20話 『雪の日に 七』
「何をしているのですか?」
後ろから声をかけられて、俺は慌てて振り返った。
本棚の間から顔を覗かせていたのは――
「宰相」
言いながら、俺は狼狽した。
ちゃんと周囲に注意を払っていたはずなのに、全く気付けなかった。
――いや。
思いながら、よくよくセバスを観察してみる。
皺の刻まれた顔、灰色の髪の毛、頭頂部が少しだけ禿げている。
そう認識しても、次の瞬間には記憶が朧になる。
十分後に、セバスの特徴を聞かれても、答えられる自信が無い。
俺が人の顔を覚えるのが苦手だと言っても、流石に……これは異常だ。
警戒心を高めながら、セバスに目を向けていると――
「いかがですか?」
言いながら、セバスは右手の瓶を揺らした。
チャポンと、中の液体が音を立てた。
小さく笑いながら、セバスは続ける。
「陛下秘蔵の、珍しいお酒らしいですよ。以前に陛下がおっしゃっていました」
俺は、背後の――緑の本が詰まった本棚を一瞬振り返ってから、セバスの元へと歩んでいった。
――
陛下と一緒に何度か図書館に来た時は、概して司書机の上は分厚い本でごった返していた。その机が、綺麗に片付けられていることに、まず驚いた。
机の上には、グラスが二つだけ乗っている。
セバスは司書机に瓶を置き、そして椅子に座った。
その対面に用意されていた椅子に、俺も腰かけた。
セバスは慣れない手付きで瓶の蓋を開け、中の薄く赤く色づいた液体を、俺の目の前のグラスに注いだ。
液体は、コップの底にぶつかると同時に、弾けた。シュワシュワ、と気泡が発生している。
セバスが自分のグラスにも薄赤の液体を注ぐのを待って、俺は口を開いた。
「図書館で何をしているのですか。今、大変でしょう?」
「――のようですね。外は……今、どうなっていますか?」
俺たち二人の声は、静かな図書館によく響いた。
外の喧騒とは無縁の、静かな空間。
パチパチと、グラスでは気泡が弾けている。
俺はグラスを手に取って、一口、口に含んだ。
炭酸が弾ける感触。ちょっと酸っぱくて、それでいて甘い。
変わった味だが……やっぱり美味しい。俺は、陛下と味の趣味が似ているのかもしれない。
ゴクリと、冷たい物が喉を下るのを待って、俺は応えた。
「酷いですね。少し見ただけなので、完璧に状況を把握しているわけではありませんが、中央騎士団が二組に分かれて争っているようでした。近衛騎士団も入り混じっていて……。
とりあえず、目に付いた兵士たちは全員昏倒させてきましたが……とてもじゃないですけど、一人では手が足りません」
「ほう、そうですか」
他人事のように呟いて、セバスもグラスを手に取った。
瞼を閉じながら、酒を味わっている。
「……とはいえ、王都教会が中央教会に連絡をしてくれているようですから、その内、何人かの聖官が派遣されてくるでしょう。そうすれば、迅速に混乱は収まるはずです」
「でしょうな」
興味無さそうに短く言って、セバスはグラスを机の上に置いた。
「聖官様は、あの日のことを覚えていますか? 私が泣酒を持って行き、酔い潰れた夜に……お頼みしたことを」
梨のような香り。
その記憶と共に……セバスの声が蘇った。
「もしも、陛下の身に危険が及んで……それを、聖官様が助けられないと判断したなら。
その時は、他の誰かの手によって陛下が斃れる前に……聖官様が、陛下の命を絶って下さいませんか?」
――あの夜と、全く同じ台詞をセバスは言った。
あの夜と同じように、一口煽っただけなのに、既にセバスの顔は赤らんでいる。
それを見ると、思わず口元が緩んだ。
「あの夜は、全く意味が分かりませんでした」
「あの夜は、ということは……今は、分かるのですか?」
セバスをチラリと見てから、俺は答えた。
「さあ、どうでしょう? 今もまだ、分かっていないのかもしれません」
「そうですか……ところで、セイレーン領は如何でしたか? ミーシャ子爵婦人は、ご無事でしたか?」
ガチャンと、遠くで何かが割れる音が聞こえた。
グラスの中で、液面が小さく震えている。
「……ミーシャさんなら、怪我もありませんでしたよ」
「では、エンリ男爵などは?」
セバスの言葉に、俺は顔を上げていた。
そこでは、顔を赤くしている老人が、グラスを傾けていた。
「……何で、それを知っているんですか?」
「エンリ領は……セイレーン領の隣ですからな」
静かな声でそれだけ答えて、セバスは椅子から立ち上がった。
「……どこに行くんですか?」
セバスは苦笑を浮かべた。
「もう、私も年でしてな。尿が近いのですよ。少々、厠へ。……陛下なら、あちらに」
セバスは司書机をグルリと回り、ふらつく足取りで、俺の視界から消えた。
しばらくしてから、後方で図書館の扉が閉まる音が聞こえた。
……机の上の酒瓶を手に取る。
蓋を取り、さっきまでセバスが使っていたグラスを、手に握った。
半分くらいまで中身が減っていたグラスに、薄赤の液体を注ぎ足す。
グラスの縁から一センチ程下まで注いで、瓶を机の上に置いた。
司書机の上を滑らして、グラスを元あった場所に戻す。
……俺も椅子から立ち上がった。
自分の分の酒を飲み干して、机の上に勢い良く置く。
カツン、という音。
衝撃で、司書机が微かに揺れた。
セバスの椅子の前。
そこに置かれているグラスの中で、薄赤の液体が揺れていた。
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