第百二十四話 ~明鏡止水~
<天文十年(1541年)二月 越後国 頸城郡 直江津 春日山城 広場>
若き『龍』は着実に計画を実行した。
蟄居中の中条藤資、北条高広との渡りをつけた。「何と!?」と驚かれたが押し通した。当主が佐渡に捕まっている高梨政頼の家中の者にも声をかけた。今晩、心ある者達と共に、城下に陣を敷いていると聞く羽茂本間軍へ向けて「夜襲」をかける。
地下牢にいた者にも武装をさせる。「我が命に従え!」と叫ぶと「景虎様になら付いていく」との声が多かった。
あとは最後の仕上げだが…… 今一つ決断には踏み込めん。
あと一押し。確証が欲しい。龍は広場に一人で佇んでいた。
「これ、虎千代。何を迷っておる?」
「?!」
気配もなく背後から声をかけてきたのは、龍の唯一無二の師である林泉寺住職天室光育だった。
「これは尊師」
慌てて礼をする。
平静を装っていたが、慧眼の持ち主である天室光育師には心の動揺が全てお見通しだったようだ。
「…… お主、これまでと気配が違うの」
「流石はわが師。お見通しですか?」
「当たり前じゃ」
平然と答える老僧。御年七十を越えた筈なのにまるで衰えを感じさせない。隠し通すことは無理なようだ。
「尊師」
景虎は言いながら周囲を見回した。曹洞宗の正装をした師の後に続くのは、特徴のない一人の僧のみ。下働きの僧だろうか? 見覚えが無い。だが問題は無かろう。
「某は、動きます」
「ほっ? …… ここを、離れるか?」
「はっ。長尾家に未来はありませぬ」
「…… そうじゃのう」
天質光育は、目を地に落とした。
家祖の長尾景恒が越後守護代長尾家を興してから、高景、景房、頼景、重景、能景、そして為景、さらに晴景。長尾家は七代続いた越後国の名家中の名家だ。だが、その命運は燃え尽きようとしている。
林泉寺は七十年ほど前の五代目当主長尾重景の代より長尾家と共にあった。請われて長尾家の菩提を弔ってきた。
晴景の暴挙を止めようと、老僧は幾度となく晴景に忠告へ向かった。「このままでは羽茂本間家に長尾家は斃される」と。しかし、新たな長尾家当主は悔い改めるどころか聞く耳を持たず、それどころか天室光育を追い出した。今も、無駄と分かっていながらも当主を諫めに行った帰りだった。
「照詮の元へ、行くのじゃな?」
「はっ」
神妙な面持ちで答える龍。師は良しとも悪しとも言わず言葉を続けた。
「だが、まだ迷いが見える。今一つ確証が欲しい、ということか」
「…… いかにも」
自分の考えに曇りはないか。「義」はあるか。羽茂本間の「義兄」は俺を受け入れてくれるのか。その先にあるものは何か。そしてあの怪僧の元へ行かねばならないことに……
「へへっ。『旦那』の言った通りだ。悩んでおられやすね」
「むっ?」
師の後に続いていた下働きの僧がニヤリと笑った。何だ?
「何奴だ?」
「おいら白狼ってもんでさ。羽茂本間の旦那の者でやす」
「何っ!!?」
「お主に話があると言うんでな。儂が連れてきたのじゃ」
光育師は穏やかに笑う。
驚いた! この特徴のない男は、敵軍の真ん中に難なく飛び込んできたというのか?!
「佐渡の旦那からの言伝でさ。『待ってる』と。それだけで分かると」
「は? …… は、ははっ!! それだけかっ!!」
『越後の龍』は笑った。久方ぶりに笑った。腹を抱えて笑った。可笑しくて仕方がなかった。
『あいつ』は変わっていない。五年前に会ったあの日から、『義兄』になってからも、『今』も何も変わっていない! 雲のように捉えどころのない、不思議な男だっ!!
迷いは何処か彼方へと吹き飛んだ。
越後の龍は、縛られてきた重い鎖から解き放たれた。
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<天文十年(1541年)二月 越後国 頸城郡 直江津 春日山城 秘の間>
「ああ、やめてぇ……」
「グヒヒ。狂え、もっと悶え狂え……」
春日山城の奥の奥、秘の間では幕府の権勢を笠に着た怪僧正覚坊重盛は快楽を貪っていた。
秘の間の入口を守っているのは、同じく比叡山からきた屈強な二名の僧兵。ニヤニヤとしながら御坊が新たな生贄を屠るのを横目で眺めていた。
そこへひたひたと静かな足音が近づいてきた。
「…… 『長尾景虎』。参りました」
「お、来おったな」
そこへ来たのは、昼に「教えを請う」ことを命ぜられた眉目秀麗な若武者であった。身に付けているものは薄い着物のみ。寸鉄も帯びていないのは先に調べられている。間違いない。
「お主も御家の為とは言え、よくもまあ逃げ出さなんだなあ」
「しっかりと『教え』を受け入れるのだぞ? 強烈すぎて気を失うことになろうがなぁ? アッハッハ!!」
涎をまき散らし下卑た笑いを続ける僧兵。若武者は「ピクッ」と眉を動かしたが、何も言わなかった。ここへ何人もの娘が否応なしに押し込められたのであろう。その先に待つものは…… 龍は首を振った。この僧達は数多の娘を同じように笑ったのだろう。
慈悲はない。
意を決した「龍」は、秘の間へ入っていった……
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そこは腐っていた。
倒れている無数の裸体の娘。汗の匂い、そして嗅いだことのないような淫靡な匂い。そして、その中央にそれはいた。
「ほっほっほ。待っていましたよ」
醜い巨躯を揺らしながら、幕府の犬正覚坊重盛は悦しそうに嗤った。
「何とも美しい! 菩薩様や如来様でもここまで美しくはないでしょう!! かくも美しい人を壊すことができるとは!! 仏門に入った甲斐があったというものです!!」
「…… 仏門は、そのようなものではない」
龍は否定した。
だが、怪僧は黙らなかった。
「いいえ! そういうものです! 世は乱世! 我ら僧も世俗の悦びを味わってよい時代なのです! 否! 僧こそが仏にも世にも選ばれた、最も優れた者なのです!!」
「…… 狂ってる」
龍は口の中の苦みを抑えきれなくなり、ペッと唾を吐いた。
「ほっほっほ。威勢の良いことです。それでこそ『教え』を施す甲斐があるというもの」
「…… そうはいかぬぞ」
龍の眼光が鋭くなった。この醜い男は世にいてはいけない男だ! 世を乱す者だ!
だが怪僧は余裕綽綽であった。
「ほほっ! 逆らいますかな!? 拙僧に逆らうのは『幕府に逆らう』と同義! 長尾家は幕府の敵となりますぞ?」
嘲り笑う理由がそこにあった。家の存続、歴史の重み、幕府と守護代という力関係。この醜い男が笑みを絶やさない絶対的な自信がそこにあった。
「さあ、教えを受け入れるのです! 拙僧自らのモノで清めて進ぜますぞ!!」
淫靡な笑いと共に、怪僧は太く汚らしい一物をより一層大きくした。
「長尾家が幕府の敵、か。…… 上等だっ!!」
キラリッ
龍が叫ぶと同時に漆黒の闇の上方から美しく光る物が落ちてきた!!
パシッ
龍はそれをしっかと握った!
天井から落ちてきた物は「人を殺す」為だけに研ぎ澄まされた物。即ち「刀」だった!
龍は両拳に力を込めると寸暇の迷いなく斬りつけた!!
ズバッ!!!
太く醜い物が飛んだ。血が飛び散る!
「ギ、ギ、ギエエエエエエエエエエエエエエエッ!!?」
痛みにのたうち回る正覚坊重盛。激痛が止まらない!!
「キ、キ、キサマ!! 何ということを!!」
「すまんな。手元が狂った。次は首を刎ねる」
薄紅色の唇を横に開き龍は笑った。
「こ、こ、こんな事! 長尾家は終わったぞ!!?」
「うむ。もう終わっている。戯言は終わりだ。死ね」
幾千回と振ってきた刀。その鍛錬が意味を為す時がやってきた!
龍は世を大きく乱す者の首を斬りつけた!
「や、やめ、ウ、ウ、ウガアアアアアアアアアアアアッ!!」
ザシュッッ
天井に忍び込んだ白狼が落として渡した名刀。それを振るって龍は、長尾家を、越後国を、周辺を大きく乱した一因の太く短い首を一刀の元に切り落とした!!
ただならぬ雰囲気を感じ取った護衛の僧兵は秘の間へなだれ込んできた。
「ご、御坊!? いかがなさりました!?」
「!? こ、小僧! よくも御坊を!」
ズシャッ!
ゴボッ!!
二名の破戒僧は、龍と天井から下りてきた白狼に瞬く間に屠られた。
龍は初めて人を殺した。
だが、心は「明鏡止水」の如く静かに澄み切っていた。
林泉寺の縁起については、「曹洞宗 春日山 林泉寺」様のHPを参照させていただきました。
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/
米沢にも謙信ゆかりの林泉寺があるみたいですね。
コロナ禍の元、拝観、御守り販売、御朱印記帳を行っていないようです。(R2/10/11現在)
再開されたら、ぜひ行ってみたいですね。




