23話 『エトナ・ハインエル』
「アルさんっ、こんばんは!」
扉を開けると、満面の笑みを浮かべながらエトナが言ってきた。
膝の上に広げていた本をパタンと閉じて、クッションの上から立ち上がる。勢いそのまま、俺の傍まで走り寄ろうとして――
足を止めた。
「どうしたのですか!? 血が……」
目を真ん丸にしながら近寄ってきて、俺の顔に手を伸ばしてきた。
怯みそうになるのを耐えて、俺はエトナの為すがままになる。
エトナは俺の左頬を指で拭った。
見ると、肉刺の一つも無い綺麗な人差し指に、赤い物が付着している。
「怪我でもしたのですか?」
心配そうな目付きで、エトナが俺の顔をジッと見ている。
俺は無言で、さっきエトナが触った辺りを擦った。左の拳に、薄っすらと血が線を引いている。
ゴシゴシと左手で頬を擦って、俺は言った。
「取れましたか?」
「えっ、はい……取れましたけれど……」
「心配要りません。私の血ではないので」
そう教えてあげると、エトナはホッとした顔をした。
「そうですか……なら、良かったです! てっきり、アルさんがどこかで怪我でもしてしまったのかと思いました……」
言って、エトナはキョロキョロと辺りを見回した。
「アルさん、お父様を知りませんか? ついさっきまで、いたのですけれど……」
「陛下なら、私と入れ違いに帰られましたよ」
「えっ、そうなのですか?」
「……はい、大事なお仕事があるとかで」
俺の言葉を聞いて、エトナはプクーっと頬っぺたを膨らました。
「もうっ、お父様ったら……何も言わずに帰ってしまうなんて。起こして下さればよかったのに……」
エトナは精一杯怒った顔をしているみたいだが……全然怖くない。むしろ……陛下が見たのなら、顔を蕩けさせているのが容易に想像できる。
思わず小さく笑って……俺は、左手に碧色の剣を発現した。
一瞬後に刃は霧に変じて、俺とエトナを包み込んだ。
「……えっ」
目を瞬かせながら、エトナが小さな声で漏らす。
――放電。
光が、室内を一瞬明るくした。
エトナは何も分かっていない表情のまま、固まっていた。
俺は、自身の身体を苛む電流に、静かに耐えた。
フッと倒れそうになったエトナの身体を、強張る身体で何とか受け止める。
そのままの姿勢でしばらく休憩して……電流のダメージが消え去るのを待つ。
これまで散々、他の人たちに浴びせかけてきた攻撃だが……結構、苦しいんだな。
魔素で全く保護しないと……身体中が痛い。
電流そのものによる物もあるが、意思とは関係無く、筋肉が無理やりに収縮しようとして……それも、痛い。
数十秒が経って、ようやく身体の自由が利くようになってきた。
エトナは、俺の手の中でグッタリとしている。
念のため、微弱な電流を流してみると……ただ、気絶しているだけみたいだ。傷害は残っていない。
ホッとしながら、俺はエトナに背中を向けた。
本人が完全に気絶しているから難儀したが、なんとか背負うことに成功した。
エトナの両太腿を持ち上げる。
陛下がこんな光景を見たら激怒するだろうが……これくらいは目を閉じてもらおう。
そのままの姿勢で、俺は壁際まで向かった。
パッと見、他の部分と変わらない、ただの壁に見える。
壁は、灰色の石を積み上げて作られている。
その内の三つ。セバスから教えてもらった順番で押していくと……三つ目の石を押した瞬間、カチリ、と小さな音がした。
一歩、後ろに下がった。
直後、地鳴りのような音がして、ゆっくりと石壁が動き始める。
扉の形に、左にスライドしていく。
――そこに、真っ黒な通路が出現していた。
最後に部屋を振り返ってから……真っ黒な通路に、足を踏み入れた。
――
真っ暗な空間。
灯りの一つも無い。
エトナの寝息を聞きながら、そんな道をかれこれ半刻ほど歩いてきた。
遠くに、光が見える。
一歩ずつ光に近付いていくと、通路の最後は昇り階段になっていた。
その一番上まで上ってみると、天井が何かで覆われている。
右手で押し上げても、びくともしない。
首を傾げて、取りあえず電気を流してみた。
頭の中に、障害物の構造が浮かび上がる。
俺は一人苦笑して、天井に付いていた取っ手を掴んだ。
それをスライドさせると、重たい音を立てながら、通路に光が差し込んできた。
頭だけを出して、周囲の様子を確認する。
見知らぬ場所だ。
エトナを通路の中に残したまま、俺だけで外に出てみた。
見上げると、分厚い雪雲。
外は薄暗かった。雲に覆われて太陽が全く見えないから、正確には分からないが……今は夕方のはずだ。
季節は冬。もう少しもしない内に、夜が来る。
目の前には、木枝だけになった森林があった。
後ろを振り返ると、そこには巨大な石像。
どうやら俺は、その石像の、台座の一部から出てきたようだった。
石像は、台座も合わせると高さ三メートルくらい。
何の像だろう? と思って、俺は台座から飛び降りた。
積もった雪に足跡を刻みながら……石像の反対側に回ってみようとした。
その途中で、そこに広がっている光景に足を止めた。
台座の反対側には、ズラリと岩が並んでいた。
小さな物から、大きな物まで。形も様々だが、概して……古い物だと分かる。それくらいに、どの岩も雨風に削られていた。
そんな光景が、数十メートル先まで続いている。どうやら、奥に行く程に、岩は新しくなっているようだった。
そのさらに向こうに……王都を囲む、街壁が見える。
雪雲を、下から赤く染めている。
その光景から目を逸らし、俺は後ろを振り返った。
俺がついさっき出てきた石像、その前半分がようやく見えた。
それは、女の人の石像だった。
辺りに並ぶ岩と同じくらいに古びた物で、細かな部分の造作は分からなくなっている。けれども、胸の辺りが膨らんでいるから、女の人だと思う。
その女性は、周囲にズラリと並ぶ岩々を、見下ろしているようだった。
数えきれないほどの岩と、この女性の石像。
どちらも……それが何かを薄っすらと悟って、俺は再び石像の裏側に回った。
通路に降りて、エトナを抱え上げる。
台座から飛び降りて、すぐそばの森へと進む。
まっさらな雪が積もる森に、足跡を刻んでいく。
しばらく歩いて、振り返った。
もう……石像は見えない。
例え葉が無くとも、幹が重なって……俺たちの姿を、向こう側から隠していた。
……これくらいで良いだろう。
背中からエトナを下ろして、近くにあった大きな木の、その根元にエトナを座らせた。
幹にもたれかかせて、エトナが倒れないように調整する。
エトナに背を向け、来た道を戻ろうとして……俺は、再びエトナの元に戻ってきた。
着ていた神官服を脱いで、それでエトナの身体を包む。
できる限りたくさんの魔素を、神官服に込めた。
立ち上がろうとして――俺は、ふと……陛下の最後の言葉を思い出した。
「……頑張れよ」
小さく呟いてみる。
あの時、陛下がどんな意図で言ったのか……分からなかったけれど。
もしかして、俺に向けてじゃなくて、エトナに向けて言ったのだろうか?
これから頑張らなければいけないのは、俺じゃなくて……エトナなのだから。
「……頑張れよ、か」
エトナは、小さく寝息を立てていた。
頬っぺたが、寒さでピンクに染まっている。
俺は、エトナのことが嫌いじゃない。いや、どちらかというと好きだ。こんな可愛い子どもに、あれだけ懐かれてしまったら……しょうがないだろう。
俺は、人差し指を一本立てた。
たしか……。
記憶を探って、人差し指を、エトナの胸の中央に突き立てた。
そこに、魔素を注ぎ込む。
同時、エトナが軽く眉を寄せたのが分かった。
それを確認して、立ち上がる。
エトナに背を向ける。
そのまま数歩進んでから、後ろを振り返ってみた。
……そこには既に、エトナの姿は無かった。
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