10話 『コテイ』
内心どうでもいいと思いながらも、ベータの監視に急かされて、私は本日の書類仕事を終了した。
全く、ベータは生真面目過ぎると思うのだ。あんな書類、適当に書いたのでいいのに。
もっと、ガンマくらいに適当な性格だったら……と思わなくもない。
でも、ベータみたいな真面目な妹がいるおかげで、私は日々の仕事をこなせているわけだし……痛し痒し、という感じだ。
羽ペンをインク壺に投げ出し、私は秘密の部屋に転移した。
部屋の大部分の床を覆うのは、最上級の共和国絨毯。机や椅子も、当然最高級品。王国の工作院に、十年周期で作らせている。
壁にかかっている絵画は、帝国はアートリアの品。二百年ほど前に、当時のアートリアを代表する画家たちに、総出で描かせたものだ。
教会の総力を尽くして整えた部屋には――しかし、その主の姿は無かった。
この時間帯にマオ様はいない。おそらく、いつもの場所にいるのだろう。
その代わり――招かれざる客が、我が物顔で椅子に座っていた。
視認した瞬間、私は全身の筋肉が強張るのを感じた。
一方その女性は、私の存在に気付いていないかのように寛いでいる。
中央教会――さらにその中でも、最も厳重に警備している部屋。私たちとマオ様以外には、立ち入りを禁止している部屋。
その部屋の中で、奇妙な服を身にまとった女性が、我が物顔で茶菓子を摘まんでいる。
その光景は、私にとってなんら不可思議なことではなかった。
女性は豪奢で色鮮やかな服を着ている。たしか……着物と言うんだったか。女性が統治している国に伝わる、古くからの伝統的な服装だという。
「そのような場所で立っていないで、我も座ってくださいまし」
言って、女性は私に顔を向けた。同時、二つの狐耳が可愛らしく動く。
その耳には、マオ様の翼に近しいものを感じるのだが……残念ながら中身は真逆だ。
マオ様はどれだけの年月が経とうとも心優しく、こちらが心配になってしまうほど。
対して弧帝は、昔からブレずに腹黒。
何か変なことをされては堪らないので、大人しく弧帝の傍まで歩み寄る。
弧帝の正面の椅子が勝手に動いたので、私は神官服のお尻の部分を手で押さえながら腰かけた。
「以前にお邪魔してから……百年ほど経ちましたか――」
突然、弧帝が私に左手の人差し指を向けてきた。クルリと小さな円を描く。
ぽんっ、と私の視界を真っ白な煙が覆った。
煙が晴れると、私の視点はさっきよりも下に落ちていた。
弧帝の嫌らしい笑顔を下から見上げる。
「どうでしょうか? やはり、吸血鬼には蝙蝠が似合うと思うのですが……百年経ってみてからの感想を、ご本人からお聞きしたいと、ずっと思っていたのです」
百年前、弧帝は今と同じようにこの部屋に出現し、私に呪いをかけていった。
蝙蝠に変身してしまう呪いだ。
最初の数年は上手く制御できず、人前に出ることができなかった。
……腹立たしいのは、慣れてくると案外、蝙蝠の姿は楽だということだ。
「……慣れてみると、こちらの姿も悪くないです」
思ったことを、正直に答えた。嘘を付くとどうなるか、私は身をもって知っている。
「そうですか! 喜んでいただけたようで、我も嬉しいです!」
笑みを浮かべて、弧帝は指を鳴らした。
再び視界が白い煙で覆われて、私は人間に戻った。
「次は、何がよいでしょうか?」
「……はい?」
ぱんっ、と弧帝は手を打った。
「次はどのような獣がよいでしょうか? なんでも言ってくださいまし。我が叶えて差し上げます。
兎に豚、狸……ああ、黒猫なんていかがでしょうか? それだと、吸血鬼ではなく、魔女になってしまうでしょうか? あっ、狐は駄目ですよ」
人差し指を一本立てながら、弧帝は最後の言葉を付け加えた。
「……いえ、遠慮しておきます」
「そうですか……」
狐耳を垂れて、本当に残念そうな表情を浮かべる。
けれど、瞳の奥に悪戯っぽい色があることは、隠せていない。
……いや、こいつが生きている年月を考えれば、わざと見せているのかもしれない。
私とマオ様が百歳を過ぎたころ。その当時には、既に弧帝は存在していた。
聖国とは真逆、大陸の東端のさらに向こう側。弧帝は、そこにある島国を統治していた。
まだ若かった私は、そこに何があるのかが気になって……船では渡れない海峡を『能力』で無理やり超えてしまった。
今では深く後悔している。
当時の私は、調子に乗っていたのだ。大陸に敵になるような存在が無かったから、軽い気持ちで手を出してしまった。
あの時手を出さなければ、私はもっと心安らかに、マオ様と戯れるだけの生活を送れていたかもしれない。
弧帝の統治国――倭に一歩足を踏み入れた瞬間、私は想像を絶する、尋常でない気配を感じ取った。
すぐに離脱を試みたけれど……その時には既に、弧帝に捕捉されていた。
それ以降、弧帝は突然に私の元を訪れるようになった。
頻度は一定ではない。数百年間音沙汰も無かったこともあれば、十年のうちに二度出現したこともある。
今回は百年ぶりだから、特別早くも遅くもない。
「それで、今回はどのようなご要件ですか?」
両手のひらに汗を握りつつ、私は弧帝に尋ねた。
頼むから「何となくお邪魔しました」という回答であってくれと願いながら……今回は面倒な番だと、頭の端では予感していた。
脳裏に浮かぶのは、得体の知れない金髪の少年――弧帝の眷属。
「お願いしたいことがあって、お邪魔したのです」
弧帝の手には、一本の巻物が握られていた。
緑の巻物に、金色の渦巻き模様が華を添えている。
弧帝は巻物を留めている布紐を解いて、机の上に転がした。
滑らかに転がった巻物は、机の端っこに辿り着いて――そのまま、青色の絨毯の上に音もなく落下する。
そこでようやく、巻物は回転を止めた。
巻物にはギッシリと黒色の文字が書き込まれていた。
その文字一つ一つから、そこに込められた極大の力を感じて……私は、背筋がゾワリと震えるのを感じた。
黒い文字には円状の空白がある。その位置は、ちょうど弧帝の目の前。
「しばし、お待ちくださいまし」
言って、弧帝は着物の袖をたくし上げた。右手には、いつの間にか『筆』が握られている。
筆の先っぽの毛束は白い。
――繊細に紡がれた魔素の気配がした。
同時、筆の先端が黒く滲む。
刺さりそうなほど尖った黒い筆先――狐帝はそれを、巻物の上に落とした。
白い正円の中央に落ちた筆は、その先端をたわませた。
跳ね返る力を利用するようにして、弧帝はサラサラと流麗な文字を綴っていく。
何と書いてあるのかは分からない。縦に繋がったグネグネ文字。
それがただの落書きではなく、ある体系を持った形なのだということは……その美しさを見れば、誰でも理解できるだろう。
――弧帝の手から、筆が霧散した。
その瞬間、巻物全体に禍々しい気配が生まれる。
「ふぅ……」
小さく、妖艶な吐息を漏らして、弧帝は巻物を手に取る。
クルクルと、ひとりでに紙が巻き取られて、最後に紐が結び目を作った。
「どうぞ」
狐帝が、私に向けて巻物を差し出してきた。
……昔の記憶が蘇る。
狐帝から巻物を受け取った瞬間、訳の分からない空間に収納されたり、生きたまま細切れにされたりした記憶。
正直、指の一本でさえ巻物に触れたくない。けれど、拒否したところで意味がないことを、私は身にしみて知っている。
だから、私は渋々と巻物を受け取った。
……幸いにして今回は何事も起こらなかったけれど、巻物の重さが気になった。この重さ……かなりの魔素が込められている。
私の心労なんて露ほども気にかけず、弧帝は室内を見渡しつつ、狐耳をピョコピョコと動かした。
「そろそろ、我の眷属がここを訪れる頃合いかと思うのですが……どうやら、既に訪れた後のようですね」
やっぱり、コイツの差し金だったか。
「はい、つい先日に」
「まあ! ということは……ひょっとして、まだここにいたりするのでしょうか?」
弧帝は嬉しそうな声をあげている。驚くべきことに、瞳の中にも喜びらしきものが見えている。
「……申し訳ありませんが、眷属様はすでに中央教会にはいません。聖官に任し、今は初任務の為に帝国に向かっています」
「ああ、そうですか。そういうことになっているのですか。……残念ですが、仕方がありませんね」
「私の手違いで、弧帝様の眷属だと気付かずに、聖官に任じることとなってしまったのですが……問題無かったでしょうか?」
「えっ」
微かに首を傾げて、弧帝は不思議そうな顔をした。
「全く問題ありませんよ。少しばかり、我の想定よりも展開が早いですけれど、早い分には問題ありませんから」
「……」
やっぱり、私は弧帝が嫌いだ。全てを見透かされている気がして、気味が悪い。
さっさとお帰り願おう。
「この巻物をどうすればいいですか?」
「そうですね……共和国あたりがいいでしょうか。その巻物を人の少ない場所に埋めて、育った暁には、我の眷属を向かわせてもらえますか?」
「眷属様を?」
「はい」
弧帝は美しく微笑む。
「面白い物ができるはずですから、是非とも我の眷属に楽しんでほしいのです。あっ、もちろん、同行者は何人かいても構いませんから」
「……分かりました」
私が答えると、弧帝は拍子抜けするくらいあっさりと椅子から立ち上がった。
「それでは、お願いしますね」
声を残して弧帝は消える。
代わりに、一枚の真っ赤な葉っぱが、宙を舞っていた。
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