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20話 『帰還』



 十日間も眠りこけていたせいで、俺の身体は変化していた。


 筋肉は心なしか細くなり、実際、ちょっと動いただけでも疲れる。頭の回転も遅くなっている気がする。


「一時的なものかと思います。他の『眠り病』患者たちも、目が覚めて数日間は同じようなことを訴えていましたから」


「そうですか……少し不安だったので、良かったです」


 アトラス医師が大丈夫と言ってくれると、絶大な信頼感があった。


 にしても、アトラス医師といえば、ヨレヨレの白衣と深い隈、その奥で爛々と輝く鋭い瞳――っていうイメージだったのに、今はただの中年に見える。


 月単位の超過労働からようやく解放されたおかげだろう。肌は健康的な色合いを取り戻し、隈も綺麗に消えている。


「とりあえず、明日から復帰訓練を開始しましょう。今日はもう遅いですから――」


 アトラス医師が目を向けた先には、半月が浮かんでいる。


「眠気はないかもしれませんが、早めに休養を取って下さい。軽い睡眠薬を処方しておきます。どうしてもという時は、水で飲んでもらえると」


「はい。本当に……色々とありがとうございます。イプシロンから聞いたのですが、私が眠っている間、たくさんお世話をしてもらったみたいで」


 頭を下げて心の底からの感謝を述べると、アトラス医師は苦笑を浮かべた。


「当然のことですよ。これが私の仕事ですからね。それに、アル神官はマエノルキアの恩人です。むしろ、こんなことしかできなくて申し訳ないくらいですよ」


 丸椅子から立ち上がると、アトラス医師は続けて言った。


「ああ、それと――感謝を述べるなら、サラ神官とイプシロン神官に言ってあげてください。

 彼女たちは、本当に親身になってアル神官のお世話をしてくれていましたから」



 ――



 復帰訓練とは言っても、ただ十日間眠っていただけだ。身体に障害があるわけでもないし、俺はピチピチの十五歳。回復は早かった。


 若い男性医師に教えられながらベッドの上で柔軟体操をした後に、杖を突いて医院二階の長廊下を歩いていると、すぐに感覚が戻ってきた。


 医師から一人歩行の許可をもらった俺は、リハビリがてら医院の中をウロウロすることにした。


 螺旋階段を下りると、あれだけ大量に敷かれていた白シーツは全部撤去されていた。医院の壁や天井を作っているのと同じ、大理石っぽい床が露出している。


 天井近くの採光窓、そこから差し込む暖かな光が照らす中、何人かの医師が談笑している。


 大体の人とは顔馴染みになっているので、挨拶でもしようかと足を向けると――


「あっ、アルさん。しばらくぶりですね!」


 解剖室の扉が開いて、そこからエルシアさんが顔を出した。どうやら両手で何かを持っているみたいで、足と肩で扉を開けようとしている。


 エルシアさんはちょっと苦手だけど……俺は小走りで向かって、解剖室の扉を開けてあげた。


「ありがとうございます!」


 笑顔のエルシアさんは、両手で木箱を持っていた。中にはガラス瓶がギッシリ詰まっていて、ガラス同士のぶつかる音がする。


「手伝いますよ。どこまで運ぶんですか?」


「そんな、いーですよ! アルさんは病人なんですから」


 前に会った時と比べると、今日は物すごく機嫌がいい。


「そういえば、お仕事はもう落ち着いたんですか?」


「そうですよー。アルさんのおかげで『眠り病』の患者さんたちがいなくなりましたからね。アトラス先生に全部任せちゃいましたー」


 なるほど。


「あっ、そうそう! アルさん。私に何か言うことがあるんじゃないですかぁ?」


 言いながら、エルシアさんは木箱を突き出してきた。


 木箱とエルシアさんの笑顔を交互に見てから……おずおずと、木箱を受け取る。


 思っていたよりも木箱は軽かった。どうやらガラス瓶は空っぽだったらしい。それでも五キロぐらいはあると思う。


 歩き始めたエルシアさんに並びながら、さっき降りてきた螺旋階段を上る。


「……あの、すみません。エルシアさんが何のことを言ってるのか分からなくて」


「あれですよ、あれ! 見ましたよね、サラさんとイプシロンさんの服!」


 ナース服のことか。


 エルシアさんは悪戯っぽい表情を浮かべると、肘で俺のことを突っついてきた。


「アル少年が喜ぶと思って、わざわざ用意してあげたんですよぉ。どうでした? 二人を見た感想は?」


「えっと……はい。二人とも似合ってたと思います」


「ありがとうは?」


「……ありがとうございました」


 うんうんと、満足げに頷いていたエルシアさんは――


「エルシア?」


 三階から降りてきたマエノ医師を見て、動きを止めた。


 マエノ医師は階段を下りながら、俺に笑顔を向けてきた。


「目を覚ましたとは聞いてましたから、お会いしたいなと思っていたんです。体調はいかがですか?」


「少しだけ身体が重たいですけど、たぶんすぐによくなると思います」


「そうなんですね。それは良かったです」


 ポカリと、エルシアさんの頭を叩く。


「病人に何をさせてるの!」


「だって、アルさんがどうしてもって……」


 マエノ医師は困った顔を浮かべると、俺から木箱を引き取った。その後ろで、エルシアさんがウインクをしている。


「アルさんも、あまり無理したらアトラス先生に怒られちゃいますよ。ねちねちと一刻近くお小言を聞かされるはめになるので、気を付けてください」


「……そうですよね。気を付けます」


「あっ、師匠! 私が持ちますよ!」


「いいですよ。すぐそこですし」


「なら、半分ずつ持ちませんか?」


 エルシアさんは、半ば無理やり取っ手の片方を握った。


 マエノ医師はため息をつくと、俺に向かってペコリと会釈をした。


「それではアルさん。私たちは失礼しますね」



 ――



 エルシアさんとマエノ医師は二階へと入っていった。


 二人の背中を見送りながら、その場で少し考える。


 このまま付いていくのは気まずいし、また一階に下りるのは気恥ずかしい。


 三階は関係者以外立ち入り禁止。以前までは入る用事があったから、立ち入りを許可されていたが……今はどうなんだろう?


 階段を見上げてから、階下を見る。


 角度の関係で、身を屈めれば下からは見えないだろう。


 まあ、怒られるかもしれないが……その時はその時だ。


 コソコソと三階に上がった俺は、立ち並ぶ扉のうち、『疫学課調査室』と書かれているものをノックした。


 返事が無いので、勝手に扉を開く。


「失礼します」


 中を覗くと……誰もいない。ネッター医師がいないのは想定通りだけど、ニーナさんがいないのは珍しい。


 誰もいない室内は空気が淀んでいた。


 (ほこり)と古い紙、インクの入り混じった匂い。見ると、窓が閉まっている。しばらく換気されていないんだろう。


 俺は室内を横断すると、奥の窓を開けた。


 同時、新鮮な風が室内に吹き込んでくる。その風に乗って、屋台のおっちゃんの声と、魚が焼ける香ばしい匂いが室内に入ってきた。


 魚串か……初日に三人で食べたけど、あれは美味しかったな。そういえば、それから一度も食べてない。


 海風を肌に感じつつ、俺は壁際に並ぶ席の一つに腰掛けた。俺が数日間缶詰になって検査をしていた席だ。尻に慣れた感触を感じつつ、ぼんやりと室内を眺める。


 巨大なマエノルキアの地図が、部屋の真ん中の机に留められている。


 あれだけ大量に置かれていた赤石のほとんどは取り除かれていて、ほんの数個だけがポツポツと配置されている。


 地図を超えて向こう側、そこにはネッター医師の席がある。相変わらず書類がタワーを作っていて、以前見た時から少しも低くなっていない。


 しばらくの間……何をするでもなく室内を眺めていた俺は、椅子から立ち上がった。


 いちおうは世話になったし、ネッター医師に挨拶しとこうかと思ったんだけど、いないなら仕方がない。


 ネッター医師の家を訪ねるか? チラッとそんな考えが頭を過ぎったけど……うん、そこまでして会いたい人じゃないな。止めとこう。



 ○○○



 アトラス医師から退院許可が出たのは、目覚めて三日目のことだった。


 マエノルキア教会聖石室。青色の空間に、俺とサラ、イプシロンの三人はいた。


 部屋の中には、他にも三人の姿がある。モジャモジャ髪の男と、そこそこ美人の女性と、ガタイのいい男。


 モジャモジャが前に出た。


「本当にありがとうございました! もしも私にできることがあれば、いつでも言ってくださいね」


 そこまで言って、セボン神官は「アハハ」と笑った。


「また海中の魔物と戦うことがあれば、幾らでも体液を絞り出しますよ!」


 返答に困った俺が愛想笑いを浮かべていると、青球に右腕を掲げていたイプシロンが言った。


「それでは転移を開始しますから、範囲内に入って下さい」


 俺は小さくセボン神官に頭を下げて、サラの腕を引っ掴んだ。


 最後に見えたのは、笑顔で手を振るセボン神官の姿だった。



 ○○○

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