22話 『雪の日に 八』
通い慣れた道。本棚の向こうの隠し通路。そこを抜けると、小さな扉があった。
引くと、微かに軋む音を立てながら、扉は開いた。
部屋に入って最初に目に付いたのは、陛下だった。
鼻の前で人差し指を立てている。
面白いことに、こっちの世界でもこのジャスチャーの意味は変わらない。静かに、という意味で使われている。
見ると、クッションに座っている陛下の膝の上で、エトナが眠っている。
思えば、エトナに会うのは久しぶりな気がする。
実際は、昨日の夜に会ったばかりなのに……色々あり過ぎて、ずっと昔のような気がする。
陛下の命令通り、俺はできるだけ足音を立てないようにしながら、陛下のすぐ傍まで向かった。
「……どうして、余がここにいると分かったのだ?」
小さな声で陛下が言った。
陛下の隣に腰を下ろしながら答える。
「ファーターさんから聞きました。陛下が駄々をこねたので、仕方なく……と言っていましたよ」
ムグッと唇を歪めて、陛下は言った。
「駄々などこねていないぞ。ただ、ちょっと……暇だと言っただけだ。暇だから、別に会いに来ても構わないだろう。ファーターめ、後で覚えておけよ」
「……ファーターさんなら――」
途中まで言って、俺は陛下の目に気付いた。
言おうとしていた言葉を、喉の奥で噛み潰す。代わりに――
「陛下、宰相から聞いています」
言って、俺は壁の一点を指差した。
「そこに、隠し通路があるのですよね? 王都の外に繋がっている。もう、時間がありません。エトナさんと二人で、逃げて下さい」
緩慢な動きで陛下は後ろを振り返り、俺の指が示す方向を見つめた。
何も言わず、再び俺に目を向ける。
「聖官殿が、余を護ってくれるのだろう? 聖官殿が帰ってきたのなら、もう安心のはずだ。――なぜ、逃げねばならぬのだ?」
「それは……」
陛下の、赤い瞳が俺を見つめていた。
エトナの、安らかな寝息が聞こえる。
「ははは、すまぬすまぬ」
陛下の笑い声が沈黙を破った。
「意地の悪いことをしたな。少し、いつもの場所に行きたいのだが……構わぬか?」
――
王宮内では、賊が暴れていた。中央騎士団の制服を着ている者が多いが、普通の王都民らしき人も混じっている。
廊下には、近衛騎士が所々で倒れていた。中には、見覚えのある顔もある。
その脇を陛下と一緒に越え、時々向かってくる賊は俺が昏倒させ……それほど時間もかからずに、裏庭の墓地に着いた。
墓地に、賊の姿はない。
静かだ。
朝から降り続いている雪が厚く積もり、巨大な墓石を白く染めていた。
目的地に辿り着いた陛下は、墓石に積もっていた雪を素手で払いのけ、そこに刻まれている文字を露わにした。
『レイネ・ハインエル従妃
一九九三~二〇一一』
墓石を見下ろしながら、陛下は言った。
「どうだった? セイレーン領では、上手くいったか?」
「はい、問題無く。ミーシャさんには怪我なども無く、無事でした」
「そうかそうか……聖官殿の父君はどうだった?」
「……」
分厚い雲からは、絶えず雪が落ちていた。
遠くの雲は赤く染まり……地上からは、所々で真っ黒な煙が上がっている。
「……どうして、そこで父上の話が出てくるのですか?」
「エンリ領も、向こう側だろう? あまりにも数が多いのでな。余も全てを把握しているわけではないが、聖官殿がやって来てから、特別に調べさせてもらった。
エンリ領、シエタ領、セイレーン直轄領、シュバルツ子爵領……あの辺りは全て反乱側だということは、調べが付いている」
淡々と陛下は続ける。
「国王には、代々優秀な諜報隊が付いていてな。王国内の反乱分子の情報については、かなり前から集めていた」
「……気付いていたなら、どうして放置していたのですか」
陛下は、俺の方を向いた。
「聖官殿の言葉を借りるなら……どっちでも良かったのだよ」
困惑を浮かべる俺を見て、陛下はニヤリと笑った。
「シエタ卿を王城に招待した時、聖官殿は言っただろう? どちらでもよかったと。シエタ卿が謀反の意志を仄めかそうと、そうでなかろうと、余に聞いてほしかったと。……余も、どちらでもよかったのだ。謀反が起ころうと起こるまいとな」
陛下は、チラリと背後の墓石を見てから続けた。
「まあ、結果として起こったわけだが……選べるならば、聖官殿に全てを終わらせて欲しい」
懐から、小さなナイフを取り出している。
「聖官殿が、余を殺してくれ」
ナイフは、曇天を反射して鈍く光っていた。
俺はナイフに一度目を落とし、そして陛下に目を向けた。
「……どういう意味ですか?」
「怒り狂う民よりも……聖官殿の方が、優しく殺してくれそうだからな」
「……どうして、陛下が死ななければならないのですか」
陛下は、小さく噴き出した。
「それは、聖官殿が一番分かっているだろう? 謀反を起こした者は死罪。これは、罷りならぬ。
聖官殿が、自分の大切な者たちを救うためには、謀反に成功してもらわねばならない。謀反が成功するということは……そういうことだろう」
「だから」と言って、陛下はナイフを差し出してくる。
そのナイフの煌めきを見て、俺は一歩後退った。
陛下が一歩、歩み寄ってきた。
そのまま、無理やり俺の手にナイフを握らせた。
ナイフを一度見て、それから俺は……再び陛下に目を向けた。
一つ、聞きたいことがあった。
「……最初から、そのつもりだったのですか?」
「なにがだ?」
「陛下は……最初から、誰かに殺してほしかったのですか?」
陛下は驚いたように目を見開いて、それから、ニヤリと笑う。
「殺してほしい……だと、少し違うな。……余は、誰かに罰してほしいのだ」
「……罰してほしい?」
俺が聞き返すと、陛下は一度頷いた。
「とはいえ、余は国王だ。余を縛る法などは存在しない。余を裁けるのは……聖女様と、民たちだけだ。
聖女様が処罰を下されるか、民が蜂起するか、この二つの方法でしか、余は裁かれることが無い」
陛下は、空を仰いだ。
「余には、罪がある。だから、誰かに罰してほしかった。……ただ単に殺される訳ではない。罰してほしかったのだ。
真に正当な者は既にいないが……ならば、せめて次に正当な者の手で以って、罰さらねばならぬ」
「……罪?」
陛下は、濁った瞳で俺を貫いた。
「そう、罪だ」
「……どんな?」
陛下は俺から目を逸らし、すぐ傍の墓石に目を向けた。
「余は……大切な人を、殺してしまったのだよ」
絞り出すような声で言った後、陛下は重々しい口調で言った。
「聖官殿、一つ言っておこう」
俺は無言で陛下の目を見ていた。
「仮に余が生き残ったならば、謀反を企てた者には、法に則た処分を与える。今回は、シエタ卿の時のように特別の配慮はせぬ。それが例え聖官殿の大切な者たちであったとしても、死罪になるだろう。
余は――王城からは逃げぬ。聖官殿が選ぶのだ。余を護るか、余が弑されるのを見殺しにするか……あるいは、聖官殿が全てを終わらせるか」
俺は、手から力を抜いた。
そこに握られていたナイフは滑り落ち……雪に沈む。
陛下が、静かに息を吐いたのが分かった。
「陛下」
言って、俺は左手に碧色の剣を発現させた。
「こちらを使っても、構わないですか?」
陛下は、ニヤリと笑った。
黙って、雪の上に跪いた。
俺に向けて最敬礼をしてくる。
跪き、頭を垂れ……首筋を無防備に向ける姿勢。
――あなたに、命を奉げます。
そういう意味が、この姿勢には込められているらしい。
俺は、碧色の剣を曇天に掲げた。
「……聖官殿よ」
俺が剣を振り下ろし始めてから、陛下が呟いた。
もう……止められない。
「頑張れよ」
だから……どういう意味でその言葉を言ったのか、分からなかった。
真っ白な雪の上に、赤色が散っていた。
視線を少しだけ動かす。
『レイネ・ハインエル従妃
一九九三~二〇一一』
墓石には、そう刻まれていた。
ついさっき陛下が雪を払ったばかりなのに、薄く雪が積もっている。
赤い物が、墓石にも散っていた。
その熱で、墓石に積もる雪が……少しだけ溶けていた。
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