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17話 『ネッター式催眠術』



「精神病の一種だろうと思いますが……」


 苦い表情を浮かべながら、アトラス医師は続ける。


「すぐに治すことは難しいと思ってもらうべきかと。なにせ、疫病などと違って薬はありませんし、有効な治療法も見つかっていないのです」


「そうなのですか?」


 イプシロンが意外そうな声をあげている。


「はい。例えば……これは私が以前診た患者の例なのですが。もちろん具体的な名前は言えませんから、仮にスレインとしましょうか」


 アトラス医師の口調は重たい。険しい表情を浮かべている。


「スレインは帝国でも有名な冒険者でした。魔物との戦闘時に使う得物は長剣で、スレインにとってはほとんど体の一部だったとのことです。

 ……ですが、ある任務の途中。誤って仲間を、自分の長剣で傷つけてしまったそうです。大した傷ではありません。ほんのかすり傷、血が僅かに滲む程度の傷でした。

 ――それだけで、スレインは長剣を使えなくなってしまいました」


「使えなくなった? 怪我でもしたのですか?」


 イプシロンは理解が追い付かないらしく、眉をひそめている。


「いえ、怪我などは全く。本人にも誰にも原因は分からず……ただ、長剣を握りしめると動悸が始まり、冷や汗が滲み、酷い時には意識を失うようになってしまいました」


「……それって」


「はい。アル神官と同じ症状です」


 二人の視線が俺へと注がれる。


「……その後、スレインさんは治ったんですか?」


 俺の質問に、アトラス医師はすぐには答えなかった。


 遠くに騒めきが聞こえる中、淡々とした声が響く。


「いえ、私も色々と手を尽くしたのですが……結局治ることはありませんでした。

 スレインがマエノルキアを去ってからしばらくして、彼が冒険者を引退したと風の噂で聞きました」



 ――



 セボン神官の件で思い知ったんだけど、誰が解決の糸口を知っているかは分からない。


 セボン神官は数年前から海に潜って薬草の採取をしていたらしい。そしてそのことを、治療に真面目に関わっている医師のほとんどは知っていた。


 もちろん、マエノ医師とエルシアさんは知らなかった。


 最初から色んな人に相談していたら、あんなに悩むことは無かった。


 そういうわけで、今回の件も色んな人に相談してみることにした。


 アトラス医師は臨床課の医師に話を聞いてくれるそうだ。


 セボン神官は「病気のことは分かりません!」と申し訳なさそうに言っていた。


 マエノ医師は「そうなんですか」と言って、砂糖菓子をくれた。


 ここ数日忙しそうなエルシアさんには……「消えろ」と笑顔で言われた。


 そして最後に俺は――疫学課調査室の扉を叩いていた。


 案の定、返事は無い。アトラス医師に倣って、返事を待たずに扉を開ける。


「失礼します。ネッター先生は――」


 ……やっぱり、いないな。


 アトラス医師曰く、魔物の住処が判明した日から、ネッター医師は無断欠勤を続けている。


 そもそも、ネッター医師は勤労意欲に乏しい人らしい。『眠り病』という緊急事態があったから、ここ数か月は真面目に出勤していたけど……それが、非常に珍しいことなんだとか。


 そんなネッター医師に対して文句の声が出そうなものだけど、医院の中に文句を言う医師は一人もいない。


 なぜなら、彼は優秀だから。


 疫学課の仕事は、情報を解析して、そこから重要なものを抽出すること。ネッター医師は、その分野における天才だ。


 二十年あまりのキャリアの間に、疫病の拡大を複数抑えただけでなく、農作物の疾患を媒介する新種の昆虫の発見、海賊の出現予測、金山の発見など、数多くの功績を積み上げているんだとか。


 その功績によって、帝国から準男爵の一代爵位まで与えられているくらいだから、俺が思ってた以上に凄い人だったらしい。


 その頭脳をぜひとも貸してほしい――というわけで、俺は調査室にやって来ていた。女性が一人だけいて、一心不乱に羽ペンをわら紙の上に走らせている。


 声をかけようとして、そういえばこの人の顔も名前も知らなかったことを思い出した。


「すみません」


 女性の傍まで近付いてみたけれど、全く気付いた様子がない。……少し考えて、俺は女性の肩に手を置いた。


「ひッ!?」


 大げさに肩を跳ね上げて、女性は羽ペンを取り落とした。


「ななっ、なんでしゅかッ!?」


 振り返った女性は思っていたよりもずっと若かった。年下かもしれない。顔を真っ赤に染めて、額に汗を玉にしている。


「あの、ネッター先生がどこにいるか知っていますか?」


「……先生です、か?」


 「え、えっと……」とかモニョモニョ言ってから、少女は俯きながら呟いた。


「たぶん……い、家にいると思います。その、先生に用事があるなら……伝えておきます、よ?」


「できれば直接お会いしたいのですが、可能でしょうか?」


 わざとジッと顔を見つめながら言うと、少女はゆっくりと頷いた。



 ――



 少女――ニーナと一緒にマエノルキアの街を歩くこと十数分。


 中心部から少し外れた、閑静な場所に辿り着いていた。この辺りは住宅街となっていて、マエノ医師とエルシアさんの家もすぐ近くにあったはずだ。


 ニーナが足を止めたのは、平屋の一軒家の前だった。壁は白塗りで、屋根は群青色。全体的に落ち着いた雰囲気の外構えだ。


 ニーナは懐から鍵を取り出すと、玄関扉の鍵穴に差し込んだ。


「……先生、帰りました」


「ああ、今日は早かったですね。どうかしたので、す……なぜあなたが僕の家にいるんですか」


 玄関を開けると、すぐに居間になっていた。


 安楽椅子に座るネッター医師は、不快げな表情を浮かべている。


 椅子は、薄く成型した木板を編み込んで作られているようで、風通しが良さそうだ。同じ素材で足置きまで作られていて、そこに裸足の両足が乗っかっている。


 ネッター医師の服装はラフなもので、木綿か何か、柔らかそうな生地の半袖半ズボンだ。


 太腿に乗せていた分厚い本をパタンと閉じると、ネッター医師は足置きの脇に置かれていたサンダルに両足を突っ込んだ。


「アル神官、あなたに僕の家に来訪する許可を与えた覚えはないのですけどね。いいですか、ここは私の城です。呼んでもいない人間に――」


「いえ、その……」


「……先生、私が呼んだんです」


 ニーナが言うと、ネッター医師は渋い表情を浮かべた。


「どういうことですか?」


「あの……先生に会いたい、って。だから、その……」


「僕に?」


 ネッター医師はニーナの言葉を遮って、俺へと鋭い視線を向けた。


「はい。ネッター先生にご相談したいことがありまして」


「どうして僕がそんなものを聞く必要があるのですか? 帰ってください」


 ネッター医師が扉を閉めようとするので、俺は扉の隙間に足を突っ込んだ。


 そんなことお構いなしに――というか、むしろ勢いを増して、ネッター医師は力いっぱい扉を閉めようとした。


「あーたった。痛いですよ先生。足を骨折しちゃいました」


 棒読みをする俺の顔を、ネッター医師は憮然とした表情で見つめる。俺は顔に微笑みを張り付けながら、ネットリとした口調で続けた。


「少しくらいお話を聞いてくれてもいいでしょう? 私も本気ですから、聞いてくれるまで帰りませんよ」


 しばらく互いに見つめ合っていると……ネッター医師は大きくため息をついた。


「強盗と大して変わりませんね。ただ、家の中に入れるつもりはありません。話は調査室で聞きますから、外で待っていてください」



 ――



「――という状況です。アトラス先生にも診てもらったのですが、治し方が分からないと言われまして……ネッター先生の知恵を貸してもらいたく、ご自宅を訪ねさせてもらいました」


 所々質問を挟みながら、ネッター医師は最後まで案外真面目に聞いてくれた。


 固唾を飲んで待っていると、油で固めた紺髪をテカらせつつ、ネッター医師は口を開いた。


「アル神官がその症状に悩み始めて、まだ一ヶ月程度しか経っていない、という認識で正しいでしょうかね?」


 フレイさんの折檻から……うん、まだ一月は経っていないはずだ。


 そのことを伝えると、ネッター医師は偉そうに足を組んだ。


「そもそもの話ですが、僕は疫学の専門家であって、臨床の専門家ではありません。それはアトラス先生の領域です。

 彼が分からないと言うのであれば、僕に相談するのは筋違いというものです」


「そうですか……」


 隣のソファーに座っているイプシロンと顔を見合わせて、互いに軽く頷き合う。


 もちろん、こういうことは想定していた。だから、イプシロンと相談して、今後のプランは二つ考えてある。


 プランAはネッター医師が解決策を知っていた場合。それが駄目みたいだから、今後の方針はプランB。


 プランと言ってしまっていいのか微妙だが……まあ、単純に言ってしまえば、諦めるというプランだ。


 イプシロンが言うには、『眠り病』の原因を特定し、魔物の位置を特定しただけでなく、行方不明の神官の発見と、錯乱した聖官の無力化――これだけだけできたら、初任務としては上々らしい。


 あとのことは別の聖官に任せても構わないだろう、と言われている。


 ここまで来たら最後までやり遂げたかったが……俺の状態が治らないのであれば仕方がない。


 俺はどこかホッとしたような気分で、ネッター医師に頭を下げた。


「わざわざ自宅まで――」


「ところで僕は昔、ポルトー病という疾患を調査したことがあるのですが」


 ポルトー? なんだ突然。


「ポルトー病……聞いたことがあります。たしか、ポルトー金山でのみ見られる風土病ですよね?」


 ポルトー病どころかポルトー金山さえ俺は知らないが、イプシロンとネッター医師にとっては常識らしい。ネッター医師は小さく頷くと、


「その際に鉱山夫から聞いたのですが、やはり鉱山での仕事は危険が多いようですね。

 落盤や死気で実際に亡くなる方、あるいはそれに近しい経験をする方なんてのは、大して珍しくありませんでした」


 ネッター医師は長い足を組み替える。


「そのような経験をする方の中には、ある症状を呈する方がいるらしいのです。

 鉱山の近くへ行くと、全身が震え、汗が吹き出し、時には気絶さえしてしまう……鉱山夫の間では、この症状を『山に魂を奪われた』と表現するそうですよ」


 それって――


「アル神官の場合だと、水に魂を奪われたことになるのでしょうかね?」


 ネッター医師はわざとらしく口の辺りを触った。


「ところで、少しお腹が空きましたね。外の屋台から、いい匂いが漂ってくるせいでしょうか?」


「どうぞ」


 イプシロンの手に魚串が握られていた。どうやら、外の串を転移させたらしい。


 ネッター医師は少し驚いた顔をしつつも、イプシロンの手から魚串を受け取った。


 俺とイプシロンがまんじりともせず見つめる中、ネッター医師は焦ることもなくゆっくりと魚串を味わっていた。


 一分ほどで食べ終わると、ネッター医師は空っぽの串をイプシロンに渡して、


「……鉱山夫たちの間では、山から魂を取り返す方法が口伝されていました」


「それは?」


 イプシロンが身を乗り出して聞くと、ネッター医師はニヤリと笑った。


「お二人は催眠術というものをご存じですか?」



 ――



「はい、アル神官。僕の人差し指を見てください」


 スッと、ネッター医師は右手の人差し指を一本立てる。その先端部分を見つめていると、ゆっくりと人差し指が左右に振られ始めた。


 それを追いかけて、俺の眼球も左右に振れる。十数往復それが繰り返された時だった。


「終了です」


 突然言って、ネッター神官は腕を下ろした。


「これでアル神官は、もう水が怖くないはずですよ」


 えっ、これで終わり? 全然何か変わったように思えないんだが。


 ……まあ、いいや。終わったんなら、早くこんな窮屈な体勢から解放してもらおう。


 催眠術に必要なことだと言われたので、俺は体中を荒縄でグルグルにされていた。


 巻いたのはイプシロンだ。ネッター医師の指示のもと、かなりきつく締めてくれたので……少し息が苦しい。


「すみません、ネッター先生。この縄、解いてもらっていいですか?」


 船上には俺とネッター医師しかいない。


 催眠術には術者と被術者以外は邪魔になるとのことだったので、イプシロンには浜辺で待機してもらっている。


「駄目ですよ。ここからが本番ですからね」


「えっ、でもさっき終わったって――」


「これが本番です」


 トンッ、と。


 ネッター医師は、軽く俺の胸を押した。


 見事に身体の芯を捉えた、悔しいが見事な一撃だった。体中を荒縄で固定された状態では成すすべもなく……身体が傾いていく。



 ○●○



 目が覚めると、俺の身体は海中にあった。


 何度も、何度も、何度も、何度も――俺は気を失ったらしい。


 あまり覚えてはいない。覚えてはいないけど……何度目かに目が覚めた時、俺は海面からネッター医師の顔を見上げていた。


「アル神官、もう慣れましたかね」


「……」


「山から魂を取り返すには、山に覚悟を認めてもらう必要がある――と、彼らは言っていました。

 アル神官と同じ状態になった鉱山夫は、遅くとも一ヶ月以内に、鉱山内に一昼夜縛り付けられるそうです。

 そんな野蛮な方法、所詮は田舎者の言う戯言かと思っていたのですが……案外馬鹿にできないものですね」


「……」


「今の内に言っておきますが、恨まないでくださいね。どうにかして欲しいと言ったのはアル神官自身なのですから。むしろ感謝して欲しいくらいです」


「……」


「聞こえていますか?」


「……はい」


「もう少し、そうですね……あと一刻程その状態でいてもらいましょうか。そうすれば、もう症状は改善していると思います。

 では、僕は少し寝ますから静かにしておいてくださいね。一刻経ったら起こしてください」



 ○○○

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