状況 3年後 「火星」―3
「前言撤回よ……」
今日のために仕立てた豪奢なルーリアト様式の服を黒く汚したシュシュが涙目で呟いた。
すでにスミス老との会話で感じたワクワクした気持ちは吹き飛んでいた。
錆付いた配管とよくわからないドロドロした油。
そしてカビと藻とゴキブリの巣窟。
それが七惑星連合最後の存在がいるというフリーダム地下の第7ブロックだった。
携帯端末のマップを見て、評議会議事堂にあるエレベーターから直通で行けると知り乗ったところまではよかった。
十五分もエレベーターで下降し、その扉が開いた瞬間悲劇は始まったのだ……。
「大丈夫ですか? やはり私が先導した方が……」
後ろを歩くニャル中佐が心配そうに声を掛ける。
その手にはシュシュの息子であるメルンがしっかりと抱かれていた。
先ほどまでは地下の様子にぐずっていたが、今は大好きなニャル中佐の上着におくるみの様に巻かれてすやすやと眠っている。
「いいからあなたはメルンを守ってて! ……何が息子も連れてきていいよ……こんなところだって知ってたら連れて来なかったわ……」
この場所の環境は劣悪極まりなかった。
一歩踏み出すたびにカビとよくわからない藻のふかふかとした感触が靴越しに感じられ、その粉塵が舞い散る。
時折するバリバリという音は、悍ましい存在を踏み潰した音であろうが、シュシュは精神力を総動員して無視し続けた。
時折頭に雫が垂れてくる感覚があるが、恐る恐る触れてみるとそれは悪臭のする黒い油だった。
上層ブロックから機械油が垂れてきている……ならばまだよかった。
シュシュとしては考えたくは無かったが、匂いからすると汚水が混じっている可能性が高いのだ。
「シュシュ議長、流石にこの場所が七惑星連合最後の存在とやらがいる場所と言うのは考え難いです。メルン君やあなたが病気になりかねません。ここは一旦戻った方が……」
そう進言したニャル中佐は、油とカビからメルンを守るために自分のシャツのボタンを引きちぎり、そこにメルンの顔を入れてしまった。
眠るメルンが母親にするようにニャル中佐の乳房に顔を寄せるのを見て、シュシュは嫉妬と……そしてここまで息子を守ろうと行動するアンドロイドへの敬意と信頼を感じざるを得なかった。
そう、ワーヒド星域会戦以来シュシュ最大の誤算だったのがニャル中佐の息子への執着と庇護欲だった。
それまであくまで捕虜労役の一環として最低限消極的に任務に従事していた彼女は、メルンが生まれて以降その態度を一変させた。
24時間付きっきりで育児を行い、教育についても全く手抜きが無い。
火星には連れて来ていないが、いつもは一個分隊の歩兵型と医療型二名をメルン専従に(勝手に)しているほどの溺愛っぷりだ。
ルーリアト統合体の業務や七惑星連合での活動に忙しいシュシュはまずいと思いつつも、その行動を黙認せざるを得なかった。
ルーリアトの乳母たちの様な前時代的な子育てを良しとする事は当然できなかったし、ある意味対立関係にある火星やカルナークの人間に子育てや教育を任せる訳にはいかないからだ。
無論、実際に敵対関係にある地球連邦のアンドロイドに任せるのもマズいのだが、すっかり主治医としての立場を確立した彼女になし崩しに任せる事になり、今では一介の捕虜が七惑星連合議長の実質的な副官になってしまっていた。
それほどまでに、ニャル中佐への信頼は強い。
現に今も、秘密裏に受けた誘いの場へ行く際の護衛として選んだのニャル中佐だ。
こればかりは愛するジンライ・ハナコや愛おしいクク代表、可愛いアウリン1やポンポンに頼るわけにはいかない。
彼女達はあくまでも所属する組織や守るべき組織を背負って立っている。
だからこそ、通信機能を断ってアンドロイド本来の感情制御システムにのみ沿って行動するニャル中佐が最も信頼に値するのだ。
「……あなたがいればメルンは大丈夫よ。……それに、ここで引き返したら議長としての失点になりかねない。どうもね、これから会う存在は七惑星連合の実質的なトップの様だから。その呼び出しを無視したら、今度は私が中庭で殺されるわ」
七惑星連合の中で本格的に活動するようになって気が付いた事だが、この複雑怪奇な組織において、その主軸となる活動方針は巧妙に偽装されつつ「あのお方」から発せられていた。
シュシュは当初、七惑星連合のトップとは盟主と呼ばれているニュウ神官長だと思っていた。
しかし、彼女は七惑星連合の幹部の寄り合いという非公式な場を成り行きでまとめる立場に過ぎない。
ではカルナークや火人連のトップ……クク大佐や軍師長、火人連評議会なのかと言うとそれも違う。
彼らはそれぞれの組織を取りまとめるにすぎず、影響力は大きいが正規の権限は持っていなかった。
となると、火人連に影響力を持つ地球連邦の官僚や野党勢力でもない。
彼らも結局、その影響力は火人連内に間接的に作用するにすぎないからだ。
となれば、七惑星連合のトップとは誰か?
今から会う"あのお方"、”七惑星連合最後の存在”に他ならない。
「ですが……。これ自体が謀略の可能性は? こんな所で待ち伏せでもされれば……」
ニャル中佐の言葉を否定しようとして、シュシュは出来なかった。
ルーリアトなどと言う辺境惑星出身者が議長になり、粛清を終えた所を誘い出し殺害。
秘密裏な呼び出しだった故動向を知る者は無く、その上地球連邦のアンドロイドを連れていたとなれば……。
状況を考えれば忙殺にはもってこいだ。
メルンだけ回収すればエドゥディア帝国との交渉において何の問題も無い事を考えれば、筋が通り過ぎているとも言えた。
(……ちょっと浮かれすぎたかしら? 邪魔者を片付けたからって、自分が邪魔者として片づけられる可能性に思い至らなかったなんて……)
「大丈夫。今日は符を持って来ているし、魔力も万全よ」
自嘲しつつ、シュシュはニャル中佐に強がりを言って見せた。
カルナーク兵や火星陸軍の普通のサイボーグ一個小隊程度ならば嘘ではない。
だが、そんな事は謀略を仕掛ける相手も承知のはずだ。
さすがにアイアオ人やRONINN、ンヒュギ兵が相手では……。
と、そこまでシュシュが弱気になった所で、足元からカツン、という硬質の音が響いた。
しかも、薄暗かった周囲が前方から漏れてくる明りによって明るくなっている。
見てみると数メートル先からカビと藻が消え、まるで標準艦の様なきれいな金属製の床と天井が広がっていた。
「……どうやら心配事もここまでね」
ニャル中佐と息子に微笑むと、シュシュは二人を先導して早足で歩きだした。
ドロドロに汚れた姿のまま、三人は光に包まれていった。
明日も更新します。




