま』が御帰りだっちゃ!!」
「「はい。姫様!!」」
「ちょちょ…… あわわ」
公家の男は白細い腕ながら力強い二人の御付の女官に追い出されるように部屋から出され、渡り廊下をズイズイと押されてしまった。
________
「…… 姫様。あのような者、照詮様にお願いすれば遠ざけることなど如何様にでもなるのでは?」
「それはダメだっちゃ」
レンは再び照詮からの文を読み返し、胸にそれを収めた。
「照詮は今、呂宋や南越に向かってるちゃ。余計なことに気を遣わせてはいけないっちゃ」
目を伏せたレンは照詮から贈られた護身用の蛇小剣を、殊更強くぎゅっと握った。
_____________
ポツンと取り残されしばしの間呆けていた公家の男。
その様子を見かけた正二位内大臣の万里小路惟房。妹の房子が嫁いだ先の殿上人が所在なさげに立っていることが可笑しくて仕方が無かった。
「また向日葵姫に袖を振られたでおじゃるか。確かに不思議な魅力のある女子よのう」
「…… だが、麿は諦めはしないぞよ」
「ならば、『次代の帝』に良い知恵を御貸しいたしましょうぞ。…… 方仁親王殿下」
______________
<天文十二年(1545年)五月 明国南部 九龍半島 九龍湊>
「ははっ!! こりゃおったまげたぜ!!」
鯨波新人は、目を皿のように丸くして眼下に広がる絶景を眺めていた。
既に出来上がった中規模の港町。対岸に浮かぶ美しい島。ここ九龍半島は今日から新人が治める地となったのだ!
「親分…… まだ信じられねぇでがす」
「はっ! 目を覚ましやがれ!! 柏崎の水軍だったおいらたちが、『国持ち』になったようなもんなんだぜ!?」
「へ、へいっ!!」
主君である羽茂本間照詮に託された大量の龍涎香。馴染みの密輸入地である明国澳門の商人「李万」へ持ち込み鑑定を頼んだ結果は、「天下比類なき絶品の香石!」との評だった。
澳門中で大騒ぎとなったその香りの噂は瞬く間に明国全土に広まり、遂には明朝第十二代皇帝嘉靖帝の耳に入るまでに至った。「丹薬(不老長寿の薬)の材料だ!」と時の名医に断定された龍涎香の価値は、みるみるうちに天井無しとなってしまった。
そのため明国では、
「龍涎香はどこだ!?」
「龍涎香を探せ!」
という一大ブームが起き、農民も漁民も仕事を放り出して探すほどになったらしい。
新人が持ち込んだ、「龍の糞」と呼ばれ燃やされ消え失せる筈だった龍涎香は色、香り、大きさ全てにおいて優れており、
「欲しいものは何とでも譲るので、どうかその龍涎香を譲って欲しい!!」
と明の高官に懇願されるまでになった。
新人は主君に言われた通り「島」を希望した為、澳門対岸であるここ「九龍半島」の全てを明国皇帝から特別に譲り受けた。仲買人となった澳門の商人李万も巨額の利益を得ることになった為、新人と意気投合。先日、『死ぬときは共に』という義兄弟の契りを交した。
「…… 親分。ここらで一つ、立ち上げといきませんか?」
「アホンダラ!!」
ベシッ!!
つまらない事を抜かした船員の一人を新人は平手打ちした!
「お前らッ!! 我が『鯨』艦隊の『魂』は何だッ!?」
「「ヘイッ! 『楽しむ』ですッ!!」」
「そうだ! 『楽しむ』だ! 日ノ本の男が明の地に領地を持つ! そしてそれを好き勝手に使えるんだ! こんな面白いことはあるか?!」
「「ヘイッ! ありやせん!!」」
「阿呆ども!! 面白くしてくれた御方は誰だッ!!?」
「大旦那です!!」
「そうだ! だからしっかりと旦那に忠義を尽くすんだ!! …… まだだ! もっと面白れぇことが待ってる! ここで錨を下ろしちゃつまらねぇ!! 旦那という『風』に、俺達は帆を張り続ける! いいなっ!!」
「「ヘイッ! お頭!!!」
一喝した後に新人は、再び自分の湊となった九龍湊を眺めた。
(穏やかな白波が絶え間なく砂浜に寄せている。山毛欅や楓、合歓の木々が緩やかに揺れ爽やかな緑地を織りなしている。おいらが生まれ育った柏崎を彷彿とさせる地だ)
新人はふと涙ぐんだ。
だがそれを手下達に悟られぬよう拭った後、芝居がかったように両手を上に掲げ新人は優雅にクルリと一回転した!
「ここ九龍湊を栄えさせる! 澳門を通さなくとも商いをいくらでもやれるぜ! 明のケチ商人だけじゃねえ! 呂宋人だって! ぽるとがる人だって! 何処とだって商売できる! 倭寇の乞食どもが来ねぇように砦も作る!! おめえら! 金に糸目はつけねぇ!! 力を尽くせぃ!!!」
「「ヘイッ! お頭!!!」
新人は、この地を持つことの意味を十二分に理解していた。
海禁令が敷かれている明国へ、佐渡からの干海鼠や清酒や麦酒、最近評判の写実的な日本画、さらに各地から集められた昆布や日本刀、硫黄や漆器を安全に売りさばくことができる拠点ができたのだ。
これまで明国から高値で仕入れていた生糸や陶磁器、硝石などの買い付けも現地の値段近くで安価に手に入れることができる。
これまでの密貿易で手に入れてきた莫大な利益を遥かに凌駕する、空前絶後の利益が何度も舞い込んでくることは明らかだった。
「旦那。ここは引き受けやした。呂宋と南越は頼みやしたぜ!」
老練な海賊は遠く南方にいるであろう主君に向け白い歯を輝かせた。
今では九龍と言えば香港の一部を指しますが、今回新人が手に入れた九龍半島はそれより大きく、「新界(訂正しました)」と呼ばれる部分に香港島を加えた大きな地となります。
親王の名を素で間違いました( ;∀;)
後の正親町天皇なので、「誠仁親王」ではなく「方仁親王」でした。
正親町天皇は1517年生まれで作中の1545年当時は二十八才。
後奈良天皇の子で、この時は「方仁親王」と呼ばれていました。
ちなみに典侍・万里小路房子との間に皇女を二人もうけています。(典侍となっていた万里小路賢房の娘との間に皇女が生まれましたがこの子は1543年に早世してしまいます。)
作者が間違った誠仁親王は正親町天皇と万里小路房子の子で1552年生まれ。天皇となる前に死去してしまった人物です。
誠仁親王の子で正親町天皇の孫にあたる「和仁親王」が、正親町天皇の後を継ぐ後陽明天皇となります。ですから誠仁親王はまだ生まれていないのです(*´Д`*)
ご指摘ありがとうございました。